風が騒ぐ。木々の葉っぱ草の葉っぱが跳ね返って裏を見せている。騒ぐ風の中に出たら、風邪を引いてしまいかねない。一日が夕暮れる。日が落ちる。今日から10月。裏の藪のあたりからは百舌鳥の鳴き声がする。気温26・6℃。
でも、畑に出る。秋野菜の種蒔きをしたところに、水遣りの仕事がある。仕事をすれば、魂が祝福をしてくれる。
風が騒ぐ。木々の葉っぱ草の葉っぱが跳ね返って裏を見せている。騒ぐ風の中に出たら、風邪を引いてしまいかねない。一日が夕暮れる。日が落ちる。今日から10月。裏の藪のあたりからは百舌鳥の鳴き声がする。気温26・6℃。
でも、畑に出る。秋野菜の種蒔きをしたところに、水遣りの仕事がある。仕事をすれば、魂が祝福をしてくれる。
それはできないことだった。望んでも出来ないことだった。
望んだらできる、という謂われもあるんだけど、わたしの場合には、それは他人様の謂われで終始した。
いやいや、我が人生には、できないことがいっぱいいっぱいあった。無論、できることもあった。
出来たことに焦点を当てていたら、不満足は起きない。できないことに矢当てをしたら、常に的外れとなる。
*
両用ある。どちらでもいい。好きな選択肢でいい。
できたことを迎え入れていっしょに祭太鼓を叩いていてもいい。できなかったことを思い起こして悔しい思いに暮れて涙してもいい。
*
「三千世界の烏を殺し、主と昼寝がしてみたい」これはお馴染みの都々逸。ガアガアがなり立てるカラスどもを追っ払って、好きなお方と昼の日中まで抱き合っていたい。主は花魁の旦那様か。此処は男の女が求め合って暮らしている三千世界である。
ま、都々逸は都々逸なんだが。ふふふ、男どもも女どもも、それができずに、何千何万何億があえなく死んで行ったことだろう。
里芋は英語ではTARO。タヒチ語マウイ語らしい。タロイモが原種だからだろう。調べてみてやっと分かった。ターロウと読む。アクセントは前にある。
粘っこくて、子沢山で、髭もじゃで、茎のテッペンにでっかい葉っぱを風に揺らして、ぎんぎら白銀の朝露を宿らせて、いかにもいかにも古生代植物って感じがする。
もうすぐ正午です。気温は26・5℃あります。曇ったり晴れたりしています。今日から10月です。幾分か過ごし易くなったように感じられます。
*
老人のわたしは暇です。暇、暇、暇です。無職ですからね、仕事らしいことを、何にもすることがありません。いつも自由です。何をしてもいいけど、何をしなくてもいいのです。
老人の方がみんなこうした暇を持て余しておられるわけではないと思います。重要人物で、回りからいつもお声が掛かって、する仕事がいっぱいあって、忙しくしておられるかたもたくさんおいででしょう。
わたしにはそれがありません。一日、ごろんごろんとしていていいのです。
いやいや、それがイヤだというのではありません。これでいいのです。ごろんごろんは、いいのです。そうしていられるなんて、有り難いことです。
でも、ごろんごろんが長く続くと退屈を覚えます。すると、何かをしなくてはいけなくなります。これを見つけるのがタイヘンです。見つけても、すぐにそれに取り掛かるわけではありません。怠け心との葛藤があります。
*
今日は、お昼から畑に出て、枯れてしまった白菜を抜いて、新しい苗に植え替えてあげようと思います。それは30分もあれば済んでしまいます。退屈男の、その後のことはまだ未定になっています。
今日は朝から畑に出ました。畑は道路沿いにあります。秋野菜のいろいろの種類の、種蒔きをして遊びました。どれも少しずつ。近所のAさんが通りかかられました。スクーターを降りて来られました。それから延々とお喋りが続きました。わたしよりも一歳年上の方です。幼なじみです。お喋りが止まらないので、作業が進みません。でも、どちらからも、どこで話を打ち切っていいか分かりません。こんなこともあるんですね。Aさんは女性、わたしは男性。共通する話題が乏しいのに、こうです。近所に住んでおられても、もう長いこと、会ってなかったからでしょうね、話が長く長くなったのは。とうとう種蒔きを途中で止めてしまいました。
午後からまた出直しです。
今日から10月です。畑に行って、里芋の初掘りをしました。5株だけ試し掘りです。
赤芋です。洗って皮剥きをしました。煮物用と、味噌汁用に切り分けました。
今夜はこれで今夜は里芋の料理が食べられそうですよ。初物が食べられます。嬉しいです。
あとは、貯蔵します。おいしくて、明日また食べたくなるかもしれません。