夕方の6時10分です。すっかり暗くなっています。
今日は11時からドライブをしました。コスモスを見ました。ススキを見ました。
楽しいドライブになりました。行きがけは山間部を走りました。帰りは町中を経由しました。
16時半ほどに帰って来ました。無事に帰ってこられました。
帰宅後は、畑に水遣りをしました。秋野菜のあれこれの種を蒔いたところに。
夕方の6時10分です。すっかり暗くなっています。
今日は11時からドライブをしました。コスモスを見ました。ススキを見ました。
楽しいドライブになりました。行きがけは山間部を走りました。帰りは町中を経由しました。
16時半ほどに帰って来ました。無事に帰ってこられました。
帰宅後は、畑に水遣りをしました。秋野菜のあれこれの種を蒔いたところに。
世世所生 せせしょしょう 世世に生まれん所に
見仏聞法 けんぶつもんぽう 仏を見たてまつり 法を聞いて
信受教誨 しんじゅきょうけ 教誨を信受せん
妙法蓮華経 随喜功徳品(ずいきくどくほん)より
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あなたが何度生まれてきてもその所において、あなたはかならず仏を見ることができるでありましょう。そして仏の法(ダンマ)を聞いて、即時に、教えの信(まこと)をそのまま信受することができるでしょう。
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随喜功徳品の一部分だけを抜粋しました。
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ここだけで、わたしは腹一杯になりました。我がことのように嬉しくてなりません。
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ここでいう「あなた」は、法華経の行者です。法華経を信じて修行をしているお弟子たちです。仏の教えを聞いて随喜して、うれし涙を流しているいるお弟子さん方です。法華経を説いているのはお釈迦様です。
お釈迦様が妙法蓮華経の経典を説いておられます。ここにいるわたしにも説いておられます。それが経典を読むということです。わたしに説いて下さっているのだと受け止めると、わたしも即時に法華経の行者に加えられます。
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わたしを乗せているわたしの肉体はやがて死にます。この世を後にします。しかし、それで終わりではありません。わたしの進歩は続いて行きます。わたしは進歩を促されて何度も導かれて行きます。
その度に仏に出遭います。仏の教えを受けます。そして随喜が与えられます。「此処に生まれてきてよかった」「仏に出遭えてよかった」「仏の法を聞くことが出来てよかった」とわたしは言います。そしてそのようにわたしを導いて下さった仏様を感歎し称賛します。
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・・・というように、わたしは聞き取ってみました。これはわたしの解釈です。間違い解釈かもしれません。
椎茸が、椎茸の原木に、たくさん生まれています。赤ん坊です、まだ。つぶつぶしてて、つぶらです。
原木は、日が余りさ射さない日陰に置いてあります。夕方、ホースで水掛けをします。
来週になれば彼ら彼女らはりりしく逞しく育ちます。若さの過程がまぶしいです。
傷つけ合ってどうする。互いに傷つけ合って憎み合ってどうする。われらは此処を去って行く者。そのしばらくを此処にいる者。憎み合ってどうする。罵り合ってどうする。刃を向けてどうする。此処はそういうことをするためにあるのではない。
その真反対だ。愛しみ合う処だ、此処は。たまゆら此処に生まれて此処に暮らしを立てられることを、感謝する処だ、此処は。
此処へ来た者は、此処を去って行く者。そのしばらくを此処にいて、愛しみ合うには、短すぎるけれど。
行く秋を行かせるままにすまじとぞ法螺貝吹ける蔦・櫨・もみじ
薬王華蔵
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行く秋を、その意図を尊重してどんどん行かせたらいいんですが、どっこい、そうするとすぐに霜が下りて雪が降ってしまいます。その隙間をついて、法螺貝吹いて最後の抵抗運動をしているのが蔦や櫨やもみじです。
「そうはさせないぞ」は小さな反抗心ですけど。このお爺さんも老いていく我が身にささやかな抵抗運動を試みています。
でっかいでっかい揚羽蝶が来ている。庭に来ている。夏西洋朝顔の、たくさんの花を廻っている。
夏が終わろうとしている。夏の揚羽蝶が最後を飾って、ひらひらひらひらと大きく舞っている。
「もうすぐお別れです、わたしとはお別れになるんですよ、みなさんいいですか、わたしは此処を去って行きますよ」などとお喋りをしているようにも見受けられる。
仏様だとか神様だとか言って「様」をつける。日本特有の現象かもしれないが。
尊敬の意味合いが込められているからだろうが、「様」をつけるとそこに親しみが湧いてくるからなのかもしれない。
擬人化してしまって、われわれと同属の人間にしてしまう。高い位置から下ろしてきていっしょの大地に立ってもらう。仲間意識を感じられるようにしてしまう。
「様」は、そういうハタラキもしているような気がする。違う階級の、高い高い存在ではなく、声を掛ければ直ぐに聞いてもらえるような近さに置く。「お父様」「お母様」にしてしまう。そうやってわたしの身近なサポーターにしてしまう。
そして会話をする。悩みを打ち明ける。聞いてもらう。
「様」は、警戒感を持たない。親近感にする。命令を下す正義者や聖なる高みにいる者ではなくて、同じ高みにいてもらうようにする。それで擦り寄って安堵する。「様」は、仏様神様だけでなく、いろんな存在に被せて、安心を得ようと図る。
おお、やっとお日様だ。東から朝の日が射して来た。射して来た光の舌先の分だけ、明るくなっている。雀が、舌先に来て遊んでいる。
夢をよく見る。多夢症(これは僕の造語)なのかもしれない。一晩中、夢映画館のスクリーンが夢映画を映している。プツンプツンと切れてしまうから、古い映画なのかもしれない。
たしかに古い。映画の中の登場人物が9割方は死者だ。昔に死んでいる人だ。昔仲が良かった職場の仲間だったりする。先輩後輩、あるいは同級生だったりもする。父母、弟だったりもする。
で、ふっと、ああ、そこへ行けば会えるんだろうなあ、きっと、と思う。
あるいは、もしかしたら、死者は死んでいると見せて、死んでいないで、いつも近くにいて生きているのかもしれない。暮らしを一緒にしてくれているのかもしれない。などとも思う。
ともかく夜の夢舞台ではいっしょに過ごしている。ドラマドラマドラマを演じてくれている。
風景の一つ一つに風景のこころのあるが嬉しや 九月
薬王華蔵
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今日のS新聞読者文芸、短歌の欄、江副選で、僕の投稿作品が入選していた。
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入選は滅多に滅多に滅多にない。それだけ嬉しくなる。
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風景はみな一つ一つ心を持っている。姿はこころだ。そのままこころだ。
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新しい九月になっている。風景ががらりと変わる。変わらせたのは、こころだ。
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その風景の新しい心を受け止めて、わたしも新しくなる。いそいそとなる。
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わたしが故意に受け止めなくても、風景のこころが輪郭を広げて、わたしをその内に包み込んでしまう、という感じがする。