硝子絵展を見に行って来た。仏像が描かれていた。理想的な菩薩様や如来様が美しく描かれていた。美しいと思った。見入った。それからいろいろと考えた。
仏像は仏陀の像である。仏陀がイメージされて形になっている。仏像を描く人が、仏様を美しくイメージしていると、仏様は美しい形を出現させる。
美しい仏様の形に見入る。そこが仏の世界の入口になっている。そこから仏の世界に我が身を入れて、進んで行く。仏様のこころに近づいて行く。硝子絵の作者の顔が仏様を彷彿させていた。安堵をもらった。
**
では、醜い仏様はおいでにならないか。おいでになるはずである。醜いこころに堕ちている人間がいるところには、そこへ下りて来た醜い仏様がおられるはずである。醜さを分け持っていて下さっているはずである。
静かに悟りを得ておられる仏様は美しい。美しさの到達点である。
でも、多くの人間は、其処までに至る途中途中で、煩悩が燃え上がって苦しんでいる。苦しんでいなければならない。そこを救済する仕事を自認しているのも仏様である。
苦しんで苦しんで醜く醜くなっている仏様がいて下さって、いっしょに歩みを共にしておられるはずである。
美しい仏像展の隣に、醜い醜い仏様の仏像展があるとすれば、しかし、やはり、来場者は美しい仏像展の方に吸い寄せられてしまうかもしれないが。
人は仏様になるという理想の到達点を見失ってはならないが、いつもその中途にいて地獄の火に焼かれているのだ。