湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
久保田万太郎 (1889~1963)
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湯豆腐は冬の季語。寒い冬を湯豆腐があたたかくしてくれる。湯豆腐の鍋は小さな鍋でいい。昆布を四角に切って鍋の底に敷く。白い豆腐を下ろす。そこに白葱をいれる。白菜を加える。煮立てる。湯気が立って部屋に流れて行く。
人はものが、その人のそのときの心境で、いろいろに見える。電灯の明かりが湯煙を照らすと、それがゆうらりゆらりして、儚く頼り気がなくい。作者には、まるで死が迫っている人間の、最後のうすら明かりに見えて来たようだ。
久保田万太郎は最初の妻に死なれ、2番目の妻にも死なれ、息子にも先立たれ、挙げ句、一週間前には溺愛した元芸者一子にも死なれて、意気消沈して、憔悴していた。悲しみが深まっていたのだろう。食べている湯豆腐にも、人間の暮らしの儚さ頼りなさを感じたのか。この俳句の後、半年して自らもこの世を去って行った。喉に食べ物を詰まらせて。
「うすらあかり」は彼自身の投影だったのかもしれない。文学座を立ち上げたほどの華やかな劇作家なのに、老齢の身の寂寥感がこの句を作らせたようだ。この句は、俳人久保田万太郎の最高傑作の一つに数えられているらしい。
げっそりとなってしまった師を気遣ったお弟子衆が、師を食事に誘った時の作品とも言われている。お弟子衆も彼の孤独を癒やせなかったのだろうか。豪勢な食事も彼には湯豆腐に等しかったのかもしれない。
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寒くなったので、冬の季語の俳句を引っ張り出してきました。でもこの句では、残念、あまりあたたまれなかったようだ。