後半の「父の教え」では、泣かなかった。父への恨み節で満ちていたからである。
飲んだくれの父、遊び者の父、家をかまわない父、挙げ句は女狂いする父。女狂いしても求める愛情に行き着けない男たちの無様さ。子どもたちは母を不憫がる。
後半の「父の教え」では、泣かなかった。父への恨み節で満ちていたからである。
飲んだくれの父、遊び者の父、家をかまわない父、挙げ句は女狂いする父。女狂いしても求める愛情に行き着けない男たちの無様さ。子どもたちは母を不憫がる。
子どもたちは母を思う。作中の男どもは死ぬまで母を思う。老いても老いても母のことを切々と思っている。
おとこたちは乳を飲みたがる。いつまでたっても飲みたがる。母に愛されたくてたまらないのだ。
読者のわたしも、すぐさま荒野に飢えた狼の一匹になる。吠える。人間が終わるまでは人間の愛に包(くる)まれていたいのだ。
1冊は昼間の内にもう読み終えた。分厚い随筆集である。でも文字を大きくしてある。
この1冊は「母の教え 父の教え」がテーマだ。母の教えのところでは何度も泣いた。一人悦に入って朗読をしていたから。で、声が詰まった。先が読めなくなった。涙がぽとり零れて来る。
こどもたちは夏休みに入っている。お母さんが図書館へ連れて来ている。図書館の奥に一室がある。ここは子供コーナー。こどもたちで溢れている。そこを通過する。杖の音を立てて。黒い杖には黒い音がする。ギブスをした醜い老爺を、彼らは異星人のようにして見遣っている。
読み終えた本を返却し、また新しく3冊借りて来た。持ち運びができるように、布の袋を用意してもらう。ギブスの足を見かねて、司書の方が車まで運んできて下さる。親切の付録にも感謝する。
昨日、昼から、足にギブスを当てて包帯でグルグル巻きにして、その上に分厚いビニール袋を覆い、障害者用の黒い厳つい杖を突いて、思い切って外出。市立図書館に行って来た。
読書に耽っている美しいおんなの人を垣間見た。ノースリーブの細い腕の、肌の白さがまぶしかった。
人生には時折こういう付録が付く。ふっとだが、世界が夢になる。
眠気が来るまで、いつもそうするように、明かりをつけて本を読んでいるしかない。黙って本を読む。もう音読はしない。この老爺は時折音読をして楽しむ。そういう癖を持つ。読み方で様々な味付けになる。ゆっくり読む。噛みしめて読む。するうち時間に溶けていた文章がくっきり明るく浮かび上がる。
暑い。汗を掻いている。シャツを捲ってタオルで、べっとりした汗を拭き上げる。冷房の温度を低める。1℃だけ。
新聞が配達されてくるのは一紙が4時前。もう一紙が5時前。それにもまだ間がある。
山里の真夜中は物音がしない。風が渡る葉擦れの音もしない。恋が成就してしまったのだろう、いまやホトトギスも鳴かない。独りの老爺がひとり目を覚ましているきりだ。
7月31日午前2時10分、ただ今。恐い夢を見ていた。目が覚めた。ああ、夢でよかった。そんな恐い夢からは早々と引き揚げるべし。でも、どうなんだろう? 案外、行きたいから行ったのかもしれない。なあんだ、夜は明けてなかったのか。夜明けまでまだたっぷりある。どうしよう。
母に抱かれているわたしを思い出そうとするのだが、思い出せない。それはそうだろう。親が子を抱くのは物覚えがつく前のことだろうからだ。小学校にあがって、もしも優しく愛しく抱いてくれようとしたら、わたしは羞恥心を覚えて、そこら中を逃げ回ったことだろう。弟の兄にあるまじき振る舞いとして、わたしみずからによって排斥されたことだろう。父から男に成る教育を受けていたのだ。
四つ下の弟は、そのくせ、しょっちゅう母に甘えて、胸のおっぱいにむしゃぶりついていたのだった。母の膝の上に兄のわたしの居場所はなかったのである。母だって、それくらいの男らしい気概を、この世に早く生まれた兄のわたしに見出すことで安堵を覚えていたはずだ。わたしは甘えたくてもそれが出来ない位置に下がって、あるいは下げさせられて、ただただ母と子の呼吸を計っていたのである。
勿論その後に於いても同じで、わたしが母に抱かれることはついぞなかった。なかっのだから、思い出しようがないのである。でももういいだろう。いい年を取ったのである。羞恥心ももうかなぐり捨ててもいいだろう。若い母に思い切り抱かれてみたい。そういう思い出の中のわたしを描いて、差ししまったわたしの最後の時間までのひとときをとろとろ眠っていたい。
7月は明日まで。すぐに8月だ。海も山も賑わいを見せる。海にも行ってみたい。山にも行ってみたい。躰がついて行けないなら、ひとり心だけでも。そういう便利な心気球を発明してくれないかなあ。海をスウイ、山をスウイして飛び回ったら、さぞかし気持ちいいことだろう。
近くでは大輪の向日葵🌻が咲き誇る。連日のこの暑さをものともせずに、花の輪が昨日よりも今日、今日よりも明日と膨らんで、成長を続ける。まるで凛々しい若者のようだ。逞しい。痛みが薄れている僕は、今日はその若者になって、はしゃいでいる。心だけでなのだけれど。