あと9日とは言うが、開会式前の競技として「ソフトボール-福島」「女子サッカー-札幌・宮城・東京」までは、丁度1週間となった。
昨日は「静かに」オリンピック選手村が開村。
式典もなく、盛り上がりはない。
「有観客」の予定の「宮城-サッカー」は、宮城市長が「反対」に。
もう「政治的ごたごた」で振り回すのは止めてくれ!
あと9日とは言うが、開会式前の競技として「ソフトボール-福島」「女子サッカー-札幌・宮城・東京」までは、丁度1週間となった。
昨日は「静かに」オリンピック選手村が開村。
式典もなく、盛り上がりはない。
「有観客」の予定の「宮城-サッカー」は、宮城市長が「反対」に。
もう「政治的ごたごた」で振り回すのは止めてくれ!
「弘前ねぷたまつり」の中止について
新型コロナウイルス感染症の感染予防と感染拡大防止の観点から、令和3年8月1日(日)から7日(土)に開催を予定していた「弘前ねぷたまつり」を中止することとなりました。
開催を楽しみにされていた皆さんには、ご迷惑をおかけしますが、ご理解いただきますようお願いいたします。
*http://www.city.hirosaki.aomori.jp/kanko/2021-0527-1524-397.html より
「わがままいちご」
小泉農園
神奈川県川崎市宮前区にて代々約200年、環境保全・減農薬型のおいしい野菜作りに務めています。メインは2005年にブラント化した「わがままいちご」。そして昔ながらの季節の路地野菜と、それらを使った漬物、焼き菓子、ジェラートなどの加工品も手作りしてます。どうぞよろしくお願い致します。
*http://nouka.tv/koizumi/ より
「ほおづき市」
7月9・10日は「ほおづき市」。
この「ほおづき市」とは・・・
四万六千日の縁日にあたる7月10日とその前日に東京の浅草寺(せんそうじ)境内に立つ、ほおずきを売る市。
季語としては「四万六千日(しまんろくせんにち)」が親季語となる。
その子季語として、十日詣/六千日さま/鬼灯市がある。
SAKE COMPETITION 2019
【純米酒部門】GOLD 第2位 「美丈夫 特別純米酒」
日本酒ほど水の影響を受ける酒はありません。
酒を醸す微生物たちが存分にその生命力を発揮するのも、米がその個性を花開かせるのも銘水あってこそのこと。美丈夫のベースとなる仕込み水は、高知県の県木・魚梁瀬杉のふるさと魚梁瀬地区甚吉森を源とする奈半利川の伏流水。樹木の緑が美しい森の中、清流がしぶきを上げる涼やかな渓谷など、豊かな自然の風景の中を巡り巡って、蔵へと辿り着きます。
この清冽な水をベースに馥郁たる酒を醸す。そのために必要なのは、良質の原料米です。
「最高の米で最高の日本酒を造りたい」という思いから美丈夫が厳選したのは、酒米の最高峰である兵庫県産山田錦。中でも東条の特A地区指定の田んぼで収穫された酒米から生み出される日本酒のすばらしさを多くの人に伝えたいと願っています。
同時に日本酒のテロワール、といった視点からは、地元高知県で契約栽培される吟の夢、愛媛県の松山三井など、それぞれの米の特性を生かした醸造にも力を注いでいます。
酒造りに携わって33年。これまでにひしひしと感じるのは、仕込み水の重要性です。日本酒の原材料はおよそ7割が水。つまり、その酒の7割はその蔵の仕込み水なのです。
そして、美丈夫の酒造りの一番の特徴は、この仕込み水が国内屈指の超軟水であることです。超軟水から生まれる酒は言うなれば、飲むが易し造るは難し。扱いが難しくも、美丈夫の清らかな個性を形づくります。この地が育む仕込み水の短所を補い、長所を伸ばして行くことが、これからの美丈夫の酒造りだと考えています。
山と森と渓谷を通ってきた清冽な水。
田んぼで黄金色に実る稲穂からの米。
酒を醸すための蔵へは、自然からの恵みが豊かに運ばれてきます。米を酒へと変える手仕事を重ねるのは、蔵の人間たちですが、天地の恵みがなければ酒造りの仕事は始められません。この土地だからこその恵みの数々を、旨い酒に変えて地元の人たちに戻したい。それが美丈夫という銘柄を誕生させた時の願いでした。
美しく、強く、そして優しく。美丈夫を醸す蔵として目指すのは「旨い酒を造る」という唯ひとつのことです。そのために、することは限りなくある。そんなふうに考え続けています。
有限会社 濵川商店 代表取締役 濵川 尚明
有限会社 濵川商店 高知県安芸郡田野町2150
濵川商店のラインナップ
「美丈夫」夢許-純米大吟醸・華-純米大吟醸・薫-大吟醸・鄙-純米大吟醸・特別純米 など
「山形青菜-やまがたせいさい」
【産地】県内全域
【特徴】タカナの一種。一株が500g、丈が70~80cmと大きい。幅広の葉肉は厚くて軟らかく、また漬け込んでも軟化しにくく歯ざわりの良いのが特徴。
【食味】独特の辛味と食感があり、青菜漬けやおみ漬けなど、山形の郷土料理として利用される。
【来歴】明治41年に奈良県から種子を導入し、農事試験場(現・農業総合研究センター)で試作した結果、品質が優れていたことから栽培が始まった。
【時期】10月中旬~12月上旬
*https://tradveggie.or.jp/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e4%bc%9d%e7%b5%b1%e9%87%8e%e8%8f%9c%e2%80%9506-%e5%b1%b1%e5%bd%a2/#i-11 より
山形青菜とは 更新日:2020年11月18日 公開日:2018年10月9日
山形青菜(やまがたせいさい)とは、山形県内で広く栽培されている漬物用の在来野菜です。
山形青菜の特徴
高菜や野沢菜の仲間
山形青菜はアブラナ科の野菜で、からし菜系の一種です。
同じアブラナ科である九州の高菜や、長野の野沢菜などは全国的にも有名ですが、山形の青菜も引けを取らない美味しさです。
産地は山形県南地方を中心に広く栽培されています。
明治時代に栽培が始まった山形の在来野菜で、その旬は秋から初冬です。
とっても大きな野菜
山形青菜の大きさ
形状的には高菜に近く、茎が太いのですが、葉は肉厚で柔らかく、ひと株で500g程もあります。
葉の大きさは60センチ以上にもなり、大変大きいのが特徴の野菜です。
どんな味?
何と言っても「肉厚で心地よい食感」と「優しく適度な辛み」が格別です。
個人的には “ゴージャスな野沢菜” といった雰囲気が近いと思います。
その味を活かす食べ方として、豪快な一本漬けの「青菜漬」にしたり、刻んで「おみ漬」などに漬け込まれます。
山形青菜を使ったお漬物
山形青菜を使ったお漬物はこちらです。
おみ漬
青菜漬
初菊(はつぎく)
*https://www.marsho.jp/column/seisai_about/ より
前回の回答
次の四字熟語の読み方を答えてください。
※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。
問1 驥服塩車 -きふくえんしゃ-すぐれた能力を持った人が、能力に見合わない低い地位にいたり、誰でも出来るような仕事をさせられること。
「驥服」は一日で千里走るとされるすぐれた馬に車を引かせること。
塩を運ぶための車を名馬に引かせるということから。
「驥、塩車に服す」とも読む。
問2 墜茵落溷 - ついいんらくこん-人には運不運というものがあり、この世での境遇なども、因果応報によるものではないということ。
問3 渇驥奔泉 -かっきほんせん-勢いが非常に激しいことのたとえ。
または、書の筆遣いに力強さと勢いがあって素晴らしいこと。
「驥」は一日で千里の距離を走ることができるとされるすぐれた馬、駿馬のこと。
「奔」は非常に速く走ること。
のどが渇いて水が飲みたい駿馬が全力で泉に向かって走るという意味から。
中国の唐の時代の徐浩の書を言い表した言葉から。
「渇驥(かっき)泉(いずみ)に奔(はし)る」とも読む。
問4 吐哺握髪 -とほあくはつ-熱心にすぐれた人材を探し求めることのたとえ。
「吐哺」は食べ物を吐き出すこと。
「握髪」は髪を握ること。
春秋時代、周公旦は入浴中でも濡れた髪を握って、食事中でも食べ物を吐き出し、面接を求める人にはすぐに面会して、すぐれた人材の登用に努めたという故事から。
問5 悶絶躄地 -もんぜつびゃくじ-非常な苦しみの形容。立っていることができないほど悶もだえ苦しんで、転がってはいずり回ること。▽「悶絶」は悶え苦しんで意識を失うこと。苦しんで気絶すること。「躄地」は両足で立つことができず、地をはうこと。「悶絶して地を躄る」と訓読する。
今回の出題
次の四字熟語の読み方を答えてください。
※読み方が複数あるものには代表的な読みを答えとして表示しています。
問1 轗軻不遇
問2 鴉雀無声
問3 沐浴抒溷
問4 井渫不食
問5 衆賢茅茹
*漢字検定Web問題集 HP より
*goo辞書・四字熟語辞典オンライン より
「石見焼」
Description / 特徴・産地
石見焼とは?
石見焼(いわみやき)は、島根県江津市周辺で作られている陶器です。
石見焼の特徴は、吸水性が低く強固で、塩分や酸・アルカリに強い素地(そじ)です。飯銅(はんどう)と称される大きな水甕(みずがめ)が有名で、そのほかにも茶器や食器などの小振りな生活用品が多く作られ、酸や塩に強いため、梅干しやらっきょう漬けなどの保存にも適しています。
石見焼には、磁器に近い地元で採れる良質の粘土が使われています。鉄分を含む深い茶褐色の「来待釉薬(きまちゆうやく)」が塗られた製品に加え、アルカリ成分を含んだ「温泉津石(ゆのついし)」を使った「透明釉薬(とうめいゆうやく)」の製品も主力となっています。透明釉薬を塗り、完全燃焼した炎で「酸化焼成(さんかしょうせい)」にて焼き上げると黄土色の製品が完成し、不完全燃焼の炎で「還元焼成(かんげんしょうせい)」にて焼き上げた場合には青色の製品が完成します。
History / 歴史
1592年(文禄元年)~1610年(慶長15年)の「文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)」に出兵した武士が帰国する際に、朝鮮の陶工(とうこう)である「李郎子(りろうし)」を連れ帰り、現在の島根県浜田市や鹿足郡柿木村(かのあしぐんかきのきむら)で陶器を作らせたことが、石見焼(いわみやき)の始まりと言われています。
現在の島根県江津市において、1765年(明和2年)には本格的な製陶法が学び伝えられ、「片口(かたくち)」や「徳利(とくり)」などの小物陶器の製作技術は、周防国(すおうのくに)の岩国藩から招かれた陶工・入江六郎によって受け継がれました。水甕(みずがめ)などの大物陶器の製作技法は、1780年代(天明年間)に備前国(びぜんのくに)の陶工が島根県江津市に来訪し伝授したと伝えられています。
江戸時代末期になると、浜田藩の家老により、製陶業が殖産事業(しょくさんじぎょう)として奨励されたため、島根県江津市一帯は、水甕を中心とする陶器生産の一大拠点として発展を遂げました。
*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/iwamiyaki/ より
暮らしの中で育まれた石見焼の心を、伝統の窯で焼き続ける
古くから登り窯が築かれ、江戸時代には“大甕(おおがめ)”の産地として知られた石見地方。古来からの大はんどうと呼ばれる大甕や小ぶりの水甕を作りながら、時代の移り変わりや人々の生活の変化に対応して、日用陶器を豊富に製造してきた。
大甕の需要が減った今も、大はんどう(大甕)の技法を後に残すために伝統的技法「しの作り」で定期的に大甕を作り、石見焼の心を焼き続ける。
主に藍染めに使用された超大型甕の“大はんどう”
200kgの粘土を使って、形にするまで3人がかりで約1カ月もかかる。その技法は「しの作り」と呼ばれる。腕より太い紐状にした粘土を肩に担ぐようにして、ろくろの上に積み上げ、2人の引き手が綱引きの要領で、息を合わせてろくろの綱を引っ張り、ゆっくりまわしながら、はんどうの底、腰、肩と7~8回繰り返して完成させる。
その独特の製造技法を、現在も伝える数少ない伝統工芸士の嶋田春男(しまだはるお)さんにお話しを伺がった。
「そら、つらいこともあったけど、今はもう忘れてしもたわな。」
古くから、焼き物が盛んに作られてきた江津市近郊では、明治時代に“大はんどう”が量産され、最盛期には100軒を越える窯があった。しかし、昭和30年代には、プラスチック容器と上水道の普及が進み、需要が激減してしまった。“大はんどう”は日常生活では、なかなか見られなくなってしまった。
当時を振り返って、嶋田さんはこう語ってくれた。
「石見焼といえば、大はんどうが代名詞やったんですよ。そりゃ明治から昭和の敗戦くらいまでは、よう売れましたよ。まず当時の生活必需品でしたからね。わしの父親が窯を開けたんが、昭和10年ですから、修行時代を入れて、もう60年以上も石見焼に携わっています。その当時は、とにかく売れて売れて大忙しだったもんです。」
「でも昭和30年代になって、高度経済成長で日本も水道が完備されるようになり、また軽くて扱いやすいプラスチック製品の流入で、パタッと止まってしまいました。まだ若かった私は、全国各地の陶器の産地に勉強に行きました。そんな中で伝統の技法をいかしながらの、傘立てや漬物壷など新しい製品を提案していったのです。」
『はんどうを作る手と食器を作る手は違うぞ。』
「当時は、仲買いさん(問屋)からの情報がほとんどない状態で、もちろんアドバイスもなし。そんな状態ですから、市場の動きはさっぱりつかんでいませんでしたね。でも昭和40年代に民芸ブームがきて、石見焼にもスポットライトが当たり始めたんです。」「でも、ある人にこう言われたんです。『はんどうを作る手と食器を作る手は違うぞ(大物を作る技法と、人の口に入るものを入れる食器を作る技法は違う。甘くみるな。)』と言われたんですよ。」その言葉が、嶋田さんの生来の負けん気に火をつけ、がむしゃらにがんばって、石見焼独特の素朴な風合いと、温かみを持つ焼き物を開発製造することができた。時代の流れに動かされながらも、その石見焼の本流の伝統と技法を頑なに守り、現在も現役で仕事を続ける嶋田さん。『日本の職人ここにあり』という感がある。
伝統と技法は精神とともに継承され続ける
「一言に伝統と言っても古いものにこだわっているだけじゃ、とっくに終わってますよ。わしは親父の後を継いだ2代目やけど、息子の3代目(嶋田孝之さん)、また孫の4代目(嶋田健太郎さん)にもよう言うんですよ。『伝統にあぐらをかくな。市場に支持されることが大切じゃ。死ぬまで勉強やぞ。チャレンジすることを忘れたら、仕事を辞めろ』とね。」
間違いなく嶋田春男さんは、職人としても人間としても超一流の人だ。
こぼれ話
『石見焼』の現存する最古の資料
石見地方では、豊臣秀吉が行った文禄・慶長の役(1592~1610)に従軍した斎藤市郎佐衛門が、朝鮮陶工である李朗子を連れ帰り、唐人窯を開いた記録があります。高取焼や萩焼で発掘された皿や、すり鉢などがこの地方の出土品と類似していることが確認されています。唐津焼・高取焼・萩焼等の文禄・慶長の役の後に起こった窯は、わが国の焼き物の源流をなすもので、陶磁史上貴重な窯の一つであると評価されています。このことは「唐人窯」にもあてはまり、その窯で焼成された遺物は灰釉がかけられていたことがわかります。
石見地方で本格的な焼き物が作られるようになるのは、江津村(現江津市)の森田某が寛暦13年4月(1765年)朝鮮もしくは、同系の唐津技法が周防岩国藩の入江六郎から学び伝えられ、小物技法が石見で生まれ、作製されていたと考えられています。
一方、天明年中(1781年頃)備前の国より、一職工が江津村に来て、粗陶器作り、大物技法を伝授したと歴史書にあります。これら大物と小物の二つの流れが入ってきて、時代の需要にも影響され、良質の粘土を豊富に有する石見地方は、幕末にかけて『石見焼』の根本を確立していきます。
文化・文政時代(1804~1829年)には、日本各地で窯が急激に増大していきました。石見地方でも丸物(焼物)の許可願い等に関する文章や、記述が残されています。
文政2年(1819年)5月「谷戸経塚」が造営されました。この経塚から発掘された一石一経が収められていた甕は、それ以前のものとされますが、『石見焼』の現存する最古の資料として重要です。
*https://kougeihin.jp/craft/0417/ より
昨日から始った「第62期 王位戦 七番勝負 第2局」。
初日が終わって、41手で藤井二冠が封じ手を。
豊島将之竜王は残時間:4:41。藤井聡太王位は残時間:4:57。
「互角」という見立てです。
2日目もかなり時間がかかるのでは?