第20回 2013年4月16日 「博多生まれのピリ辛味~福岡 からし明太子~」リサーチャー:杉山愛
番組内容
福岡を代表する味「からし明太子」。北の海でとれたスケソウダラの卵を原料に、遠く九州の地で明太子に生まれ変わり、日本の食卓に欠かせないものとなった。今ではアメリカに進出するなど海外でも認められつつある。プチプチとした食感と、どんな料理にも合う深みのあるピリ辛味。漬け込み型のからし明太子をここまで発展させたのは戦後の博多の人々。時代のニーズに合わせた商品を作り続けている。杉山愛がおいしさの秘密に迫る。
*https://www.nhk.or.jp/archives/chronicle/detail/?crnid=A201304161930001301000 より
内容詳細が不明なため、勝手に調べてみました。
「辛子明太子」
スケトウダラの卵巣(たらこ)を塩漬け熟成し、塩抜き後に唐辛子・昆布・砂糖・醤油などの調味液に漬け込んで発酵させた惣菜である。釜山の「唐辛子をまぶした塩漬けタラコ」である「明卵漬」が由来であり、ふくやの川原俊夫が日本人向けに製造法を変更し、砂糖を加えるなど味付けの塩辛さを減らして生み出された。ふくやが製造法を独占せずに他企業へ教えたことから日本全国へ普及した。
発祥は、朝鮮半島の釜山の料理の、「ニンニク・唐辛子をまぶした塩漬け発酵したスケトウダラの卵巣」である明卵漬(ミョンランジョッ)である。これを鰹節や砂糖などを用いて、日本人好みの味に改良したことからである。スケトウダラと唐辛子を使う点は同じだが、日本人の製法·味が和風に一定部分改良されている。韓国式と日本式の最大の違いは、日本式は塩度と調味料を非常に弱くすることにある。赤唐辛子を利用する「メンタイコ」は釜山に由来し、韓国では「明卵漬」(ミョンランジョッ、명란젓)と呼ばれ、塩漬けだけを利用する方法は北朝鮮の咸鏡道地方で主に食べられ、これを「白明卵漬」(ペㇰミョンランジョッ、백명란젓)と呼ぶ。
語源
スケトウダラのことを朝鮮語で明太(명태、myeongtae、ミョンテ) と呼ぶことに由来するという。朝鮮王朝時代の日記である『承政院日記』の孝宗三年(1652年)の条に「明太卵」と記載されているのが「明太」の語の初出である。朝鮮王朝時代末期の学者である李裕元が記した『林下筆記』によると、「明太」の語の由来は、明太を釣り上げた明川郡の「太」を氏とした漁師に由来するという。なお、朝鮮半島東南部の方言では、「明太」を「メンテ」と発音する。ただし、現代朝鮮語においてはタラコのことを「明卵」(ミョンラン、명란)と呼ぶため、明太子という表現は日本独自のものである。
なお、日本で「鱈」の字が文書に現れるのは1670年であり、そもそもは「スケト」という呼び名だった。中国では普通話(標準語)ではスケトウダラのことを「黄線狭鱈」(繁体字: 黃線狹鱈、簡体字: 黄线狭鳕、拼音: huángxiànxiáxuě)と呼ぶが、東北官話(中国東北部の方言)ではスケトウダラを「明太魚(明太鱼、míngtàiyú、ミンタイユィ)」と呼ぶことがあり、ロシア語でも「минтай(mintaj / mintay、ミンタイ)」と呼ぶことがある事からロシア起源と言う主張もある。
韓国での明太は日本のたらこと違い辛み付けされており、その為意味としてはたらこ=明太子=スケトウダラの子であるが食品としての味は異なる。 下関や博多をはじめとする西日本の一部地域では、唐辛子を使わないいわゆる「たらこ」を示す言葉として辛子明太子と使い分けられている。
歴史
明卵漬(「メンタイ」「まぶし型」)
昔の朝鮮半島の文献によると、明卵漬の製造は発酵させることをベースとしていた。塩漬けして発酵させた後、トウガラシ粉とニンニクを加えてまぶした。塩漬けさせて発酵させるため、水分が抜けて、タラコの身が引き締まるが、塩辛い味である。ロッテホテルマガジンは低塩で日本人向けの甘めの調味液で漬けた明太子とは異なり、濃度の高い塩で発酵させた「明卵漬」は日本人には塩辛い味と解説している。
日露戦争直後から太平洋戦争中にかけて、鉄道省(後の日本国有鉄道→現・JRグループ)は下関と当時日本領であった朝鮮の釜山との間に関釜連絡船を運航していた。また、中国との定期連絡船も存在し、スケトウダラ(明太魚)の辛子漬け(明太卵漬け)を運んでいた。朝鮮側の連絡船では釜山を経由して、明太の卵巣の辛子漬け(「明卵漬(明卵젓 / 명란젓、myeongranjeot、ミョンランジョッ)」)が下関へ輸入された。
朝鮮半島に住んでいた日本人は明卵漬を「メンタイ」と呼んだ。当時「メンタイ」と呼ばれた明卵漬は、塩漬けにした卵巣に唐辛子を振りかけて作る「まぶし型」で製造されていた。ふくや創業者川原俊夫の孫である川原武浩社長は明卵漬と明太子の差異について、明卵漬は塩漬けにした卵巣に、タレと唐辛子に漬け込まれており、唐辛子やニンニクで漬け込んだ現代の「タラコのキムチ」「タラコのチャンジャ」に近い味であり、日本人には舌が千切れるくらいの辛さであると述べている。
辛子明太子(ふくや開発,「漬け込み型」)
ふくやの川原俊夫が若いころに釜山で食べた明卵漬の記憶を基に、そのままでは日本人受けしない味なため、新たに塩で漬け込む製造法で辛子明太子を開発した。ふくやは「明卵漬」「まぶし形」戦後にそのまま売ろうとしたが、日本人には辛すぎて売れず、新製造法である「漬け込み型辛子明太子」を開発した。それでも辛さで朝鮮半島引き上げ日本人以外には敬遠されたため、調味液を白砂糖や黒砂糖、角砂糖、ザラメ、蜂蜜など出来る限りの甘味を加えたり、酒やかつおぶしや昆布の出汁でうま味やコクも加える試行錯誤をし、「辛子明太子」を開発した。辛子明太子は「明卵漬」のように発酵させる程塩漬けするのではなく、低い塩度で漬けるのが基本である。これにかつおだしや酒、トウガラシ粉、みりんなどを使い、トウガラシ粉以外は日本式の熟成調味料のため、辛さはやや控えめとなった。ふくやは約10年かけて生み出した製造法を独占せずに他企業へ教えた。そのため、日本全国へ明太子が普及した。後に塩漬けにしたタラコへ唐辛子をまぶして作る伝統的「明卵漬」は徐々に減っていき、調味液漬けの辛子明太子形がほとんどとなった。韓国でさえもまぶして作る、伝統的な製造法の明卵漬はほとんどなくなってしまって、逆輸入された日本風の明太子がその位置を占めるほどとなっている。この漬け込みでは「乳酸発酵」を伴う。漬け込みに際しては、各社工夫をして異なる方法や副材料を使用する事もある。
国内外普及と「漬け込み型明卵漬」の登場・伝統的まぶし型明卵漬の衰退
ふくやが製造法を教えたため、その後を追って、1960年代には多くの同業者が設立された。1962年頃にふくやの斜め前と隣の2軒の店が、教えられた製造法で明太子を販売するようになった。1967~68年ごろには製造法を俊夫から教えられた大手の明太子メーカーが次々と開業した。ふくやの社員たちが「商標登録や製法特許を取るべきだ」と訴えると、俊夫は漬物を引き合いに、「漬物にはさまざまな味がある。同じ大根でも白菜でも、漬け方ひとつで味は変わる。家庭ごとでも味が違う。そんな漬物に商標はあるか? 製法特許はあるか? 明太子だって誰が作ってもいいではないか」と説得している]。1975年に山陽新幹線が博多駅まで繋がり、東京博多間全通後に設立された福さ屋が新幹線駅や東京の三越百貨店等へ販路を築き、全国的に知れ渡るようになった。近年では料亭や老舗醤油メーカーなども明太子を扱うようになり、良質の原材料を贅沢に使用した高級品の研究も進んでいる。1980年代には土産物の販売ルート以外にも、百貨店・量販店で広く販売されるようになり、全国でおにぎり・パスタの具として広く利用・販売されている。2007年には、おにぎりなどの加工用辛子明太子の出荷量が、ついに土産用の辛子明太子の出荷量を逆転した。
新幹線開通後に明太子は全国区となったが、2016年にふくやの川原正孝社長は、「ふくやだけが明太子を独占販売していれば、恐らく(日本全国へ)広がらなかったと思います」とし、製造法を他社へ教え続けた俊夫を支持している。
2018年11月辛子明太子(めんたいこ)製造販売「蔵出しめんたい本舗」が、ニシンの卵数の子を辛い調味液に漬け込んだ「数太子(すうたいこ)」を開発。数の子ならではの食感、うまみ、辛さが特長で、おせち料理や歳暮向け高級食品として販売[17]。
ふくや創業者川原俊夫の孫である川原武浩社長も由来である「明卵漬」は、スケトウダラの卵巣を塩と唐辛子、ニンニクや胡麻などと発酵させたものであり、スケトウダラの卵巣版チャンジャと解説している。
ロッテホテルによると、川原俊夫が明卵漬(鱈子のキムチ漬け)は塩辛く、そのままでは日本人受けしなかったため、唐辛子粉、鰹節、酒の調理液に漬け込む方式を開発した。これを「十日恵比須神社大祭」で商売繁盛の日である昭和24年1月10日に「味の明太子」として販売した。
今日では「明太子」は辛子明太子を指す言葉として用いる人が多く、さらには「めんたい」と略されて「めんたいスパゲティー」や「めんたいロック」など九州博多の代名詞としても用いられることもある。これは元々たらこを示す言葉としての「明太子」が使われない地域に、お土産や特産品として「辛子明太子」がもたらされ、やがてその略称としての「明太子」が全国的に広がったためと考えられる。
*Wikipedia より
株式会社ふくや(英語: Fukuya Co., Ltd.)は、福岡県福岡市博多区に本社を置く、辛子明太子を初めて製造したメーカーである。
創業者の川原俊夫が満州から福岡に引き揚げたのち、博多の中洲市場へ移住して開いた「ふくや」が起源である。当時は食料品を店舗向けに卸す商店で中華料理の食材に強く、「鳴海屋」「トーホー」と共に「福岡の三大食品卸商店」と称された。
その後、川原はオリジナル商品として釜山でよく食べていたたらこのキムチ漬け「明卵漬」を店の目玉商品として日本風にアレンジした「明太子」を初めて製造し、1949年1月10日から販売した。辛い物を食べ慣れない日本人の口に合わず、発売当日には「辛すぎる」とクレームが入った。川原はめげずに改良を重ねた結果、博多の惣菜として受け入れられ行列ができるほど人気の商品になった。1957年には日本で初めて「味の明太子」と命名した(そのため、1月10日が「明太子の日」とされている)。
明太子のヒットを受けて他社も模造品を売り出したため「特許を取得した方が良い」と助言を受けるも川原は「明太子はただの惣菜。特許は必要ない」と意に介さず商標登録や製造法特許も取得しなかった。それどころか、むしろ「我が社の明太子が口に合わないお客さんもいる。辛さの加減や色んな味も含め様々なメーカーがあって色々な人に食べられる方がいいと思う。ウチと同じ味でなければ作り方は教えるので、みんなで作ればいい」と地元同業者へ製造方法を教えた。他社からは「後発組だが気兼ねなく市場に参入できる土壌を作ってくれた」と川原に感謝の念を抱き、福岡の明太子メーカーは150社以上にも上(のぼ)った。様々な風味の明太子が生み出されマーケットが拡大していく中、1975年に新幹線・博多駅が開業し、出張や観光で福岡に訪れた観光客から絶好のお土産として注目された。当時ふくやは直販のみで2店舗しかなかったが、博多名物として他のメーカーが駅やデパート、空港や東京などに進出するなど全国展開され定着するきっかけとなり、今では明太子市場は1,300億円にも到達するようになった。
また後継ぎである息子・川原正孝(現会長)からは「市場も大きくなったので元祖と出したらどうか」と提案されるも俊夫は「元祖と書いて明太子が美味しくなる訳ではない。最初に明太子を作ったメーカーが1番ではなく、1番美味しい明太子を作ったメーカーがナンバーワンだ」と説き、未だに本家・元祖とは名乗っていない。
卸販売はせず鮮度管理を徹底するため、直販方式をとっており、福岡県内36店舗・東京2店舗(2008年4月時点)で営業している。
また、コールセンターを設けるなど通信販売も積極的に展開しており、近年ではインターネット通販にも力を入れ、全国からの顧客を取り込んでいる。経営トップから社員・パートに至るまで全員が「販売士」資格を取得するなど、顧客志向の経営体制が評価され、2003年度に経済産業大臣より第14回消費者志向優良企業(製造業)として、資生堂とプロクター・アンド・ギャンブル・ファー・イースト・インクとともに表彰された。
明太子販売のノウハウを生かし、食材営業課が業務用食品を取り扱うスーパーマーケット「たべごろ百旬館」(1店舗)を運営しており、新鮮な魚や野菜、業務用食材などを取り扱っている。
登記上の本店は、中洲にある実店舗の本店。本社は本店の上階にある。通販部門などは、工場がある福岡県福岡市東区社領2丁目14番28号(ふくやフーズファクトリー)にある。
*Wikipedia より
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