「長崎凧 棒桜」 <長崎県伝統工芸品>
職人の手によって手染めの和紙を切り貼りして模様を作り、竹の骨組みに貼り付けた長崎凧。古来より人々に愛され、生活と結びつきのある桜をモチーフとした長崎凧伝統柄の棒桜に、東京2020大会ワードマークを施しました。可愛らしいサイズのため、東京2020大会の記念としてプレゼントにもお喜びいただけます。
※商品の色、質感等は実際の色と異なって見える場合があります。予めご了承ください。
素材:和紙、竹
サイズ:W27×H26.5×D0.4㎝
製造国:日本
予約商品
「長崎凧」は「長崎県伝統工芸品」です。
長崎ハタ、七つの魅力
遊技として、伝統工芸品として、長崎の歴史とともに歩んできたオランダ国旗と同じ配色の「長崎ハタ」。ルーツ、紋様の謎、専門用語etc……。
今、シンプルで洗練されたデザインに若者も注目!古くて新しい「長崎ハタ」の魅力に迫る。
ズバリ!今回のテーマは「長崎ハタ解体新書」なのだ
「長崎ハタ」、それは長崎独特の「凧(たこ)」のこと。長崎人はこのハタを揚げることも凧揚げとは言わず「ハタ揚げ」と言う。
春――風が、北から南にその流れを変える頃、山々にはハタが揚がりはじめる。花が咲いたようだともたとえられる、のびやかですがすがしい景色だ。「ハタ揚げ」は、江戸時代から「長崎くんち」「精霊流し」とともに長崎三大行事のひとつとして親しまれている伝統行事。使用する「長崎ハタ」と「ビードロヨマ(糸)」は、平成5年、県の伝統工芸品に指定された。
正月と端午の節句以外には、ほとんど凧揚げが行われない他の地域と違って、春風の時季はもちろん、よい風が吹けば年中楽しまれてきたハタ揚げは、揚げる高さを競うのではなく、ビードロヨマというガラス粉を塗りつけた特別な糸(方言でヨマ)を使って切り合うのが特徴で、そのため「喧嘩バタ」とも呼ばれている。
凧合戦を行う地域は新潟県や静岡県などにもあるが、いずれも大凧を数人がかりで揚げての団体競技であるのに対して、長崎のハタ合戦は一対一の果たし合い。切るか切られるかの一本勝負に、子どもだけでなく大人も……というよりも、むしろ大人のほうが熱狂熱中してしまうようである。
伝来当初から長崎人を虜にしたハタ合戦は、江戸中期から明治時代に最盛期を迎えたと思われる。戦時下での衰退の後、昭和半ばには復興も見せたが、近年、さまざまな娯楽があふれる中で、ハタ揚げの楽しみ方も変わってきているように思われる。最大の娯楽として盛況を呈していた往時を偲びつつ、ハタ合戦が再びその賑いを取り戻すことを望んで、長崎ハタの今昔に迫ってみたい。以後「往時」といえば、ハタ揚げ大盛況の古き良き時代をさすものである。
そもそも長崎ハタってなーに?
ハタを知るにはまず、ほかの凧類との違いから考えてみたい。
凧は国字で「風にあがる巾(布きれ)」の意味。発祥地とされる中国から伝わったのは平安時代といわれ、当初は中国での表記そのままに紙の鳶(トビ)と書いて「紙鳶(シエン)、紙老鳶(シラウシ)」などと呼ばれた。狼煙(のろし)代わりや、敵陣に火を放つ道具にもなったという。その形状から江戸方面でタコ、京阪ではイカやイカノボリ、ほかにタカやタツ、テングなどと地域によって呼ばれるようになった。長崎での呼称はイカノボリが主流だったようだ。
寛政9年(1797)発行の『長崎歳時記』や文化文政期(1804~30)編纂の『長崎名勝図絵(めいしょうずえ)』には、蝶バタ、婆羅門(バラモン)、剣舞箏(ケムソウ)など形の凝った大陸(中国)系の凧数種と、南方系といわれる3種のハタ、アゴバタ、海老尻(えびじり)、蝙蝠(コウモリ)バタが紹介されている。
この頃はすでに「喧嘩バタ」盛況時代。昔は蝙蝠バタで切り合っていたこともあったようだが、時代が下るに連れ、より自在に操れるアゴバタが主流となっていった。つまり、現在「長崎ハタ」または単に「ハタ」といえば「アゴバタ」のことである。
さて、このアゴバタは、十字の骨組みがトビウオ(飛魚/長崎の方言でアゴ)の胸ビレを広げた形に似ていることからつけられたと想像できる名で、これが長崎ハタの基本形。海老尻はアゴバタの下部にエビの形の尾があるもの。蝙蝠バタは横骨の端を肘のように内に曲げた形をしていた。小バタといえば、アゴバタをそのまま縮小した子ども用である。婆羅門などの大陸系の凧=イカノボリと区別して、これら南方系のハタは「長崎ノボリ」とも呼ばれていたようだ。
それでは、まず手始めに、ハタ揚げの盛況ぶりが伺える、明治後期のハタ揚げ風景を覗いてみるとしよう。
明治42年(1909)5月22日付の東洋日の出新聞にはこんな記事が……。
「桃中軒凧揚会、桃中軒雲右衛門は昨日社中を引連れ午前十時より風頭山にて凧揚げを催せるが凝性(こりしょう)の同人とて凧は何れも二ツ巴(ふたつどもえ)の印を為し尚ほ社中を源氏〈白地に赤の二ツ巴〉平氏〈赤地に白の二ツ巴〉の二タ手に別ちて勝負を競はしめ勝者には浴衣地(ゆかたじ)屁古帯(へこおび)等の賞品を与へ……」
この桃中軒雲右衛門(とうちゅうけん くもえもん/1873~1916)なる群馬県出身の浪曲師は、「雲の字」紋様の四畳半四角で骨は竿竹のハタを揚げ、これを切る者に懸賞をつけたのだそうだ。
これほどの変わり種は珍しいが、ハタ揚げの名手と知られた人々の多くは、いつもそれぞれ一定の紋様のハタを揚げたので、ハタを見れば、誰それが揚げている、とわかった。これを「印(しるし)バタ」といった。
それでは、明治時代、長崎の空を賑わせたハタ揚げの名手を2、3紹介しよう。
地元銀屋町生まれ、我が国写真術の開祖・上野彦馬(うえの ひこま/1838~1904)もその一人で、「水に楓(かえで)」(あるいは水に紅葉)を揚げた。風雅人だった彦馬が特に愛賞したのが紅葉だったといわれ、また、恋仲だった女性の名(紅葉)からとられた紋様だとも伝わる。ハタ揚げの陣に張る幕にも同様の図柄を用いたという(「堅棒(たてぼう)」を使用していたとの説もある)。
一方、地元榎津町生まれの実業家・帯谷宗七(おびや そうしち/1847~1913)は、幼い頃から能楽を嗜み、諏訪神社の能舞台にも出演していた役者であった。明治23年、新大工町に国内初の本格的劇場「舞鶴座」を創設した彼の印バタは、「紺の帯(黒の横棒)」と伝わる。しかし、その表現はあまりに曖昧。帯谷の横棒に切られたという話が残っているので、黒か紺の横棒を苗字に合わせて「帯」と呼んだのかもしれないが、子孫をたどり尋ねてみても、その実体は残念ながら分からなかったようだ。
カステラの老舗 福砂屋の12代目、殿村清太郎(とのむら せいたろう/不明)は、店の名物菓子である紅白の打物(干菓子)「袖の香(そでのかおり/白無垢と緋の重衣)」からとって印とした。
ほかにハタ屋の主人やその息子なども印を持ち、これら名手の固定紋様は誰かが真似しようとしてもハタ屋がそれを許さず、そんな注文を入れても即刻断られる……なにより真似したハタを揚げていると白い目で見られた。また、あまりにも意匠に凝りすぎた紋様は「素人紙鳶」として軽く見られる風潮もあった。
ハタ用語に「ツブラカシ」という言葉がある。要は相手のハタと絡ませて糸を切り合うことをいうのだが、それが転じて、ハタ揚げに金を使いすぎて財産をつぶした人を“財産つぶし”という意味にも使われた。つまりハタ揚げは“いき”に徹する大人の遊びだったということ。子ども達は、大人が興じるハタ揚げ風景を羨望の眼差しで見上げ、自らも腕を上げるために一年中、慣れ親しんだのだった。どうだろう? 少しは盛況期の長崎の空が見えてきただろうか?
長崎市内は、すり鉢状と形容される地形の性質上、風は朝な夕なにその方位を変える。時にはすっかり風がやんでしまうこともある。そんな時、子ども達は「愛宕の山(稲佐の山)から風もらおー、いーんま風もどそう(そのうちお返ししますから)。ぷっと、来い。ぷっと、来い。」と、歌いながら小バタを揚げてみたという。
かつて、市中の山々で見られた光景――風にのって舞い上がる数多の長崎ハタ。以降は、ハタ揚げ場のひとつ、風頭山でハタを作って40余年。明治40年(1907)創業「小川ハタ店」の3代目店主小川暁博(あきひろ)さんのハタ作りの一年を追いながらハタ揚げの魅力に迫ってみたい。
その前に、長崎ハタの誕生にまつわる話をひとつ。
長崎ハタの七つの魅力
1――起源
長崎ハタの誕生はいつ?
現在のハタ、つまり南方系のアゴバタの伝来については、出島オランダ商館の従者として来たインドネシア人から伝わったというのが定説だ。しかし、同じインドネシア人でも、早ければ出島築造以前、市中に散宿していたポルトガル人に仕えていた従者達からすでに伝わっていたとの説もある。
凧ではない「ハタ」の語源は?
そして、語源の方にもオランダ船旗や船舶信号旗の「旗」が由来というものと、インドネシアで凧の意の言葉「パタン」からという2説がある。インド・パキスタン・インドネシアなどでは凧を「パタン」と言い、同じようにガラス粉を塗りつけた糸で勝負をする風習があるという。しかし、インド・パキスタンでは今でも確かに「パタン/patang」と言うが、残念ながらインドネシア語では「ラヤンラヤン/layang-layang、ラヤンガン/layangan」となる。パタンは古い言葉か、あるいは多言語の国だけに地方の言葉だったのかもしれない。
興味深いのは、インドネシア語の「layang-layang」に魚(ikan)をつけると「トビウオ」の意味になること。また、インドネシアの国旗が上下に赤と白(上が赤)の柄だということ。インドネシアの凧にも白赤青のものが多いことだ。
ハタは、凧の長崎方言だと誤解されがちだが、ハタはハタ、凧とは別物なのである。すべての凧類をハタと呼ぶ人もいるにはいるが、ハタ型のものはハタ、ほかはタコと呼び分けるのが、長崎人の正しい解釈である。起源も語源も古く、不明となった部分も多いが、それでも長崎らしく異国情緒にあふれていることは、間違いないようだ。
それでは、この道40年、小川ハタ店店主、小川暁博さんの一年に迫ってみたい。
新年を迎えた喜びもつかの間、ハタ屋ではその年3月末頃からのハタ揚げシーズンに向けて、大量のハタを作るための準備作業がはじまる。多忙を極めるのは2、3月と見越し、1月の下旬、小川ハタ店をお訪ねした。
小川ハタ店の1年【1月~2月】
1月は、まずは骨組みとなる竹を親骨〈縦骨〉・横骨それぞれの寸法通りに切り割る作業に取りかかるとあり、作業場には2種類の竹があった。昨年秋に採ってきたまだ青いものと、青味が抜けて黄味の強くなった一昨年伐採のもの。今年のハタ作りには一昨年のものを使う。新しい青竹のほうが軟らかく加工はしやすいが、一年以上枯らした竹は油分水分が抜けてきて、その後の作業〈油抜き・乾燥〉にかかる時間が短縮でき、硬い反面柔軟性に富み、耐久性が上がるのだそうだ。
ではここで、長崎ハタが喧嘩に適した理由をほかの凧との構造の違いから探ってみよう。
長崎ハタの七つの魅力
2――構造
「喧嘩」に適した構造の秘密
両者の共通点は、骨組みが竹製で和紙を貼ることぐらいだといってもいい。凧には長方形や六角形、奴やセミをかたどった複雑な形も多く、骨組みは3本以上、外枠も竹で組まれ、つけ糸〈糸目糸/骨に結びつける糸〉も3本以上のものが多い。また、通常下端や左右に尾と呼ばれる帯状の紙や縄が長く付く。これに対し長崎ハタはひし形で骨は縦横2本のみ、あとは周囲にハリヨマ〈張り糸〉がしてあるだけでとても軽く、ツケヨマ〈つけ糸〉も上下2本のみ。上先端には※1ツンビといって親骨から引き続いて切り出し、釣針のように曲げた部分がある。そして、骨組みの左右には※2ヒュウ〈飛尾〉が下がるが、下先端には尾がないのが特徴で、それによって空中で不安定になり揺れ動く。しかし尾がないからからクルクル回っても絡まず、自在に動かせるのだ。
ハタ和紙の上下左右先端のひし形や三角の部分にも何か秘密が? と思いきや、実はただの“のりしろのあまり”で名もないのだとか。残しているのは美しさへのこだわり。確かに骨組みが隠れてスマートだし、あるとないとでは華やかさが違う。
※1ツンビ/元来、紙の房がついていたのではないかと考えられており、風切りの用法のものだったと推測されているが、やがて後退したのか、今はただ製作中に干すのに便利なよう作業効率を上げるために考え出されたと伝わる。
※2ヒュウ/薄い和紙に房状に切り込みを入れたものを、こよりと合わせ糊付けしたもの。これでバランスをとるため、傾くようなら間引いて調節もできる。
さて、ハタ作りのベース、骨組み作りの行程は、竹骨の粗削り、乾燥油抜き、仕上げ削りと続き、ツンビを炙って曲げ、縦横の骨を合体したら、ハリヨマをかけて完成となる。いずれもバランスが命、ハタの揚がり具合、勝負の行方に関わる重要な作業だ。
小川ハタ店の1年【3月~4月】
3月になると※3ビードロヨマ作りを開始。2本の竹柱を8間(けん)間隔で立て、その間に麻糸〈赤苧(あかそ)ヨマ〉を張る。まず両方の柱に、外向きにいくつも小さい棒を差し込んで“くし状”の段をつけておき、そこへ糸をらせん状に巻いて、臼(うす)で挽いたガラスの粉と、糊となるご飯を混ぜ合わせたガラス団子を塗りつけて乾かすことを3回繰り返す。
※3ビードロヨマ(硝子綯麻)/ガラスの粉を塗りつけた糸、略して「ビードロ」。この部分を相手のハタにかけて切り合う。長さを測る単位は「間(けん)」。
ビードロを乾かす間に、和紙を貼る作業も並行して行われる。紙切り包丁と型紙を使って和紙を切り、糊で貼り合わせ紋様を作る。風を受けてもめくれないよう端までしっかりと。このハタ紙の裏面に骨組みを縦骨のみに糊を付けて貼ったら、のりしろを残してひと回り大きくカットする。のりしろの上下左右数箇所に切り込みを入れ、四辺に糊を付け、ハリヨマに沿って折り返したらツンビを作業場に張った糸にかけて干し、乾けば本体の出来上がりだ。この時期は、ハタ揚げ大会間近につき、大量のハタの仕上げ作業で大忙しの毎日。
乾けば完成!
小川ハタ店の1年【8月末~9月】
蒸し暑く湿度の高い梅雨が過ぎ、夏が終わろうとする8月末から9月には染めの作業に入る。染めの行程は、湿気や気温で微妙に色が変わる繊細な作業のため、適した時期が限られているのだ。それでも、どんなに気を使って同じように配合しても、毎年毎回ほんの少しの差は出てしまうのだそうだ。
ということで、ここで長崎ハタの色彩の魅力に迫ってみよう。
長崎ハタの七つの魅力
3――色彩
進化する色彩。昔は今と違う色?
ハタの紋様は描くのではなく、それぞれの色に鮮やかに染められた和紙を切り貼りして作られる。紙の地色の白に赤と青、まれに黒や黄の和紙と金紙を使ったものもある。今も昔も紙は筑後八女の百田紙(土佐清長紙を用いることもあった)で、色紙は一枚一枚丁寧に刷毛染めする。染料は色あせするという難点を抱えているが、間近に見た時の紙肌の質感や空に揚げて日差しに透かした時のステンドグラスのような美しさは、それを補って余りあるものだろう。
染料は、赤が酸性染料、青は塩基性染料としか公表されていない。これについて小川さんにお尋ねしたが、染料は京都で求めること以外、詳しい染料名や配合は「企業秘密」とふられてしまった。ただし貴重なお話もお聞きすることができた。
創業以来、先代達は各色に染められた和紙を買いつけてハタを製作していた。しかし小川さんが3代目を継ぐにあたり、「和紙作りはともかく、せめて染めからは自分の手でやらなければ、いつかハタがすたれてしまうのでは」と思い立ったという。そこで、京都の染料店を訪ねて染料を買いつけ、試し染めをしては配合を変え、と日夜研究を重ねた。見本となる和紙はあるが、完全な同色にするのは不可能。それに、真似るだけではいけないと思ったという。それからは、既存の色を超え、さらに美しく長崎の空にふさわしい赤を、青を、と納得のいくまで試行錯誤が続いた。つまり、現在を生きる私達が「ハタ」と聞いて思い浮かべる色は、小川さんが生み出した小川ハタ店独自の色なのだ。
だとすれば、昔の空には今とは違った色のハタが舞っていた可能性があるということでもある。長崎の郷土史家・渡辺庫輔(くらすけ)著『長崎ハタ考』には「浅黄」〈黄味がかった薄い青色〉という色名が多く出てくるし、「ハタの模様は紺、赤、藍の色紙を使ひ」ともある。また前述の帯谷の印バタ「紺の帯(黒の横棒)」のこともあるから大いに混乱させられる。実際の色は黒のものを縁起が悪いなどの理由で「紺」と呼んでいたが、現代では「黒」とありのまま呼ぶようになったのか? それとも実際は紺だがとても濃いため「黒」と通称されていたものが、代々伝わるうちに実際の色まで「黒」になったのか? 「浅黄」はとあるハタ店独自の青だったのか? それとも青はもともと「浅黄」と呼ぶほど淡い色だったのだろうか?
また、『長崎ハタ考』によると、安政6年(1859)東浜町生まれ、国文学者にして歌人、俳人であった風雅人・半顔居士(こじ)こと、足立半顔(あだちはんがん)は「井桁(いげた)、きり餅、山形」などを挙げて「右数種の形は紺土佐紙を用ひて造る」といったそうだが、現在これらの紋様は主に青で作られている。
小川さんは「そういえば子どもの頃に、これ(今の青色)よりもずっと濃い紺色のハタが揚がっているのを見た記憶がある」と、奥の部屋から一冊のノートを出してきてくださった。B5のノートにハガキ大のハタ和紙が貼られた、いわゆるデザイン帳。最初の数ページに、確かに濃紺のハタがあった。創業者である祖父の敬太郎さんが遺してくれた明治時代に染められた和紙なのだそうだ。
深くしっとりと落ち着いた色は、「重厚感があって、大きなハタに合いそうだ」と、往時の色彩に興味津々。
昔の青色
実は、ここまで濃くはないが、すでに普通より濃い青の紙を使った作品があるという。作業場奥の壁に掛けられた「鯉の滝のぼり」がそれだった。濃い青に水しぶきが浮き立ち、鯉が跳ね出てくるようだ。通常の合戦用のハタよりもふた回りほど大きいので、その迫力も格別である。
ハタの色は進化している。伝統を守りながらも常にその時代に合わせて。かつて多くの店が軒をつらね賑わっていた頃は、それぞれの店のそれぞれの色のハタが空を舞っていたのかもしれない。
小川ハタ店の1年【11月】
さて、年も押し迫った11月は、竹の伐採の月。毎年、いくつかの竹林を偵察し、節目の長い、ハタに適した竹を1年分(翌々年の分)、選びぬいて伐採する。なんと、その数20本! ハタ作りは重労働だ。この竹が数千枚の長崎ハタに生まれ変わるのだ!
1月~2月の骨組み作業、3月~4月のビードロヨマ作り+和紙貼り作業、8月末~9月の染めの作業、そして11月の竹の伐採。季節を決めて行われる作業は以上で、あとは注文が入り次第そのハタの製作に取りかかるのだそうだ。
鮮やかな色でキッパリと区切られたシンプルなデザインで早朝のかすみの空にも、真昼の太陽のもとにも、茜のかかった夕空にもよく映え、朝早くから日暮れまで一日中楽しめる長崎ハタ。お次はそんな紋様の魅力に迫ってみよう。
長崎ハタの七つの魅力
4――紋様
流行を追い求め?増え続けた紋様
長崎ハタの紋様は、伝来の時から紙を貼り合わせて作られていたと思われるが、それがすでに中国伝来の剪紙(せんし/切り紙)細工が盛んだった長崎の器用な職人達の手によってさらに洗練されていったのだろう。人々は紋様に独自性を求め競い合った。誰より目立つカッコイイ柄を! 他店に負けない売れる柄を! というように紋様は年々増えていったと推測。そこにはやはり流行りもすたりもあっただろう。現在残る紋様は、その淘汰(とうた)の波をくぐり抜けてきた精鋭達。そして、それらを生み出すハタの作り手は、職人にしてデザイナーだったのだ。
再び『長崎ハタ考』によれば、半顔居士は、「三月に至れバ貴賤老若を問はず、総て紙鳶を弄びて殆ど寝食を忘るゝが如く、各々新奇の印標を造りて、毎年其番附を製し、巧拙と大小とを比ぶるをもて楽しみとす」といったのだそうだ。新奇とは目新しく珍しいことである。
万国旗の模様や外国の織物の柄、また国内の織物の意匠を取入れたといわれる長崎ハタの紋様。しかし、数色の色紙を円か直線かで切り抜いた単純なものだから、偶然に似た模様になってしまっただけでは? という説もある。紋様ができ、さて名前はどうしようかという時に、身近な織物から名前をとったということだろう。以降、いくつかの紋様を紹介するので、デザイン性もさることながら、その洒落の効いたネーミングに、大人の遊び心を感じてもらいたい。
何で? なるほど!冴え渡るネーミング
「丹後縞(たんごじま)」はオランダ国旗によく似た配色の、長崎ハタの中でも最もポピュラーな紋様。しかしこの名称が「阿蘭陀」などでないことは、紋様の国旗由来説という定説中の定説に異を唱える材料にもなっているのだとか。
ほかにも縞紋様は多数あり、線の本数によって「二重縞(ふたえじま)」、「三重ン縞(みえんじま)」など、デザイン次第で重ね、色替りなどをつけて呼ばれる。基本的には、斜め線2本以上の、中心から対称のものが「縞」で、上下に偏ると「筋」。縦横2本以上もほぼ筋のようだ。中心に斜め1本は「帯」で、上下によると「棒」。縦横1本も「棒」。顕著な例外は「滝織縞(たきおりじま)」で、完全に偏っているが名前は縞。というような複雑な決めごとも、長い時を経て進化してきた象徴といえるだろう。
この紋様、とことん突き詰めて調べてみると面白みが増す。名は体を表すが如く、線が交われば「十の字」、斜めは「襷(たすき)」「糸巻」、角によれば「山形」、交点四つは「井桁」で、さらに増えれば「かげ碁盤」となる。
デザインとネーミング、セットで“いき”、というものも数多い。例えば対角線で区切って、下か左右が色面のものを「下赤(したあか)」「片青(かたあお)」などというが、色面が上にくると「鍋かぶり」といい、ハス(斜)や目深にかぶったものがある。宴席で踊る時、踊り手が誰なのか鍋で顔を隠して楽しんだということで、そこからとられた名称だろう。
四つに区切れば色面は二つ、対角線で切ったものは「切餅」といい、赤青2色使いの「色切餅(いろきりもち)」は、現在、ハタを模したお土産品にも多く用いられる人気デザインだ。また、辺に平行に区切れば「二ツ枕(ふたつまくら)」。さらに切って「三ツ枕」「四ツ枕」だが、反転すると五ツ枕から「石畳(いしだたみ)」と名を変える。そして16分割は石畳でありながら「碁盤」とも呼ばれるようになる。
ここまで見てくるとお気づきだろう。ハタ紋様の美しさの秘訣、「白」の名脇役ぶりに! 赤、青それぞれの色がいかに美しくても、隣り合えば反発し、重々しく息詰まってしまう。セパレートカラーとしての「白」が仲を取り持ち、スッキリとした軽やかさを演出しているのだ。
では一番スッキリとシンプルな、無地のハタはどうだろうか? 白無地のハタには「ユーレン(幽霊)バタ/降参バタ(白旗の意)」との名称があり、かつて子ども達はこれに絵を描いて遊んだというが、色無地のハタには名もなく、現在どちらも普段は作られていない。しかし特別に、赤の色無地が作られたことがある。「源平合戦」を模したイベントがあったのだ。源氏に白無地、平氏に赤無地のハタを多数作り、白熱のチーム戦が行われた。前述(1ページ)の明治42年(1909)、桃中軒雲右衛門率いる桃中軒凧揚会も同様の光景だったろう。
飛びも泳ぎもしない変わり種モチーフ
「波に千鳥」はくちばしの部分に金紙が使われたとてもキュートな人気紋様。ハタ紋様には空や海にちなむものが多く、天体や山、高木の花・葉といった仰ぎ見るモチーフも多数ある。しかし、およそ飛びも泳ぎもしないようなものもあって、とても面白いので紹介したい。
真ん中に赤い大きな丸はそのまま「日の丸」。小さな丸を二つ横に並べると「眼竜(がんりゅう)」、丸三つの三角形や縦並びは「三ツ星」「竪三ツ星(たてみつぼし)」。それなのになぜか、二つを縦に配置するととたんに「竪饅頭(たてまんじゅう)」だし、縦三つに棒を通せば「でんがく/団子」となる。さらに日の丸をふちだけ残してくり抜けば、「蒲鉾(かまぼこ)」。つまりチクワだ。なんと「月の輪」(図参照)との差は白丸の偏りと色だけ。微妙な違いを楽しむ、大人の遊び心が効いている。
また、角に長方形がくっついたものは「頭蒟蒻(あたまこんにゃく)」「尻蒟蒻(しりごんにゃく)」。小川ハタ店の小川さんは「ハタ作りの作業中、横に置いておいた切れ端がたまたまハタに乗って、それを面白いなと思って紋様としたのでは?」と職人ならではの目線。ネーミングについてはまだ「(一ツ)枕」が空席のはずだが、何となく寂しいからやめたのだろうか。当時庶民の代表的な食べ物だったとはいえ、こんにゃくを大空に舞わせる面白みに脱帽だ。
一辺が青い紋様は「鯨ン皮」「尻鯨ン皮(しりくじらんかわ)」というネーミング。海の動物だから問題ないのでは? いえいえ、泳ぐクジラなら色面のほうが白地より多いはず。実はこれ、すでに食卓にあがった切り身のデザイン。湯引いた端っこにホンの一筋ついている、あの黒い皮である。長崎人と鯨肉が昔から馴染みが深かったということの証と呼べるモチーフなのだ。
以上、カッコイイ名前をつけようと思えばつけられたろうところをあえて、このおかしな名称を選んだ――ここに長崎人の洒落た遊び心を感じてもらいたい。
紋様の名称のつけ方にはある程度ルールがある。モチーフの場所によって「頭・尻・下・片・肩」、バランスを変えて「崩し」、太さを違えて「親子・子持ち」などとつけるのだ。モチーフを二つ組み合わせたいわば複合系の紋様も特徴的。例えば「日一(ひいち)」は日の丸と一の字、「山星(やまぼし)」は山形に星だ。「鍋かぶりに尻奴(しりやっこ)」はもう説明もいらないだろうか、何とも気の抜けるユーモラスな語感だ。
日一ほか
方言?外来語? その名が気になる紋様
最後に名称の由来が判然とせず、気になってしかたがない紋様をご紹介。二つとも『長崎市史・風俗編』の巻末附録・長崎方言集覧や『長崎県方言辞典』に同じ表記の言葉が見つかったが、方言と紋様との接点を明言した史料はなく、あるいは外国語由来かとも思われる。
「めっけん」……今としては聞かない響きだが、眉間の方言だという。市史・風俗編の紙鳶揚(ハタアゲ)の節に「メッケンとて泰平無事の世に態と戦場往来の勇士の眉間の傷を偲ばせるためか、眉間の傷らしき彩りを施せるものもあった」とあるが、これはどうも推測のように読める。また『長崎歳時記』の蝙蝠バタの図には「めつけんといふ、紅青の紙を裁(たち)て付る」とあり、上部の中央から下方に向けて剣形のもの(下図中央・赤斜線部)が描かれている。蝙蝠の眉間を指すのは納得だが、紋様とは形が違うので直接の由来とはいえないのかもしれない。
「べっそ」……これも今は使わないが子どもの泣かんとする時の容貌(泣きベソ顔)の方言とある。『長崎ハタ考』のリスト(山形と別に「ベツソ山形」とあり「ベツソ」はないので同一と解釈)と合わせると、眉根を寄せた八の字眉を山に見立てた図案か。ほかに『別其』と書いて「規格にないものをあつらえて面白いものができたことから使う(『長崎ハタ物語』)」説があり、当てはめると「新規格の面白い山形」となる。また、『別岨』と表記するとすれば、愛知県に実在する地名がある。「岨(そ・そば)」には“頂に土をかぶっている石山”の意があり、デザインと合致する。「岨」のつく地名等は各地にあるので、当時「岨」が一般的に使用された語だった可能性もあり、捨てきれない候補だ。
さて、紋様はほかにも吉祥紋様、家紋、頭文字などさまざまあるので、お気に入りの一枚を見つけてほしい。見つけたならば合戦に行くもよし、ひいきに応援するもよし、自分で作るもよし、ただただ飾って眺めるもまたよしである。ただし、小川ハタ店では、通常販売用としてハタ揚げ会場に持っていくのは20種類程度だというから、手に入れたいハタがあるならば、事前に確認、または注文するのが得策だろう。
往時、あまりにも意匠に凝りすぎた紋様は「素人紙鳶」として軽く見られる風潮もあったと前述したが、例外もあった。お次は例外が許される特別なハタをご紹介。
長崎ハタの七つの魅力
5――飾りハタ
色彩、紋様の美しさが際立つ縁起物
中国の影響を強く受けた長崎の地には、縁起物を重んじる慣習も多い。ハタも空に上がるものとして、古くから縁起物として贈り物などに重宝されてきた。つまり、凝りすぎる程に凝った紋様も縁起を担いだものならばOK! 祝いのハタや宣伝バタなどがそれだ。
色彩の項で紹介した「鯉の滝のぼり」は、端午の節句のお祝いとして揚げたり贈ったりされるもので、金紙のうろこは一枚一枚を細かく切り貼りし時間をかけて作られる。ほかにも新年の干支紋様や、出産祝い、学業成就、家内安全、商売繁盛など、さまざまな願いを込めた紋様があり、特注で名前を入れることもできる。地元の人が求める「喧嘩バタ」に対し、こちらは「飾りバタ」として、全国各地からも注文が絶えないそうだ。例えば、JR九州ホテル長崎(尾上町)、ロビー奥のエレベーターホールには、今年2月1日のリニューアルに際し特注された特大の「鯉の滝のぼり」が飾られている。
「喧嘩バタ」では、バランスをとる重要な役割を担うヒュウも、「飾りバタ」では、飾りに徹する。昔は小さいハタには赤一色、大きいハタには赤白赤の三段縞とルールがあったというが、現在は見た目の華やかさから、小バタにも三段縞が付けられていることが多い。
ハタ揚げの妙技を観戦! 今とは違う盛況期、白熱の観戦スタイルを見てみよう。
長崎ハタの七つの魅力
6――観戦
これが往時の観戦スタイル!
往時、観戦には、ただ傍観し酒盛り宴会をするのと、場外戦である切れバタの奪い合いをするのと、ふた通りがあったという。
往時はハタ屋も多く、組合を作って毎年持ち回りで大会を開いた。時季になると町中のハタ屋が店頭に看板バタ〈人目を惹くイチオシや新作デザインのハタ〉を掲げて売り出す。前シーズン終了後すぐに次回〈今年〉のハタを注文する人も多かったというが、買い忘れや買い足し、ご新規さんなどもいたのだろう。ハタ揚げ当日の会場でハタ屋は、定紋入りなどの幔幕(まんまく)を張った広さ2間半角の陣屋に緋毛氈(ひもうせん)や茣蓙(ござ)を敷いて客を迎えた。また自らのためにも陣屋を造り、印バタを立てて仮店舗とし、ヨマやハタを販売した。
弁当持参は当たり前。なかには酒肴を並べ、芸子をはべらせて観る者もあったという。好みの紋様で注文したハタをハタ屋に揚げさせ、よく揚がって切り合いに適したところで、受け取って戦うこともできるし、切り合いまでハタ屋や下男にさせることもあったという。その時、自分はというと芸子衆と酒を呑んでいればいいのだ。
そして、いざ勝負がついたなら、勝者をたたえて「ヨイヤー!」と声をあげる。切られたハタは誰のものでもなくなり、落ちたハタを拾った人のものとなる。 切り合いが終わるやいなや、たちまちハタの奪い合いがはじまるのだ。
場外乱闘? ヤダモンのチェーマ!?
ヨマが切られると、切れバタは空から落ちてくる。また、切られたところから手元までの根ヨマ〈こちらもすでに敗者に所有権はない〉も当然落ちてくる。すると、落下ポイントを予測して駆け寄ったネヨマカキとも、ネヨマカスリ(チェーマ/苧麻の糸を奪う唐音読み)ともと呼ばれる野次馬達が、これを奪い合う。野次馬達の中には長い竿にいばら(からたちなど)の枝をくくりつけた“ヤダモン”を持った者もいて、竿を振り回して、それに切れバタや根ヨマを巻きつけて取った。なにせ最初に手にした人の所有となるルールだから、手よりも竿、それも長ければ長いほど有利なのだ(これが語源となり、長崎では、手のつけられないヤンチャ者のことをヤダモンといった)。
しかし実際はまだ空高く漂ううちに取られてしまうことが多かったようだ。ツケドリという竹を炙って鉤(かぎ)状に反らした道具をヨマにつけ、そのせいでブテル〈重々しい〉ハタを合戦の場所から風下にやや離れて揚げ、巧みに操り、切れバタのヨマをからめ取るのだ。なぜこのように奪い合うかといえば、これでお金をかけずに練習するため。ツケドリで壊れることなくハタをいくつか手に入れて、それを使って合戦に参加する、という人もいたのだ。
ちなみに数人が同時に捉えた時は、その糸端を握った者がこれを得る。獲得者が判別できない時は破壊する、というのがルールだとか。
「長崎名勝図絵」出島ハタ揚げの図には、往時のハタ合戦の様子が描かれている(長崎歴史文化博物館所蔵)
禁令につぐ禁令。なぜ止められない?
凧揚げに関する禁令は、長崎に限ったものではなく江戸や京にも出たというが、こと切り合いに奪い合いを重ねる長崎においては、それは切実な問題だった。
安永2年(1773)、出島乙名や年番阿蘭陀通詞の掟として「揚げたハタを忍び返しや竹垣に引っ掛けたり、塀に登ってハタ揚げしたりするのはけしからん、今後このようなことのないよう気をつけよ」とハタ揚げを取り締まる訓令が出された。この対象は出島オランダ商館のインドネシア人達。しかし、もちろん市中の長崎人に対しても、何度も出されている。何度もというのは禁令が何度出されても一向に止まなかったから。郊外へ出てハタ揚げし、田畑を踏み荒らし家屋の屋根・瓦を壊すだけでなく、落ちたハタを奪い合って喧嘩になり、果ては刃物沙汰もあったとか。作物のないところで揚げはじめても、切れバタが落ちる先ではそこに何があろうがおかまいなしで激しい争奪戦が起きるのである。
そして文化13年(1816)ついに市中でのハタ揚げも対象となり、その行為のみでなく、所有までもが禁じられ、見つかり次第没収されたという。この訓令でハタ揚げは沈滞した……かに見えたがそれも一時。すぐにまた盛況を取り戻し、嘉永2年(1849)ふたたび禁令が出された。しかし間もなく幕末の混乱騒然の世に入り、奉行所もハタ揚げの取り締まりどころではなくなって、ハタは以前に増して盛況。明治に入ると禁令は一切なくなったが、電線の架設が進んでくると市内町中でのハタ揚げは禁止された。
なんといっても最大の魅力はハタ揚げ合戦に参加すること。その極意に迫ってみよう!
長崎ハタの七つの魅力
7――合戦
ハタ揚げの用意はすべてハタ屋が取り計らっていた往時、祭の縁日が自然とハタ揚げ日になっていた。旧暦3月3日の雛祭り、10日の金毘羅祭礼、21日の弘法大師祭、28日の準提観音祭、4月8日の灌仏会などだ。太陽暦となってからは、日曜祭日、特に3月末から5月上旬に盛んに行われる。金毘羅山、唐八景、風頭山、稲佐山が主な会場で、かつてハタ揚げ場であった城の古址(こし)、合戦場、女風頭山などは土地開発などの影響もあり、すでにその役目を終えている。
ハタの大きさは寛永通宝の一文銭〈直径約23mm〉を縦に並べたその数で表わされる。百文、六十四文、半ヌキ(五十文)、三十二文、二十四文、十二文などの種類があるが、ハタ合戦に用いる最も一般的な大きさは24文。12文が子ども用の小バタである。
いざ、合戦! ハタを揚げる
ここで、主な「ハタ用語」とともに、一般的なハタ合戦の流れを伝授しよう。
【ハタ用語・初級編】
ハタを揚げはじめることを「アゲツケル」、
ヨマを解きほぐすのを「クル」、
ヨマを伸ばすのを「クレル」、
ヨマを引くのを「タグル」、
ハタをコツッと引くことを「コヅク」、
そして、グライダーを飛ばすように前方へハタを投げ、手元の糸をコヅいてハタを立ち上がらせ、助手をつけず自力のみでアゲツケルことを「ツキヤリバタ」という。
長崎ハタの揚げヨマ〈揚げ糸〉は、実は2種類あり、結び繋いで使われる。ハタを高く揚げてしまえば、あとは「根ヨマ」というガラス粉の付いていない麻糸の部分を持って操るのだ。
大会ではいい具合に揚げてから根ヨマを渡してもらうこともできるが、やはり自分で揚げたいという人も多いだろう。しかし揚げヨマの先陣は、ビードロヨマ。相手のヨマを切断する鋭さなのだから素手で扱うことは大変危険だ。昔から「凧揚ぐる男手には皮にて拵(こしら)へたるを指にさす」ようで、歴戦に皮膚の厚くなった男手ですら痛いものらしい。軍手や皮手袋・サック、テープなどで保護するのが安心だ。ただし勝負には指先の微妙な感覚が必要、根ヨマにさしかかったら外せるものがいいようだ。
まずは下準備。ハタの骨組みの交点と最下端の2か所につけたツケヨマをひとまとめにした所〈または、両端を2か所に結んだ1本のヨマの、中心よりやや上〉にビードロヨマを、さらにその先に根ヨマを繋ぎ、端はヨマカゴにしっかり結ぶ。ビードロヨマが折れて溝があると、たちまちそこから切られるので点検し、ヨマが絡まないようヨマカゴにクル。
アゲツケル時、助手にハタを持たせて遠くに立たせ、自分はこちらで根ヨマの部分を持って揚げる、というのはまだまだ未熟。自分ひとりで一歩も動かずアゲツケル、ツキヤリバタができるようになりたい。それには、ハタの表面を下にして下端を持ち(親指と薬指・小指で下から、人差し指と中指で上からはさむ)、反対の手にヨマをたるませて持ち、紙飛行機を飛ばすように風に滑らせる。それからヨマをわずかにコヅクとハタがこちらを向いて立つので、少しクレル。このコヅクとクレルを繰り返すうち、ハタは風をつかみ、自らからスルスルと揚がっていく――。
コヅイている時、風の抵抗が強すぎてひとりでに結び目が解けたりヨマが切れたりするのをコヅキキルという。風は弱すぎてもいけないが強すぎても揚げづらいのだ。風力を見極め、ハタを調整したり揚げるハタを替えたりする。風の弱い時には小バタや軽量のハタ、強い時には巨大なものに挑戦するといい。
いざ、合戦!ハタを自在に操るには?
【ハタ用語・中級編】
ハタが急下降することを「トンボウツ」、
故意に戦術として急降下させる技を「トンバオトス」という。
一度コヅイてからヨマを少しクレ、一気にタグルと急速な移動ができる。構造の項でふれた「ハタは尾がなく空中で不安定」こそが方向転換のポイントなのだ。ヨマをクレレば手元とハタの間のヨマがたるみ、ハタは支えをなくして不安定に揺れる。そこでタグレばヨマは緊張を取り戻し、ハタは安定、頭の向いた方向に移動するのだ。
だから当然、頭が下を向いている時に引けば急降下する。長崎の方言で逆立ちすることをサカトンボといったことから、これをトンボウツ〈トンバウツ/トンバはトンボのなまり〉といい、突風にあおられて逆立つこともそう呼ぶ。初心者は特にハタが下降をはじめると慌ててヨマをタグってしまいがちだが、加速させて墜落、一度の切り合いをすることもなくハタがオジャン……ということもあるから注意が必要だ。ハタが不意に降下したら、慌てず騒がずヨマをクレルに限る。
思い通りに操るコツは、移動したい方向に頭が向く一瞬前にタグルこと。ハタまでの距離を考えてのことだろう。タグル速さで移動のスピードも違ってくる。これ以上は実践して慣れ、感覚をつかんでもらうしかない。同じ風は二度吹かないのだから。
過去には達人の妙技もあった。磯田ハタ屋はヨマをクラず手に持って揚げた。井上ハタ屋は大きな百バタ〈百文のハタ/縦約2.3m〉を強い風の反対に揚げ、高く揚げてから順当の位置に直した。どちらももちろん、ひとりでである。
ほかにも何か、人をアッと驚かせる揚げ方があるだろうか? 凧には連凧や大凧などのギネス記録がある。ハタでギネス認定を狙うのもいいかもしれない。
いざ、合戦!楽しみながら技をかける極意
【ハタ用語・上級編】
ヨマがつるみ合い、勝負がつき難いことを「ツブラカシ」、
それに対し、容易に勝負がつくのを「カケル」、
ヨマが触れた瞬間に切ることを「ナデギリ」、
そして、切られたハタがキリキリ舞いすること、またはツケヨマの上下バランスが悪いか、上下どちらかを切られてしまいハタがクルクル回ることを「マイギリ」という。
その語感からか転じて、ハタに銭を費やすあまり身代をつぶす人のこともこう呼んだというが、元々ツブラカシとはヨマをつるみ合わせる=ツルハカシのなまりで、双方のヨマがしばらく絡んでから切れる直前までの状態をいう。摩れ合うやカケルとも同義だったが、今日では容易に勝負がつくのをカケル、なかなか勝負がつき難く高々と揚がるのをツブラカシというようになった。
ナデギリは上下どちらからかけてもいいが、相手より自分のハタが多く風を受ける方向に追うのがよく、同等程度に風を受けている時は上からのほうが有利だという。
金剛砂ビードロという普通のガラス粉製よりも強いヨマや、同じガラス粉でもそれを針金に塗ったハリガネビードロなどがあるが、ハタ合戦はすべて対等の条件で行われるべきものであり、種類の違う強いほうのヨマで弱いほうを切り落とすのは、ハタ道に反する卑怯なことで弁償ものだという。また、ハタを引いて切ることを「引き切り」といい、腕前が互角であっても「引き切り」は、卑怯として行わず、ヨマが限りなく伸びハタが小さく見えるのみとなる頃、ようやく勝負を決することもある。引き切りもひとつの技術に違いないが、楽しむことを忘れてはならないという。
最後に――。
お気に入りの長崎ハタ、楽しみ方は見つけていただけただろうか? 今も昔も長崎のハタ揚げ場で、ビードロヨマでハタを揚げたら、いつ勝負をかけられても文句はなし。負けても言いがかりはご法度だ。勝っても負けても楽しむのがハタ揚げなのである。これからハタ揚げシーズンがやってくる。さぁ、春風に誘われて山へ行こう。
ハタ揚げ
今年はぜひ、チャレンジしてみよう!
【2013年 ハタ揚げ大会】
■4月7日(日) 長崎市唐八景公園/※雨天順延 4月14日(日)
メインのハタ合戦以外にも、ハタ揚げ名人による模範演技、ハタ揚げ教室、合戦をしない自由なハタ揚げ、吹奏楽演奏、長崎検番祝舞など。
■問い合わせ 長崎ハタ揚げ振興会 095(823)7423/長崎新聞社 095(844)2111
■4月中旬 金比羅公園ハタ揚げ広場/※雨天順延
山歩きとハタ揚げが楽しめる、金比羅公園ハタ揚げ祭り。
■問い合わせ 金比羅公園ハタ揚げ振興会事務局(田浦氏) 095(826)6738
■4月29日(月・祝)~5月5日(日) 稲佐山公園
稲佐山つつじまつり・つつじ約8万本が見事に咲き誇る中、民謡・カラオケ大会・子供スケッチ大会、ハタ揚げ、バンド演奏など。
■問い合わせ 長崎市みどりの課 095(829)1171
参考文献
『長崎ハタ考』渡辺庫輔著(長崎県民芸協会)、『長崎ハタ物語 ハタ・凧揚がれ 天まであがれ』井上宗匠著(ビジネス教育出版社)、『長崎文化考 其の1』越中哲也著(長崎純心大学博物館)、『長崎の凧(ハタ)図録』(長崎ハタ揚げ振興会)、『長崎歳時記(長崎県史 史料編 第4)』長崎県史編纂委員会(吉川弘文館)、『長崎名勝図絵』長崎史談会編集(長崎史談会)、『長崎市史 風俗編』長崎市役所編(清文堂出版)、『長崎ものしり手帳 続』永島正一著(長崎放送)、『長崎県方言辞典』原田章之進編(風間書房)
*http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken1303/index.html より
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