いよいよ木下大サーカスの開幕となり、会期は8月31日迄である。日本三大サーカスの一つで、岡山が発祥の地なので4年ぶりの里帰り公演となる。
サーカスといえば過ぎ去りし日の郷愁にかられる。3人の倅たちが小さい頃は、岡山公演の度に連れて行ったものだ。
あるときサーカスのケットもぎりに木下光宣先輩(当時木下サーカス専務)の姿があった。先輩は倅たちのためにイヌのおもちゃを持たせてくださった。
3代目社長の故木下光宣先輩は、小生が高校で柔道部に入部した際、同部のキャプテンを務めていた。上級生が先輩風を吹かしてやたら厳しい練習を迫る中で、木下キャプテンだけは温厚篤実で、懐が広く大所高所から練習を見守っていたのが印象的である。
昭和58年(1983年)に専務から社長に就任して「(光宣さんの)優れた指導力によって、多くの困難を克服し、発展を遂げてきました。」と4代目社長唯志氏(光宣氏の弟)は語る。光宣社長は舞台芸術とサーカス芸術の融合を目指して、演出家や舞台専門家、外国アーティストを起用した。
昭和58年(1983年)、香港市政局主催の香港公演や昭和61年(1986年)の中国公演(広東省珠海市)による海外公演は画期的な事業であった。そして、名誉ある’88瀬戸大橋博覧会・四国(6カ月間)にも出演した。
惜しいことに、平成3年(1991年)2月に病魔に抗しがたく、あとを弟の唯志氏に託し、45歳の若さで逝去。
昭和63年8月と平成6年8月に中国を旅した際、本場の雑技団の人間離れした技には子供ならずとも手に汗を握ったものだ。空中人間楼閣、犬、猿、象等の動物芸、皿回し、マジック、極めつけのパンダのウェイ・ウェイの曲芸など内容は豊富でハイテクニックの連続で2時間息つく間もなかった。 世界的にもレベルの高い上海エンターテインメント集団の妙技を十分に堪能した。
今回もサーカスの招待券が手に入ったので、孫に水を向けてみたが、意に反してあまり関心を示さない。TVゲーム世代の今の子供たちにとってサーカスは最早注目に値しないのだろうか。
-1976年(昭和51年)4月、木下大サーカスにて-
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サーカスといえば過ぎ去りし日の郷愁にかられる。3人の倅たちが小さい頃は、岡山公演の度に連れて行ったものだ。
あるときサーカスのケットもぎりに木下光宣先輩(当時木下サーカス専務)の姿があった。先輩は倅たちのためにイヌのおもちゃを持たせてくださった。
3代目社長の故木下光宣先輩は、小生が高校で柔道部に入部した際、同部のキャプテンを務めていた。上級生が先輩風を吹かしてやたら厳しい練習を迫る中で、木下キャプテンだけは温厚篤実で、懐が広く大所高所から練習を見守っていたのが印象的である。
昭和58年(1983年)に専務から社長に就任して「(光宣さんの)優れた指導力によって、多くの困難を克服し、発展を遂げてきました。」と4代目社長唯志氏(光宣氏の弟)は語る。光宣社長は舞台芸術とサーカス芸術の融合を目指して、演出家や舞台専門家、外国アーティストを起用した。
昭和58年(1983年)、香港市政局主催の香港公演や昭和61年(1986年)の中国公演(広東省珠海市)による海外公演は画期的な事業であった。そして、名誉ある’88瀬戸大橋博覧会・四国(6カ月間)にも出演した。
惜しいことに、平成3年(1991年)2月に病魔に抗しがたく、あとを弟の唯志氏に託し、45歳の若さで逝去。
昭和63年8月と平成6年8月に中国を旅した際、本場の雑技団の人間離れした技には子供ならずとも手に汗を握ったものだ。空中人間楼閣、犬、猿、象等の動物芸、皿回し、マジック、極めつけのパンダのウェイ・ウェイの曲芸など内容は豊富でハイテクニックの連続で2時間息つく間もなかった。 世界的にもレベルの高い上海エンターテインメント集団の妙技を十分に堪能した。
今回もサーカスの招待券が手に入ったので、孫に水を向けてみたが、意に反してあまり関心を示さない。TVゲーム世代の今の子供たちにとってサーカスは最早注目に値しないのだろうか。
-1976年(昭和51年)4月、木下大サーカスにて-




