2016.8.10. 大阪狭山市池之原四丁目
堺発、西高野街道と四天王寺発、下高野街道を結ぶ古くからの街道沿いにあります。街中の街道脇にぽつんとあります。
銘:「太神宮夜燈」 神前型の伊勢灯籠です。
銘:「宝暦十庚辰九月吉日」
銘で年号がわかる灯籠の中では、南河内地方では最古(1760年)の太神宮灯籠の一つです。それ以降、時代が下るにつれて、数多くの灯籠が、村をあげて、または伊勢講で建之(けんの)されます。
*伊勢講:特に江戸後期、庶民のお伊勢詣が流行する中で、仲間でお金を積み立てたり、共有の田んぼ(伊勢田)でお米を作ってそれを財源にしたりして、毎年順番または抽選で選ばれたものが代表で、少人数でお伊勢参りをし、仲間の代参をしました。そういう仲間の集まりを伊勢講と言います。
銘:「岩室村世話中」
現在の池之原は、当時岩室村の一部でした。「世話中」は世話人仲間という意味。「村」が建之の主体であることがわかります。
ボッコボッコに開いた盃状穴
これだけ、とことんあいているのは、あまり見たことがりません。
私の見た盃状穴のすごいベスト3のひとつです。
ちなみに...
☆狭間神社の水盆 大阪狭山市池尻中1丁目
☆西光寺の水盆 富田林市彼方(おちかた)
あとふたつも、ついでにご紹介しておきます。
狭間神社の水盆 西光寺の水盆
泉州地区には、お椀ほど大きくて深い盃状穴も彫られています。
和泉市王子町 聖神社
言い伝えによると、安産の願いを込めて、若い女性が神社の水盆、石灯籠の基礎部分、石橋などの水平の部分に、誰にも見られないように、この盃状穴を彫ったといいます。
水平なところに彫るのは、御利益が漏れないように...
ちょうど水道の蛇口から、両手で水を受ける形です。水平にしないと水がたまりませんよね...
誰にも見られないようにするのは、願を掛けるときに、人に見られては、御利益が逃げてしまうからです。
お百度参りとおなじですね。人に見られないように行うことが大事とのことです。(異説もあります。)
「江戸時代、今ほど治安がいいとは言えないにもかかわらず、若い女性が夜な夜なだれにも見られないように、安産の願いを込めて、手作業で堅い花崗岩にボッコボッコ穴を開けたのでしょうか。
こんなにたくさん穿っているのに、だれも見たことがないなんて不思議ですね。
下高野街道近く、灯籠の近くの大和棟
灯籠の近くの大和棟と田園風景
西高野街道と下高野街道を結ぶ古くからの道沿いにあります。
つぎに、「宝暦十年」南河内最古の太神宮灯籠を、あと二基紹介します。
狭山神社(大阪狭山市半田)の「太神宮夜燈」
寛弘寺(南河内郡河南町寛弘寺 集会所前)の「太神宮夜燈」
*この二基につきましては、後日紹介させていただきます。
いわば住民や仲間たちのパワーで建之された伊勢灯籠。町の入口や皆の集まるところに作られました。
対照的に、神社・仏閣の常夜灯。
南河内では、もっと早い時代の江戸前期の元禄期(1688~1704)あたりからあちこちで見かけます。
「元禄五年」(1692) 岩室観音院の常夜燈
元禄三年(1690)の美具久留御魂神社の常夜灯。寄進によるものです。
銘:「元禄三年 奉寄進 石燈籠」とあります。
これも、美具久留御魂神社の常夜灯です。「水分宮(みくまりぐう)」とあります。
銘:「元禄九丙子年 三月吉日」 今から320年前の1696年に建之されました。
当時、富田林村(旧寺内町)で造り酒屋を営んでいた「河村彦左衛門」によって建之されました。
神社・仏閣の常夜灯の寄進は、村や講ではなく、個人が寄進した例が多く、時代も「太神宮灯籠」より古いものがあります。
村中にある「太神宮灯籠」、ほかに京都の「愛宕さん」(火を鎮める神様)にちなんだ「愛宕山夜燈」、香川県の「金毘羅さん」(水運の守り神)にちなんだ「金毘羅大権現夜燈」など、村の連中によって作られた灯籠は、神社仏閣に個人が建之した灯籠とは別の価値があります。
村の多くの人の力で、作られたこれらの石灯籠。「一致協力して、村を守りたい。」という意識の現れではないでしょうか。
撮影:2016.8.10.
2016.8月27日 (HN:アブラコウモリH )
南河内で最も古い、というよりも大阪で最も古い伊勢燈籠は、河南町神山の燈籠です。
宝暦4年です。
宝暦5年のものが羽曳野市大黒にあります。