2023年1月2日 14:06 富田林市佐備467
平安時代の延喜式神名帳に記載された歴史と格式のある式内社です。
急な階段が続く正面の参道、その登り詰めたところに構える何か(矢印の所)が居ます。
獅子が睨むように、待ち構えています。
千仭の谷の子獅子を見守る親獅子です。
半泣きで親の様子をうかがう子獅子(吽形)。
阿形の子獅子。それにしても上手に彫られた獅子(狛犬)ですね。
この子獅子、阿形・吽形になっているからすごいです。
オンリーワンの獅子(狛犬)ですが、階段を登った本殿前には普通の狛犬さんが居ます。
こんな感じですかね?
やっと登り詰めた階段の上、この建物の奥が本殿です。
手前の建物は天井に多くの絵馬が掲げられています。結界としての注連縄があり、割拝殿にあたる建物のようです。
この崖は佐備川の中位河岸段丘面に当たるところで、比高が11mもあります。(本殿の標高81.7m、下の鳥居の標高71.2m)
社伝では平安時代前期の天安2年(858)創建といいます。
ここ旧石川郡佐備郷(現在の東条地区の一部)は平安中期に編纂された「倭名類聚抄」に出てくる古くからの郷名で、その後元慶2年(883)の観心寺勘録資材帳では「佐備荘」と出てきます。
中世になると、南北朝時代の騒乱に巻き込まれます。
つまり、正平3年(1348)高師泰が東条を攻めて、彼方、佐美(佐備)の谷口の所々合戦ありと、和田助氏軍忠状にあります。
また、多田院御家人森本為時軍忠状では貞和5年(1349=正平4)4月佐美(佐備)谷合戦の記述があります。
正平7年(1352)後村上天皇(南朝)、東条に行幸
正平7年(1352)光厳・光明・崇光上皇(北朝)ら、東条へ遷幸
正平15年(1360)、佐美谷で合戦(田代顕綱軍忠状) など動きが大きいです。
本殿に奉納された清酒とお米。ここの本殿はもともときらびやかな色彩であったようです。
その後室町時代の応仁の乱(1467)前後に、畠山の内紛にも巻き込まれます。
おもに舞台は嶽山城(龍泉寺城)と金胎寺城になりますが、以下のような史料が見えます。
長禄4年(1460)畠山義就 嶽山城布陣(大乗院寺社雑事記)
寛正3年(1462)嶽山城の攻防、金胎寺城落城。(同)
寛正4年(1463)嶽山城落城。(同)
文正元年(1466)嶽山城で合戦。(同)
文明9年(1477)嶽山城で合戦。(同)
永正4年(1507)畠山尚順、嶽山城の畠山義英を囲む。(多聞院日記)
戦国期は大きな戦乱には見舞われなかったようです。
幕末は膳所藩本多氏の所領で、佐備全体で1001石の石高でした。
昭和32年(1957)に東条村(佐備・竜泉・甘南備)は富田林市に最後に編入されました。
佐備谷は旧石川郡で、山の西側は旧錦部郡になります。
佐備地区は現在下佐備、中佐備、上佐備地区で構成されており、佐備神社に宮入りする地車もそれぞれ合わせて3台です。
佐備神社の歴史を物語る楠の大樹。
佐備神社は富田林市の保存樹林に指定されています。(4600㎡ サカキ、クスノキなど)
〈富田林市の保存樹木および保存樹林はここをクリックしてください〉
☆「富田林市緑の基本計画」 H19(2007) 富田林市より
明治の終わりごろ、佐備神社を合祀から救った東寅吉翁の頌徳(しょうとく)碑。
境内にあるこの瓦器の祠には石ころがたくさん詰め込まれています。おもに砂岩の丸い川原石が多いようです。これはおそらく民衆信仰の賽の神かと思われます。
同様の祠が河内・和泉に散在しますのでご紹介します。
神社横の下佐備集会所にある賽の神祠
ここは砂岩の丸い川原石が1個だけ置かれています。この形の祠もときどき見られます。
賽の神については以下のブログでご紹介しております。
初詣 春日神社2023 2023.1.6 ブログ中ほど
また、お地蔵さんの敷石の賽の神を周辺地域よりみていただきます。
〈伏見堂 西野々古墳 4号墳(円墳)の墳丘上の祠〉 〈伏見堂地蔵祠〉
〈河内長野 西代神社〉 〈河内長野市喜多町 地蔵祠〉 〈河内長野本町地蔵祠〉
〈河内長野市原町 割坂地蔵祠〉 〈河内長野市市町 孝子地蔵祠〉
〈廿山地蔵・太神宮灯籠・牛滝さん 地蔵祠〉*現在は改装されて見られません。
下佐備の集会所の地車庫の脇にある力石と思われる石。
力石については富田林百景 館内活動(2021.12.14)の資料をご覧ください。
〈画面をクリックすると拡大します〉
なお、個々の写真は以下の通りです。
〈五軒家 牛頭天王社〉 〈中佐備 地蔵祠裏〉 〈毛人谷 西口地蔵裏〉
〈廿山 太神宮灯籠・牛滝さん・地蔵祠〉☆現在改装されて見られません。
関連記事:初詣 春日神社2023 2023.1.6
写真撮影:2023年1月2日
2023年1月9日 (HN:アブラコウモリH )
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