徒然雑感 by おとぼけの父上

R中学のソフトテニスコーチ、エスパルスの応援、その他何でも、日々の雑感を記録していきます。

立花龍司さんの講演を聞いて

2012-02-04 05:32:23 | その他

先日、立花龍司さんの講演を聞いた。
浪商、大商大で野球部の投手を務める。
その後天理大学体育学部でスポーツ医学を専攻。
高校時代に肩を壊し、大学三年でプレイ続行を断念するが、
「日本の野球界を変えるために指導者になりたい」という思いのもと、
まだ「コンディショニングコーチ」という言葉さえ存在しなかった時代に
その道をひた走ることになる。

日本では近鉄、ロッテ、楽天でコンディショニングコーチとして選手たちを陰で支え、
また、ニューヨーク・メッツで日本人初のメジャーリーグコーチも経験した。

2001年4月より、大阪・阪堺病院にてコンディショニング・コーチとして活動開始、
現在、筑波大学大学院にてスポーツ医学の研究にも携わっている。
2007年より、千葉ロッテマリーンズコンディショニングディレクター(※)に就任、
現在、同ヘッドコンディショニングコーチ。

さて、彼の講演の主旨の一つにポジティブシンキングがあり、
コーチが指示する時に、~をするな!と言う指導は駄目な指導者が言うことと言うものがあった。
例えば、野球で言えば、最悪の指示は高めを振るな!というもの。
これでは高めと言うキーワードに引きずられ、結局行動は中途半端なものになる。
それよりいくらかましなのが、低目を狙えというもの。
しかし、結局これはあくまでもやらされているということ。
コマンドではなくミッションにさせなければいけないということ。
一番いいのは本人に考えさせて結論を出させること。
あの投手を攻略するためにどうすればいいと?と選手に問いかけ、
選手が自分は低目を狙いたいという結論を出して、
自分の意思で低目を狙いに行くようになればいいということ。
要するに、ヒトの指示で動くのではなく、自分の意思で動かせること。
これはテニスコーチにも当てはまること。
今のR中に足りない選手の自覚。
選手が悪いのではなく、コーチのせいだったようだ。
イチローが小さい頃バッティングセンターで練習した有名なエピソード。
これは父親が無理やり連れて行ったのでなく、
イチローがお願いして連れて行って貰った事。
それが大事だというお話。
本物に触れ、本人が本物になりたいと感じての努力が、一流選手を作るということ。
親が無理やりやらせての努力はどこかでひずみが出て挫折するとのお話。
非常に参考になった。
次からR中に生かせるのか?


因みに立花さんの略歴は、ウィキペディアに因れば、
立花 龍司(たちばな りゅうじ、1964年7月3日 - )は、日本大阪府出身のアスレティックトレーナー、プロ野球コーチ。
1989年、近鉄バファローズのコンディショニングコーチとして初めてプロ野球チームと契約。専門知識を習得し、アメリカなどで広まっていた最新のトレーニング理論を導入した立花の指導は、走り込み・投げ込みを徹底させる従来の長時間練習とは大きく異なり、コーチからは反発も受けたが、負傷者の減少などの効果が出た事から仰木彬監督や近鉄の選手の間で高く評価された。特に1990年に近鉄へ入団した野茂英雄からの信頼は厚く、両者の近鉄退団後も指導を続ける事になった。

1993年、仰木退団後の新監督に就任した鈴木啓示は立花を嫌い、疎んじた。「草魂」という座右の銘を持ち、強い精神力で肉体の酷使に極限まで耐えるのがプロ野球選手のあるべき姿という信念を持ち、同一球団での通算317勝(日本プロ野球では最後の300勝投手)を記録した鈴木は、適度な休息を含めた合理性を重視する立花のトレーニング方法を支持せず、選手経験のない立花が選手を惑わせて自らのチーム管理権限を侵害しているととらえた。鈴木と対立し冷遇された立花は近鉄を退団し、1994年からは千葉ロッテマリーンズへ移った。

しかし、野茂や吉井理人などの近鉄投手陣の多くはキャンプイン前の自主トレーニングで立花の指導を受け、鈴木への反発が明確になった。1994年のシーズン終了後に野茂が近鉄を退団してアメリカ・メジャーリーグベースボールチームのロサンゼルス・ドジャースへ移籍し、吉井もトレードによりヤクルトスワローズへ移籍した後、1995年シーズン途中に鈴木も成績不振の責任を取って辞任した。

一方、立花はロッテで活躍し、特に1995年にはアメリカ人のボビー・バレンタイン監督からの信頼も寄せられてチームの2位躍進に貢献した。この時には伊良部秀輝、小宮山悟、エリック・ヒルマンなど、当時リーグ屈指といわれた投手陣を指導した。なお、ヒルマンは1995年からの2年間で410イニングに登板し26勝を挙げたが、1997年に移籍した読売ジャイアンツでは左肩痛を訴え、2年間でわずか6イニング、無勝利に終わった。

1997年にはメジャーリーグのニューヨーク・メッツへ移籍。これはバレンタインの推薦によるもので、日本人初のメジャーリーグコーチとなった。1998年には千葉ロッテへコンディショニング・ディレクターとして復帰し、2000年までの3シーズン務めた。その後はニュースステーションにてコンディショニング関係のコーナーを持つほか、地元大阪の病院でのコンディショニング指導や執筆活動などを続ける。

2004年、筑波大学大学院入学。研究活動の傍ら、2006年に東北楽天ゴールデンイーグルスのコンディショニングディレクターとして6シーズンぶりにプロ野球界に復帰。同年秋退団後、千葉ロッテへ移籍しヘッドコンディショニングコーチなどを歴任し大嶺祐太などを指導していた。2009年限りでロッテを退団した。

2009年に野球用品を中心としたスポーツ用品メーカー株式会社サクライ貿易(東京都台東区)とコラボレーションし、同社から発売されたトレーニンググッズとその商品を使ったトレーニングマニュアルを監修。

2010年より、株式会社スポーツカンパニーとマネジメント契約。

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