徒然雑感 by おとぼけの父上

R中学のソフトテニスコーチ、エスパルスの応援、その他何でも、日々の雑感を記録していきます。

高橋みなみさんについて雑感48

2012-02-17 08:31:38 | 知人・友人・赤の他人
昨日、高橋みなみさんがno3bの公式ホームページのブログに投稿していた。
22時56分という遅い時間の投稿にもかかわらず、
朝7時前には一万件を越えるコメントが寄せられていた。
世間 というより、AKBファンの注目度が半端ないということであろう。

さて、以前からブログにも書いてきたし、子供に言ってきたが、
人間ミスあるいは失敗があるのが当たり前で、大切なことは、
失敗しないことではなく、それをどう生かすか?カバーするか?
同じ失敗を繰り返さないこと。
そういう未来のことが大切だということ。
いい加減なことをしている人間のいい加減なミスと、
一生懸命生きている人間のやむを得ないミス。
見ている人間には解るもの。
それが人間性と呼ばれるのである。
まあ、今回は彼女自身の失敗ではないが。
彼女のことを全ての人間が好きとは限らないが、
一生懸命生きていることを否定する人間はほとんどいないはず。
ブログからも人間性は滲み出ている。
20才の女性に与えられた試練。
彼女なら乗り越えるであろう。
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女性指導者について

2012-02-17 05:50:40 | サッカー(その他)
先日、日経新聞のスポートピアと言うコラムに、
野田朱美さんが投稿していた。
内容は日本サッカー界における女性指導者の少なさについて。

現在プロ選手を指導できるS級ライセンス保持者347人中、女性は3人。
本田美登里さん、半田悦子さん、高倉麻子さん。
略歴はブログの最後に書いておくので、興味のある方は読んでください。
二人が静岡県出身。

さて、コラムの中で書かれていることで、印象に残ったことは、
女性が女性を指導するメリットのお話。
「厳しく言って泣かれて困る」という男性コーチ定番の悩みがない事。
そういう甘えが通用しない事を選手が解っていること。

そして、戦術的肉体的限界が同姓として把握しやすく、
私生活の部分にも入っていきやすい事。

問題は選手の側に、コーチの、選手時代の実績を、
女子選手の方が厳しく問う傾向があること。

女性指導者の養成コースなどをもっと作るべきと書いてあった。

仕事をしていても、体調が悪そうな部下を見ていて、
生理?と思うことも多いが、なかなかその確認が難しい。
そういう面等を考えれば、女性指導者の数を増やすことは大切と私も思っている。
3人のうち二人が静岡県出身。
そのうちの一人は、我が娘の出身母校のコーチであること。
嬉しい事なのだが。





半田さんの略歴。
小学3年(1974年)からサッカーを始め、清水第八SC、鈴与清水FCラブリーレディースでプレー。

1982年に行われた第3回全日本女子サッカー選手権大会で最優秀選手に選ばれた。L・リーグでは第1回大会(1989年)から参加。1991年には静岡県体育協会から優秀選手章を木岡二葉らとともに受賞し、第8回(1996年)まで131試合出場70ゴールを記録した。

1989年に日本女子代表に選出され、この年のアジア女子選手権では6月13日のインドネシア戦での初得点をあげて1-0とし、同時に日本女子代表の初勝利へ貢献。その後、アジア競技大会(1990年、1994年)、FIFA女子世界選手権大会(1991年、1995年)、アトランタオリンピック(1996年)などに出場し、75試合出場19得点をあげた。

引退後の2002年よりNPO法人御殿場トレーニングセンターでサッカースクールコーチを務めた[1]。2004年度公認A級コーチを取得し[2]、常葉学園橘中学校に新設した女子サッカー部監督に就任した[1]。2011年にJFA 公認S級コーチライセンスを取得

高倉さんの略歴
小学校の時より学校のサッカークラブで男子と一緒にプレーしていた。この頃から地元福島のローカル番組で「男子に混じってプレーしている女子サッカー選手」として何度か報道されていた。

中学生の頃、東京都リーグのFCジンナンに入部。高校時代は、福島成蹊女子高(現福島成蹊高等学校)に入学しサッカーの練習は福島県立福島工業高等学校で練習していた。和光大学(東京都)に入学するまでは週末に東京へ通う生活を送る。その後、読売日本サッカークラブ・ベレーザ(現日テレ・ベレーザ)に入団し、1989年の第1回日本女子サッカーリーグ(JLSL, 現なでしこリーグ)では記念すべきリーグ初得点をあげている。

日本代表メンバーにも選出され、FIFA女子世界選手権(FIFA女子ワールドカップ)には1991年と1995年の2大会に出場。第2回スウェーデン大会ではベスト8まで勝ち進んだ。翌1996年にはアトランタオリンピックにも出場した。

1999年6月に松下電器女子サッカー部バンビーナへ移籍。これは、読売ベレーザ所属時代に知り合い結婚した竹本一彦コーチ(当時)がガンバ大阪へ移ったことに伴う。同シーズン終了後、アメリカのシリコンバレー・レッドデビルズ (Silicon Valley Red Devils) に入団するが、ケガのため半年で帰国。バンビーナから名称を変えたスペランツァF.C.高槻に復帰した。

2004年シーズン終了後に現役を引退。公式戦出場226試合は歴代1位の記録である。

引退後はサッカー指導者、および解説者として女子サッカーの普及に努めている。2011年にJFA 公認S級コーチライセンスを取得

本田さんの略歴
小学3年生(1975年)のころに入江スポーツ少年団でサッカーを始め、清水市立第八中学校、清水市立商業高等学校、国士舘大学体育学部の1年生まで清水第八SCに在籍。全日本女子サッカー選手権大会では第2回~5回(1981年 - 1984年)大会の4連覇に貢献した。大学2年のころ読売ベレーザに移籍。日本女子サッカーリーグ(JLSL:のちのL・リーグ)では第1回から第4回(1989年 - 1992年)までの間に45試合に出場し、うち第2回から4回大会でリーグ3連覇、と全日本女子サッカー選手権大会の第9回~10回(1988年 - 1989年)2連覇に貢献した。

日本女子代表には高校2年生のときに選ばれ、日本女子初の国際試合出場メンバーの一員に。以後10年間で国際Aマッチに出場。43試合0得点であった。第11回アジア競技大会(1990年・北京)では銀メダル獲得に貢献し、翌1991年の第1回女子世界選手権(中国大会)にも出場を果たした。

1991年から1993年に読売ベレーザのプレーイングコーチと読売メニーナのコーチを務めたのち、1994年に日本サッカー協会に就職し、日本女子サッカーリーグ(L・リーグ:当時)事務局委員と協会の女子委員会強化部員を兼任。1999年にU-18日本女子選抜コーチとして第1回adidas Cup参加、2000年にはU-18日本女子選抜監督代行として第2回adidas Cupに参加。また日本サッカー協会主催のサッカー教室で全国巡回指導を行った。

2001年から岡山県英田郡美作町(現・美作市)に誕生した岡山湯郷Belleの監督に就任して、宮間あや、福元美穂などの有力選手を育成した。2003年にはL・リーグ参入を果たし、2004年にはL・リーグ2部で優勝して翌2005年のL・リーグ1部昇格を経験した。

2005年8月10日からトルコのイズミルで行われたユニバーシアード世界大会では女子サッカー代表の監督を務め3位
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