「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県粟国島 「 八重川グスクへ通じる洞穴 」

2016-09-26 02:48:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



八重川グスクに通じる洞穴の入り口








道路から脇道を入ると洞穴が見えてくる







穴の下にある 「 拝所 」








拝所の上にある小さな穴を目指して登って行かねばならない








穴を10mほどよじ登って出たグスクへの出口







フラッシュを焚くと、こんな感じだと解るが気持ちはグスクへと飛んでいる











これは八重川グスクへ通じる洞穴であるが、
洞穴内には窟墓があり、墓穴の中に入って行く感じである。
明るいのは入り口付近だけで、
あとはカメラのストロボを焚き焚き手探りで入って行った。
写真はフラッシュを発光しながらの撮影だったので、
島から帰ってパソコンに取り込んだ後になって、
色んな拝所や墓があったのを知った。

石垣島のサビチ洞のように、
おもむろに厨子甕 ( 骨壷 ) を置いている窟もあるが、
ここでは厨子甕は見当たらなかった。

ただ、粟国島では沖縄本島のように亀甲墓ではなく、
また、石垣島のような墓標が立った墓ではなく、こうした窟墓が主流で、
雨で仕事が休みの日になると、お骨を入れる窟を掘るそうである。


洞穴の奥へと歩を進め、洞穴の壁に突き当たると、
傾斜角度が60度近くの壁を、
手や足の位置を手探りで探して登らなければならない。
その小さな穴をよじ登って行くとグスクに出る。

それもこれも、洞穴の向うの未だ見ぬグスクのためだ。



沖縄県那覇市 ・ 那覇港のグスク 「 屋良座森 ( やらざもり ) グスク 」

2016-03-08 11:46:13 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



三重グスク ( 手前 ) から対岸の屋良座森グスクを望む








グスクは米軍によって破壊され面影を残していない





屋良座森グスクは、琉球王国の国際港である那覇港入り口を守る南側の砲台であった。
北側には対をなして三重グスクが構えてあり、現在もその痕跡を残している。

屋良座森グスクの造りは、長方形で、石垣の壁は厚く、
四方の壁にはそれぞれ二ヵ所ずつ砲台へ上がる石段があり、
東南の壁にはいくつかの狭間(矢窓)が設けられており、内部は平坦であったとされる。

また、屋良座森グスクは、戦後、那覇港拡張工事のため米軍によって破壊され、
現在は存在しない。

屋良座森グスクは琉球国王の防衛計画のため、
対岸の三重グスクとともに砲台を設置し、海からの外敵に備えた。
1609年に薩摩藩が那覇港から上陸しようとしたが、
二つの砲台の激しい攻撃にあって予定を変更し、
今帰仁間切から上陸して、首里城へ迫ったことからも、
防御価値のきわめて高い砲台であった思われる。


屋良座森グスクへのアクセス
屋良座森グスクへは、現在米軍の那覇軍港の敷地内になっているため、
グスクへは行けないが、対岸の三重グスク付近から見ることが出来る。
駐車は、三重グスクのついでにロワジールホテルの許可を得れば、可能である。



沖縄県那覇市 ・ 那覇港のグスク 「 三重 ( みい ) グスク 」

2016-03-08 09:45:01 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



独立した丘になった三重グスク







ロジワールホテルの駐車場にグスクの看板がある






グスクの中心部にある殿内 ( 祠 )







対岸に屋良座グスクを望む






石垣を残したグスク内






グスク内にある水神 ( 拝所 )




三重城 ( みいぐしく ) は、那覇港入り口にあるグスクで、
16世紀後半に倭寇への防御のため造られたという。
当時は陸から短冊のように島と島を橋で渡すように出来ており、
島の先端には砲台があり、対岸の屋良座森グスクと対で那覇港を守っていた。
そんな島をつないだ橋も対岸にあった屋良座森グスク同様に周囲が埋め立てられ、
姿を変えてしまった。屋良座森グスクについては、
米軍の那覇軍港だったために現在は更地になって、昔日の面影は何も残っていない。

三重城の由来は、「対岸にある屋良座森グスクよりも新しく出来たため、
新城(みいぐすく)と呼ばれていたのが、
いつの間にか三重グスクと呼ばれるようになったという説と、
当時は三つの橋から出来た城だったので、三重グスクとも呼ばれた」という説が残っている。

また、この拝所からは生まれ島から沖縄本島へ出て来た人や
遠く内地へ旅立った人を想う 「 遥拝所 」 になっているため、
ここには多くの人が故郷や遠く離れた肉親などを想って拝みに来ている。


三重城へのアクセス
三重城へのアクセスは、那覇空港より国道58号線を那覇市内へ向い、
明治橋を渡り、次の旭橋交差点を左折して海に向って直進すると
「ロワジールホテル・オキナワ」に突き当たる。
その駐車場から海まで一帯が三重城の存在した場所である。
また、対岸の屋良座森グスクのあった場所も確認できるが、
コンクリートで固められた平地になっている。
駐車は、少時間であれば、ホテルのフロントに行って駐車場の使用を願えば駐車できる。



りんけんバンドが唄う「 ふなやれ 」 の歌詞に三重城 ( みいぐしく ) が出て来る。



ふなやれ - りんけんバンド WOMAD '92



歌詞は、三重城が出て来る2番のみを掲載します。



船ぬ習 ( ふにぬなれ ) や別りぬ習 ( なれ )   
船を知ることは別れを知ること

見送る御万人 ( うまんちゅ ) 涙 ( なだ ) 見してぃ
見送りの人は涙を見せて

名残押 ( なぐぅりお ) しでぃ出船子供 ( んじふなくぅ )
船出の人への名残を惜しんでいる

ミケーン タケーン又とぅんけーてぃ
2回3回と振り返って

童 ( わらび ) ・妻 ( とぅじ ) ・親 ( うや ) かめーりば
家族を捜してみても

ミケーン タケーン又とぅんけーてぃ
2回3回と振り返って

見分きんちかん三重城 ( みいぐしく )
三重城まで来るともう見分けがつかない


※ 「 ふなやれ 」 とは、航海を意味する


沖縄県大宜味村 「 根謝銘 ( ねじゃめ ) グスク 」

2016-01-02 02:24:08 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



グスク道を歩いて行くと木々の間から 「 神アシャギ 」 が見える







道路の分かれ道に立つ路標






グスク道の入り口付近にあるノロが馬をつないだ場所。
ウムイ ( 想い ) を唄う場所 ( 仲庭 ・ ナハマー )






急勾配になったグスク道






グスク道の途中にある霊石 ( ビジル ) と呼ばれる拝所






「 神アシャギ 」 の前にある中城御嶽 ( なかぐすくうたき )






「 神アシャギ 」 の全景とアサギ庭
アサギ庭は、海神祭の時に神人がウムイ ( 想い ) を歌い、踊りをするところ






「 神アシャギ 」 の奥にある 「 地頭火ヌ神( ジトウヒヌカン )」






大城御嶽 ( うふぐすくうたき ) がある主郭広場






大城御嶽






大城御嶽の近くにある石垣









2008年くらいだったか?
沖縄のグスクに興味を持った初期の頃に探訪した根謝銘グスクである。
その数年後、再探訪を経て、今回が3度目の探訪となった。

根謝銘グスクは、中山の英祖王の後裔・大宜味按司の居城とする説と、
国頭按司の居城とする説があり、
尚巴志の北山攻略に際して連合した諸按司の中に国頭按司は登場するが、
大宜味按司の名は残っていない。
また、国頭按司は首里の国頭御殿に居住していた記録も残っている事から、
この根謝銘グスクは、国頭按司の居城とする説の方が有力とされる。

グスク自体は、入り口に 「 ノロ殿内 」 があり、
そこから拝所を抜けて登り坂を上って行くと野面積みの石垣があり、
グスク内の中央に 「 神アシャギ 」 が立っている。
他にもいくつかの拝所が点在している。
「 神アシャギ 」 の上にある大城(うふぐすく)と呼ばれる御嶽のそばには
城壁の一部と思われる石垣の形跡が見られる。


根謝銘グスクへのアクセス
根謝銘グスクへは、国道58号線を北へ進み、
「道の駅おおぎみ」を過ぎ大宜味役場の先の農村改善センターから右へ入り、
喜如嘉小学校を過ぎて一名代橋を渡り、
突き当りの謝名城共同売店の二股を左に進むと簡易水道があり、
そこを右に曲がるとノロ殿内がある。
そこから集落を回るように歩いて登ればグスクへたどり着く。
駐車は、ノロ殿内の広場に駐車可能である。


沖縄県南城市佐敷 「 屋比久 ( やびく ) グスク 」

2015-09-28 01:43:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



グスク内にある殿(どぅん)・拝所







児童公園となった屋比久グスク








公園入り口から拝所を望む






殿(どぅん)の横にある拝所





この屋比久グスクは、お城のグスクではなく、
集落跡(村跡遺跡)であったろうと思われる。
現在は、このように公園として整備されているが、
石垣などの地上遺構は見当たらない。


屋比久グスクへのアクセス
屋比久グスクへは、国道331号線を佐敷支所を過ぎて
左カーブになった先のファミリーマートから右に入った屋比久集落の中にある。
道沿いの公園になるので分かり易いと思う。
駐車は、公園に沿って路上に駐車した。


沖縄県波照間島 「 下田原 ( しもたばる ) グスク 」

2015-09-26 01:41:11 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



高い所では2m以上の石垣が築かれている







グスク入り口にある案内板








びりぶら公園から石段を登ってグスク内へ







広場のある郭から次の郭へ続く城門







数えただけでも12、3の郭が確認された






他の郭に比べて丸くて小さな郭





下田原グスクは、日本の最南端にある波照間島の北側に築かれたグスクである。
グスクは琉球石灰岩の上に築かれており、石積みが保存良く残されている。
そんな郭を間切る石垣は高い所では2m以上の高さがあり、区切られた郭の数も
12、3を数える。グスク内から15~6世紀頃の中国青磁片が表面採取されているが、
グスクの興亡については定かではない。



下田原グスクへのアクセス

下田原グスクへは、波照間港から左に1キロほど進むと道路わきに路標がある。
そこから左に曲がった右側に案内板(写真)が出ている。
「 ぶりぶら公園 」 を目指して行くと分かりやすい。
島内はバイクもあるが、レンタサイクルがほとんどである。



沖縄県南城市玉城 「 垣花グスク 」

2015-08-17 03:01:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡










グスク内の拝所







グスク内にある 「 虎口 ( 城門 ) 」







グスク内の城壁







グスク内にある拝所 「 アフイハナテルツカサノ御イベ 」





垣花グスクの築城年代は明らかではないが、
玉城グスクや糸数グスクと同年代と考えられる。
城跡は主郭と二の郭に分かれており、
石垣は古い形式の積み方の野面積みを琉球石灰岩で積まれている。
このグスク拝所の神名は 「 アフイハナテルツカサノ御イベ 」 となっている。

築城者について垣花グスクの築城年代は不明だが、
一説にはミントン按司の二男が築城したものだといわれるものと、
英祖王の長男・大成から分かれた中城屋宜按司によって
築城されたグスクだという説がある。



垣花城跡へのアクセス
国道331号線を知念村から玉城村に入ってから約1キロほど行くと、
右に県道137号線に入る道があり、
その道に入ってから500mあまりで二股に分かれたところに
グスクロードの立て看板がある。
そこを右に200mほど行くと、右に写真のような城址碑銘が立っている。
また、二股を左に行くと玉城城や糸数城へ行くことが出来る。



沖縄県八重瀬町新垣 「 新城 ( あらぐすく ) グスク 」

2015-08-10 00:01:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



グスクの中央に立つ鳥居







グスク入り口に立つ路標







グスク内の拝所







グスク内にある変わった形をした遊具








新城グスクの遠望







新城グスクの出城であるヤマグスク ( 山城 )





新城グスクの築城年代は、グスク内から出土する青磁破片、
土器破片や野面積みという城壁の積み方からして、
具志頭グスクと同年代の14世紀の初期ごろと推定される。
規模は1万6500㎡もあり、グスクの一番高いところには本丸の跡らしいところが残っている。
その下に二の丸の跡と思われる平地があり、連郭式の山城形式のグスクだといえよう。
このグスクの南北側の断崖上には1mくらいの高さの野面積みの城壁が残っており、
東南側の方には2m~1mの高さで3段に積まれた石垣が残っていると言われているが
周囲は宅地として造成され、住宅地として成り立っており今は昔日の面影を残していない。

この城については、築城中に中山(首里城)から取り壊しを命じられたという伝承があり、
現在でも新城集落の古老たちはこの伝承を語っている。
グスクのすぐ東方には出城としての山城があり、
糸数グスク、玉城グスクなどからの攻撃に対しての見張り所であったと伝えられている。


新城グスクへのアクセス
新城グスクへは、具志頭の交差点から東風平方面に進み、
富盛交差点の先を右折して新城小学校を過ぎて新城交差点を右に曲がってから
すぐに左に上った左手の奥にある。
目印となる鳥居と鬼の滑り台がある。
駐車は、グスク入り口の空き地に駐車できる。

( 沖縄県島尻郡八重瀬町 新垣 )


沖縄県八重瀬町具志頭 ・  「 具志頭グスク 」

2015-07-24 00:01:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



グスクの内郭にある 「 具志頭城内之御嶽 」








殿(どぅん)の右側にある神名「アカズ森之ベイ」






グスク入り口に立つ路標










具志頭馬場跡の関係からふたたびの掲載となった具志頭グスク。
具志頭馬場跡から海に向かって約300mほど行った場所にある具志頭グスク。

具志頭グスクは、具志頭集落の東南の海岸に突き出た崖の上に築かれたグスクである。
グスクの北西に城門があり、その左側から野面積みの城壁が部分的に残り、
西の小高い丘には物見台跡があり、「タカヤックヮ」と呼ばれている。
連郭式のグスクは城門付近が外郭とされ、グスクの北東付近が内郭とみられる。
内郭には城内之嶽や神名アカズ森之ベイが祀られている。

現在は、第二次世界大戦の戦没者慰霊塔が建てられ、
一部の遺構を除いては古城跡を偲ばせる面影はなく、
かつて一大勢力を誇ったであろうグスクの輪郭は失われてしまっている。

具志頭グスクは14世紀の中期頃に英祖王統、
第二代大成王の第三子、具志頭按司によって築城されたと言われている。
以来、代々具志頭按司の居城であった。
規模はおよそ2万5700㎡もあり、沖縄のグスク跡でも大きい方である。
城主の具志頭按司は、尚巴志による三山統一までは海外貿易を行い、
かなりの勢力を誇っていたといわれている。

具志頭グスクの最初の城主は言い伝えによると、
玉城村仲村渠ミントン家の百名世の主の長男・百名大主の九男が
具志頭按司になったというが、古代のことなので定かではない。
15世紀初葉の三山時代・具志頭按司は南山の配下にあった。
中山王・尚 巴志が南山を攻落。具志頭グスクには三男を派遣し、
具志頭王子を名乗った。
この尚 巴志の第一尚氏が滅び、第二尚氏王統に代わると、
具志頭グスクは廃城になり、城主は置いてない。

また、尚 寧王の弟の尚 宏王は、1600年に具志頭王子 ( 朝盛 ) と称した。
小禄御殿の四世であり、九世まで具志頭間切総地頭であった。


具志頭城跡へのアクセス
具志頭城跡へは、国道331号線をひめゆりの塔を過ぎて玉城方面に進み、
具志頭交差点の先のJA具志頭支店から右折して仲間橋を渡り、
そのまま真っ直ぐに道なりに進み、具志頭城跡の看板を右折すると
前に城跡公園がある一帯が城跡である。
高知県出身の慰霊塔 「 土佐の塔 」 を目標にした方が分かりやすいかもしれない。
駐車は、公園内の駐車場を利用できる。


沖縄県八重瀬町具志頭 ・  「 上 ( ウェ ) グスク 」

2015-07-10 00:01:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



グスク入り口にある 「 上グスクの説明板 」








グスク入り口にある路標







グスク広場と石垣







グスク内の拝所








木の根にお香が焚かれた跡がある寅口








崩れ落ちてはいるが石垣は残っている







グスク入り口の反対側にある 「 仲座揚水機場 」





上 グスクは、14世紀の初期ごろに上原按司によって築城されたグスクである。
規模は12,300㎡と広く、主郭と二の郭を備え、
主郭跡の城郭と二の郭跡の城郭がはっきりと残る山城形式の連郭式のグスクであり、
城壁はすべて野面積みの古い手法で築かれている。
上グスクの上原按司は後に多々名按司に亡ぼされ、
以後、上グスクは多々名按司の南山に対する
前衛拠点となる役割を果たしたグスクとなる。
また、「組踊」多田名大主に登場する上原按司は、
この上グスクの城主であったという確かな伝承が残っている。


上グスクへのアクセス
上グスクへは、旧・具志頭村にあるサザンリンクス・ゴルフ場の
手前を右に入った右上にある。
グスク付近には、写真のような 「 仲座揚水機場 」 がある。
駐車は、 「 仲座揚水機場 」 の前の広場に駐車した。



沖縄県八重瀬町具志頭 「 多々名グスク 」

2015-07-10 00:00:11 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡














































多々名グスクの遠望







多々名グスクに隣接する 「 サザンリンクス・ゴルフクラブ 」







このゴルフ場の手前のムイ ( 森 ) に多々名グスクがある。





多々名グスクは、玻名城集落の丘陵上に広がる広大な敷地に築かれたグスクである。
城郭は戦争でかなりの攻撃を受けたにもかかわらず、
意外にも保存よく残っており、昔日のグスクを偲ぶことが出来る。
石垣は野面積みで、城は三つの郭と御内原(女官の居所)の跡が確認できる。
主郭は、グスクの中央部にあり、2mほどの石垣に囲まれており、
主郭の北側に御内原があり、三の郭はグスク正面の外郭にあたる。


多田名大主は欲望に目がくらみ、上原按司とその居城を火攻めにして、
上原按司を打ち滅ぼしたが、按司夫人とその子の千代松と松金を取り逃がしてしまう。
落ち延びた千代松は、弟や母と離れ放れになるものの、
按司の臣下の屋嘉や屋比久らとめぐり合い、
屋比久の計らいで千代松と屋嘉は多田名大主に降り、仇討ちの機会を窺う。
多田名大主は、降参してきた千代松を不憫に思い、命を助けてやる。
遊び好きの多田名大主は、毎日遊んで暮らしていた。
そんなある日、津堅島に遊びに出かけた隙に、
千代松は遊びから帰って来たところを狙い、父の仇を討って恨みをはらした。



多々名グスクへのアクセス
多々名グスクへは、国道331号線を平和記念公園を過ぎて具志頭方面に進み、
具志頭交差点を具志頭城跡方向に進み、体育館に向って行くとその裏になる。
駐車は、体育館の裏の道路に邪魔にならないように駐車できる。


沖縄県うるま市安慶名 ・ 五度目の 「 安慶名グスク 」

2015-06-21 00:02:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



安慶名闘牛場の上にある安慶名グスク








安慶名グスクの城門








城門の片側はきれいな石積みになっている












































安慶名グスクは今回で5度目?の探訪である。
おそらく今までで一番多く探訪したグスクだと思う。


今まで安慶名グスクは城門側から内部を探訪して来たが、
こうして全景が見たのは初めてである。
今までは闘牛場の上には木々が生い茂ってグスクの輪郭どころか
石垣すら見ることは出来なかった。
それが、久し振りに闘牛場へ行ってみて、
「 こんなに石垣が築かれていたのか 」 と思うほど、広く高い石垣だった。


参考までに安慶名グスクについて書いておきたい。


安慶名城は14世紀頃、安慶名(大川)按司によって築かれたとされている。
別名、大川(ウーガー)グスクとも呼ばれ、
その名の由来である天瀬川は沖縄本島中部地方の東、
金武湾に注ぐ川を地元では大川と称していた。
その川名が城名や按司名になったようである。

沖縄のグスクは、主として郭が縦または横になった連郭式のグスクがほとんどであるが、
安慶名グスクは唯一の輪郭式のグスクであり、
独立した岩山頂上部の広場を内郭とし、
中腹部を外郭としており、岩山に築かれた階段を登って行くと、
自然岩を刳り貫いた石門が目に入って来る。
思わず「うぉー」っと声が出てしまうような光景である。
この門を潜り抜けると、主郭の広場(二の郭)が広がっている。


安慶名按司は、伊波城主の初代伊覇按司の五男と伝えられる。
城は最初、兼箇段(かねかだん)に築く予定だったが、
安慶名の独立丘の方が条件に適している事から、この地になったという。

落城伝説
勢力を付け、周囲を威圧してきた安慶名按司の勢いは、首里城主の領域までも及び、
そのことを恐れた首里城主は、軍勢を送って安慶名城を攻めさせたが、
要塞堅固な安慶名グスクはそう簡単に陥落せず、
そればかりか優れた安慶名軍の反撃に手を焼いていた。
 ところが、安慶名グスクには水がなく、用水は大川より汲み運んでいた。
その事を知った首里軍は、水路を断つ作戦を敢行し、
ついに難攻不落の城も落城したといわれる。



沖縄県糸満市 ・ ふたたびの「 米須グスク 」

2015-06-10 01:50:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



グスク内に立つ米須グスクの説明板









グスク入り口に立つ路標







南に開いたグスク内の城門







周囲を囲む石垣







積み重ねられた石垣







拝みの対象となっている大岩





米須馬場跡の関係から再びの掲載となった米須グスク。

米須グスクは、三山鼎立 ( ていりつ ) 時代、
南山グスクの出城として米須按司によって築いたとされ、
石垣を二重にめぐらした珍しいグスクといわれている。

城は二つの郭からなっており、上にある主郭(一の郭)には家屋跡の石列や井戸跡、
拝所などが残ってある。
一の郭から米須小学校方面が下が二の郭になっている。
一の郭の城門は南に向いて開き、二の郭の城門は西に向いて開いている。
この二つの城門は側面からの防御を考えた構造になっており、沖縄でもあまり例がない。

米須グスクの按司の夫人は、絶世の美女として有名であった。
その美しい夫人を横恋慕しようと家来の我瀬之子 ( がせのし ) は、
自分の想いを遂げようと計画し、按司を舟遊びに誘い出し殺してしまう。
按司亡き後、グスクを出て塩売りをしている夫人を見つけた我瀬之子は、
自分の妻になるように夫人に迫る。
一計を案じた夫人は、その申し出を受けた条件に、新しい家を作って欲しいと頼む。
 夫人の頼みを聞いた我瀬之子は、山に入り木を切って運び出していたその時、
隠し持っていたノミを我瀬之子の手の甲を木に打ち込み、按司の仇を討ったという。

( 沖縄県糸満市米須 )



沖縄県糸満市真壁 ・ ふたたびの 「 真壁グスク 」

2015-06-03 00:00:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡











真壁按司の無念を鎮めるために建立されたグスク内の真壁神宮寺









真壁神宮寺の横にある拝所








グスク裏側の城壁







うるま市平安名にあるワイトゥイや斎場御嶽のサングーイのように見える








グスク内にある展望台







グスク展望台から望む三和中学校方面





真壁グスクの近くにある萬華之塔にある 「 馬魂碑 」 の関係から
ふたたびの掲載となった真壁グスクである。

真壁グスクは、三山鼎立の時代13世紀~14世紀ごろに、
南山グスクも出城として、真壁按司によって築かれたとされる。
グスクは真壁集落の北川の丘陵に築かれ、三つの郭からなる連格式になっており、
グスクの周囲は野面積みと切り石積みからなっている。
グスク内で最も高い所が一の郭(主郭)で、
その下に二の郭があり、入り口の真壁神社あたり一帯が三の郭にあたる。

白馬物語
真壁按司は、見事な毛並みの天馬のような白馬を育てていた。
その白馬の噂は国中に知れ渡り、国頭按司の耳に入る。
そんなある日、ぜひ白馬を譲ってもらおうと、国頭按司が真壁按司のもとを訪れるが、
「こればかりはどんなことがあっても譲れない」と要求を断ると、
国頭按司といがみ合いになり、とうとう戦になってしまう。

大軍で攻めてくる国頭軍に対して、真壁按司の弟の垣花按司に応援を頼むが、
ともに滅ぼされてしまい、
真壁按司が大事にしていた白馬も国頭按司の手に渡ってしまうが、
白馬は何も食べ物を口にせず、衰弱して死んでしまう。

その後、真壁按司の倒れた森を子孫が歩いていると、
白馬のような白い石が宙を浮いている不思議な現象に出くわす。
その石は今現在でも、霊石として拝所に祀られている。


真壁グスクへのアクセス
真壁グスクへは、国道331号線を具志頭方面に進み、
ひめゆりの塔を過ぎて米須交差点を左折して県道7号線に入り、
三和中学校入り口の方へ行き、中学校の前から右に入ると突き当たりに公園がある。
その付近一帯がグスクになっている。
 駐車は、真壁公園駐車場に駐車できる。

( 沖縄県糸満市真壁 )




沖縄県糸満市 ・ ふたたびの「 南山グスク 」

2015-05-30 04:47:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡


グスク内にある桜が揺れる南山神社








神社裏にある 「 南山城址碑銘 」








墳墓あるいは拝所をまとめたものと言われている








仁天屋懈大神と書かれたグスク内にある拝所








野面に積まれた内部の城壁







根が絡みついた石垣







大きな石で頑強に作られた城壁













カデシガーと大里馬場跡の関係から再びの掲載となった南山グスク。

南山城は歴代の山南王の居城として栄華を誇ったグスクであるが、
歴史上で山南王の実態が明らかになったのが、
1380年ごろから登場してくる承察度(しょうさつと)からである。
中国の明の記録「明実録」に記されていることによれば、
山南王・承察度は大里按司のことと考えられる。
その根拠は、承察度は方言で(ウフサト)と発音され、
大里按司も(ウフサト)と発音される事から、ほぼ同一人物だと考えられた。
では何故、大里を使わずに承察度を使ったかを考えれば、
盛んに中国との貿易をしていた関係上、
ウフサトと読める中国風の承察度の名前を使ったのであろう。

南山城は、糸満市の大里集落の南方にある標高60mの石灰岩台地に築かれたグスクで、
高嶺小学校一帯を含んでいる。
グスク北側は崖があり、崖下には尚巴志との因縁の戦いになった
嘉手志川(ガデシガー)が流れている。
石垣は切り石積みと野面積みの石垣が確認されている。


落城伝説
金屏風と嘉手志川を交換して嘉手志川を手に入れた尚巴志は、
嘉手志川の使用を規制する御触れを出して山南の人々を困らせた。
金屏風ほしさに川と引き換えた他魯海(タルミー)に対して恨みを持った住民は、
尚巴志にとって計算どうりであった。
さらに自分に味方する者には自由に水を使わせ、
山南の民衆を中山である自分の味方に付けてしまったのである。
こうして満を持して大軍を引き連れて山南に攻め入った尚巴志は、
他魯海王を打ち滅ぼし、三山統一を成し遂げる。

南山城跡へのアクセス
南山城跡へのアクセスは、糸満市の高嶺小学校を目指して行ってもらいたい。
駐車は、中学校側のグスク入り口付近の路上に駐車した。

沖縄県糸満市大里