「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄の名前のルーツ 「 大城 ・ 玉城 」

2017-07-21 11:17:11 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



沖縄の組踊を作った 「 玉城朝薫 ( たまぐすく ちょうくん ) 」 の墓
























南城市玉城にある 「 玉城城跡 」 の城門















テレビで紹介された南城市百名にある 「 大城 ( うふぐすく ) 」







南城市大里にある 「 大城城跡 」 の拝所







大城城跡の説明板








独特な形をした 「 大城按司のポンドゥ御墓 」
 












斎場御嶽の三庫理 ( サングーイ )








サングーイから久高島を望む ( 遙拝所 )







浜比嘉島にある比嘉グスクにある 「 比嘉公園 」








比嘉グスクに千年貝が祀られている頂部の 「 拝所 」






昨日、NHKで沖縄の名前を探る番組が放送されていた。
1位は比嘉で、その後は大城や金城など
名前に城が付いたのが多く上位を占めていた。

例えば、同じ大城でも、オオシロと読んだり、
ウフグスクと読んだりして様々である。

そんなグスク ( 城 ) に出会い、
護佐丸が築いた座喜味城に興味を持ってから
波照間島から喜界島まで400カ所以上のグスクをめぐって行くうちに、
それにまつわる琉球や奄美などの歴史に興味を持った。

これからも琉球に心を奪われたままである。



沖縄県本部町  「 備瀬グスク 」

2017-07-11 10:20:24 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



主郭にあるグスク内の拝所








備瀬グスクの入り口







石垣がめぐらされた殿への道







グスク奥の左手にある殿(どぅん)







ヤシの葉の奥に累々と積まれた石垣がある





備瀬グスクは、本部町の備瀬集落から少し外れた
こんもりとした森の中に築かれたグスクである。
グスクへつながるグスク道の縁には石垣が積まれており、左奥には殿がある。
殿の裏には拝所があり、それを囲むように石垣が築かれていた。
グスク自体が山城でもフラットな面のグスクであったと思われる。



備瀬グスクへのアクセス
備瀬グスクへは、本部町にある 「 美ら海水族館 」 を過ぎて
そのまま道なりに進むと右カーブになっている。
そのカーブから300mほど行った右側の森がグスクになる。
駐車はグスク入り口の路上に駐車した。


沖縄県北中城村  「 ミーグスク 」

2017-07-04 10:26:10 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



雨に煙る幻想的なグスク内









グスク内にある奇妙な立岩








抽象彫刻のような岩が点在する








グスクの周囲に石垣をめぐらしている






ミーグスクは、同一名のグスクが南城市大里にもあるが、
ほとんどの「ミーグスク」と呼ばれるグスクは、
新しい(ミー)というところから来ている。
よってこの北中城村のミーグスクも、
おそらく大城グスクの新しいグスクと位置づけていいだろう。
荻堂集落の上にある丘陵地の水道タンクを挟んであるグスクは、
石灰岩の奇妙な立岩があるだけで、
周囲の石垣を除いて城門などの地上の遺構は見当たらなかった。


ミーグスクへのアクセス
ミーグスクへは、北中城村にある「大西ティラスゴルフクラブ」の
クラブハウスの向かいを入って行った従業員の駐車場の右奥に位置する。
駐車は、係員に言えばその場所に駐車できる。


沖縄県名護市嘉陽  「 嘉陽上グスク 」

2017-06-22 10:45:26 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



嘉陽上グスクの全景








グスクの入り口にある鳥居








グスク内にある殿(どぅん)










広場の隅にある拝所










グスク内の広場








グスクのそばにある99年の歴史に幕を閉じた 「 嘉陽小学校 」







嘉陽上グスクは、殿 ( どぅん ) と拝所があるグスクである。
グスクの入り口に鳥居を設けてあるところからすれば聖域色が強く、
攻防を目的としたものではないことが窺える。
グスクの入り口に階段が設置されており、
途中から急勾配の坂道を登って行かなければならない。
このグスク自体が嘉陽集落の守り神的存在であると思われる。


嘉陽上グスクへのアクセス
嘉陽上グスクへは、国道58号線を名護市の入り口の世富慶より329号線に入り、
大浦湾に出てから331号線を北上すると嘉陽集落の中に嘉陽小学校がある。
その向かいの山がグスクである。
駐車は、グスクの前の道の反対側に広くなった場所があるのでそこに駐車できる。



鹿児島県徳之島  「 カムィヤキ古窯跡 」

2017-06-20 10:38:50 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



赤土層で出来た窯跡










古窯跡に立てられた説明板








跡地に落ちていたカムィヤキの破片 ( 100円硬貨と比較してもらいたい )








地表に出ているカムィヤキ土器片








この付近から広範囲にわたって出土している








カムィヤキ古窯跡にある溜め池






カムィヤキ ( 亀焼 ) 古窯跡は、徳之島の伊仙町木之又地区、
通称亀焼池の周辺で1981年に発見されたものである。
徳之島は奄美諸島の中でも奄美大島に次いで先史時代遺跡が多い所で、
グスク跡も多い。

グスクならびにグスク相当の遺跡からは
必ず亀焼 ( カムィヤキ ) 土器片が出土している。
亀焼 ( カムィヤキ ) 土器は、北は喜界島から南は沖縄諸島だけではなく、
宮古、石垣などの先島諸島からも検出されている。
窯の燃焼部の幅は70~85㎝で、天井の高さは約90㎝とされている。
燃焼部は焚口付近が最も狭くなっており、燃焼部に向かって広くなっている。
そんな燃焼部の長さは3.4m、最大幅は1.8mで、
傾斜は31度~36度となっている。
また、出土の器種は、甕 ( かめ ) 、壷、鉢、碗などである。



カムィヤキ古窯跡へのアクセス
カムィヤキ古窯跡へは、伊仙町の中心部より県道83号線を西に向かい、
東阿三の集落から町道を右に伊仙中部ダムに向かって2キロほど行き、
そこから左に入った池の先にある。
駐車は、窯跡近くに駐車できる。

※ 出土したカムィヤキの土器片は文化財なので、くれぐれも持ち帰らないように。


所在地  / 鹿児島県大島郡伊仙町木之又地区


沖縄県竹富島  「 西新里村遺跡 」

2017-03-07 17:17:17 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



新里村遺跡の路標近くにある説明板
















住居跡なのか?まとまった岩が見える








草の覆われ所々に岩が見える






東新里村遺跡でも説明したが、
花城井戸 ( ハナックンガー ) を挟んで西側にある集落遺跡で、
村の発祥は東よりも遅い14世紀ごろのものと思われる。
スク内の仕組みで東側がわずかに一棟だったのに対し、
西側の遺跡では石垣囲いの屋敷跡が ( 12~13戸 ) と、
中国製陶磁器(青磁器・白磁器)・八重山式土器、鉄鍋、小刀などが出土している。


古記録や伝承によると、
竹富島の初期の歴史には6つの同族集団 ( 血縁集団 ) の集落名と
その首長として6人の英雄の名が登場する。
その人物を紹介すると以下のようになる。

玻座間村の根原 ( ネーレ ) カンドゥ、
花城 ( ハナック )村の他金殿 ( タガニドゥン ) 、
久間原 ( クマーラ ) 村の久間原 ( クマーラ ) ハツカネ、
波利若 ( バイヤ ) 村のスーカードゥン、
仲筋村の新志花 ( アラシハナ ) カサナリ、
幸本村の幸本 ( コートン ) フシンガーラの6人である。

彼らは、いずれも薩南諸島や沖縄諸島などの北方の島々から
守護神を招いて各集落の御嶽に祀ったといわれている。
いわゆる「六山 ( ムーヤマ ) の神」であるが、
後には彼ら自身が 「 六山の神 」 と一体化して祀られる対象となった。

伝承によれば、6人の中で最も早くこの竹富島に渡ってきたのは、他金殿である。
その他金殿は島の井戸 ( ハナックンガー・花城井戸 ) を発見し、
まもなく同族を率いてハナックンガーの東側に新里村を築いて定住したので、
いつしかこの島を 「 タキドゥン 」 と言われるようになった。
この転訛から 「 竹富 」 と呼ばれるようになったのではないかと思われる。

続いて渡来して来た根原カンドゥの率いる同族集団が
ハナックンガーの西側に集落を形成し、
もっとも有力な集団に発展した。
そのことにより、他金殿一族は根原カンドゥの圧力に屈して、
この地を離れて花城村へ移動せざるをえなかったものと思われる。


沖縄県竹富島  「 久間原 ・ 花城村跡遺跡 」

2017-02-14 14:55:37 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



200m近くにわたって石垣が築かれている









遺跡の入口近くにある路標








花城御嶽の鳥居








花城御嶽








グスク入り口付近の石垣







グスク内には南国特有のシュロが茂る







奥の方になると石垣が高くなる






新里村遺跡の中でも書いたが、
六人の英雄に神が一体化して
「 六山の神 」 として祀られることになった中に
最初に竹富島に渡来したと思われる他金殿 ( タガニドゥン ) と、
その同族は最初は花城井戸を発見し、東新里村を住居としたが、
後にやって来た根原カンドゥの勢力に圧され、
東新里村を出て新しく住居を構え、
村を創って生活をしたのが花城村だと言われている。

ハナスク村グスクは、花城御嶽を囲むように
御嶽の裏側まで築かれたグスクである。
元来ならば東新里村で暮らしている他金殿が、
この地へ逃げてここに新たに村を築いたもので、
その跡から土器や石器などが出土している。
また石垣も200m以上にわたって築かれており、
島内外からの侵略に備えたものであったと思われる。



久間原・花城村跡遺跡へのアクセス
久間原・花城村跡遺跡へは、竹富港から竹富集落に突き当たって左側へ行き、
左側にあるミーナカー ( 井戸 ) より左に入った場所にある。
なお、村跡遺跡は御嶽の裏にあたるので、
御嶽の裏山に入ると石垣が見られるが、
神の聖域なので気をつけて入るようにしなければならない。



鹿児島県奄美市笠利町  「 辺留 ( べる ) グスク 」

2017-01-25 12:56:08 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡


























『 笠利町誌 』 に、この墓地について簡単な記載がある。
「 海抜約21メートルの小高い断崖の上に広げられる狭い地積に、
大島特有のサンゴ礁の板石壁と蓋石におおわれた古墳墓の間に、
島津藩の仮屋敷蔵方目付有馬十蔵、医学者有馬宗賢、新納弥兵衛、
与人格新納実章等石碑墓を並べてある。
この墓地は 「 辺留城ウドン 」 とよばれている 」 とあるが、
沖縄の王や按司たちが築いたグスクとは性質的に違い、
墓を聖域としたグスクだと思われるが、それも定かではない。


辺留グスクは、奄美大島の北に位置する
奄美市 ( 旧・笠利町 ) の東海岸へ舌状に延びた
高さ21mの岬に築かれたグスクである。
グスク下には琉球王府から薩摩藩に行政が移ってから
ここに奄美大島全体をつかさどる奉行所が設置されていた。
もともと辺留の港は喜界島の湾港とともに、
琉球国時代の主要港で盛んだったようである。
そんな辺留を詠った 『 おもろ 』 いくつか残されている。


一  きこゑ、おしかさ、
    とよむ、おしかさ、
    やうら、おちへ、つかい
又  き、やの、うきしま、
    き、やの、もいしま
又  うきしまに、か、ら、
    ひるかさり、きやち
又  ひるかさり、かち、
    中、せ(とう)ち、きやち
又  なかせ(とう)ち、から
    かねの、しま、かち
又  かねのしま、から、
    せり、よさに、かち
又  せり、ゆさに、から、
    かゑふたに、かち
又  かゑふたに、から、
    あすもりに、かち
又  あすもりに、から、
    かなひやふに、かち、
又  かなひやふに、から
    なは、とまり、かち



この 『 おもろ 』 は、喜界島の神女が首里王府へ行くまでの、
島渡り 『 おもろ 』 の一首である。
名高く鳴り響 ( とよ ) む押笠 ( おしかさ ) 神女が、
喜界(き、や)島の湾港を出立して、
ひるかさり ( 辺留笠利 ) 、中せとうち ( 中瀬戸内 )、
かねのしま ( 徳之島 ) 、せり、ゆさ ( 沖永良部 ) 島、
かゑふた ( 与論 ) 島、あすもり ( 安須杜=辺戸の御嶽 ) 、
かなひやふ ( 金比屋武=今帰仁の御嶽 ) 、
なは、とまり ( 那覇港 ) を経て、首里城へ登城したさまを詠っている。


辺留グスクへのアクセス
辺留グスクへは、奄美市 ( 旧・笠利町 ) の笠利小学校の前に当たる。
駐車は古墓前に駐車できるが、道幅が狭く、
轍の溝がひどいので車では注意が必要である。


鹿児島県奄美市笠利町  「 宇宿貝塚 」

2017-01-18 01:35:36 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



宇宿貝塚の一部が残っている場所









宇宿貝塚公園の入り口にある碑銘








以前の史跡を整理して公園化になった宇宿貝塚









宇宿貝塚跡に建てられた資料館






宇宿貝塚は、昭和8年に県道の開削工事により貝層が露出し、
それを三宅宗悦によって発見された。
そんな宇宿貝塚は奄美大島の北部に位置する奄美市(旧・笠利町)の
東海岸沿いに位置する標高13mを中心とした遺跡である。
出土遺物には、須恵器や無文尖底土器片、有文土器片、
亀焼土器、滑石製石鍋片などが出土している。



宇宿貝塚へのアクセス
宇宿貝塚へは、節田へは曲がらずに空港方面に進み、
奄美空港を過ぎてから1キロほど行くと
左側に宇宿貝塚公園の駐車場がある。


沖縄県竹富島  「 東新里村遺跡 」

2017-01-16 00:58:41 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



スク内にある岩








新里村遺跡に立つ路標







東新里村遺跡の全景







牛が自由に放し飼いされていたスク内





石垣島の真正面にお盆を伏せたように浮かぶ竹富島に、
人間の集団が定住して歴史を織り成すようになったのかは定かではない。
だが、竹富島には多くの神口(かんふつ・祝詞)が伝承され、
島の歴史の始まりを想像することの出来る材料が残されている。
そんな島の遺跡や神口によって島の歴史を紐解いて行けたらと思っている。


まずは、新里村遺跡の路標東側にある 【 東新里村遺跡 】 である。

竹富島最古の遺跡とされる「カイジ浜貝塚」からは、
大量のシャコ貝やタカセ貝が発見されている。
この貝塚は11世紀から12世紀のものだと考えられるが、
そのカイジ浜貝塚よりも後の時代に属する【 新里村遺跡 】 は二つの村落跡を含み、
ハナックンガー(花城井戸)を挟んで、
東側の集落遺跡は12世紀から13世紀にかけてのものだとみなされている。

スク跡からは、掘立柱の建物一棟、玉縁の白磁椀、須恵器の壷などの他に、
新里村式土器などが発掘されている。

新里村に居住している人々は、すでに農業を中心とする生活に入っていたと思われるが、
時代の異なる東西の集落はどのような関係にあったのかは遺跡だけでは解明できない。


東新里村遺跡へのアクセス
東新里村遺跡へは、石垣島より竹富島までフェリーで渡り、
竹富港の裏にある「竹富島ゆがふ館」の裏の道を右に
約300mほど歩いて行ったところに目印になる路標と花城井戸がある。
島内での移動は自転車になるので、
すぐに利用したい場合は、 「 竹富島ゆがふ館 」 裏にある
「 嶺本レンタサイクル 」 が近くて便利である。


沖縄県読谷村  「 宇座グスク 」

2017-01-13 10:20:30 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



緑葉の向こうのグスクの丘は、ほとんどが墓である








グスクへと続く道の途中にシマミシがある








こんもりとした丘になっているグスク





瀬名波グスクを過ぎると写真のようなこんもりとした丘が右手に見える。
その森全体が宇座グスクになっているが、
グスク内には人が生活をしたというような形跡がなく、
ほとんどが崖を利用した古墓で、
そこには鍋之甲墓や山内の墓、宇座イェーキ墓などの古墓で、
その他にも主不明の墓がある。
グスクというよりも死者を葬る墓 ( 聖域 ) だと思われる。


宇座グスクへのアクセス
読谷村の残波岬にある「残波ゴルフクラブ」の反対側の宇座集落の道路よりにある。
駐車は路上駐車になるが、グスク近くの道路には
「 シマミシ ( 死者が最後に島を見る場所 ) 」 があるので、
なるべくならば遠望をお薦めしたい。


沖縄世界遺産物語切手 『 琉球王国のグスク と 5人のジョー 』

2016-11-09 11:01:33 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



首里城のハガキとセットになった切手シート









左より、今帰仁 丈 ・ 中城 条 ・ 首里 澄 ・ 勝連 穣 ・ 座喜味 常








5人の顔とグスクが載った切手シート














琉球王国の要のグスクだった首里城









三山時代、北山を統一していた今帰仁城








第一尚氏に仕えていた城作りの名人、護佐丸が築いた座喜味城








勝連英雄の八代目城主 阿麻和利の勝連城








座喜味城のあと護佐丸が治めていた中城城






ブログ 【 がじゅまるの樹の下で 】 の情報を見て、
ネットで注文していた切手シートが昨日の夕方届いた。
このシートは、グスク好きにとってはたまらない逸品である。

世界遺産になったそれぞれのグスクにちなんだイケメンアニメが、
首里城は、  首里 澄 ・ シュリジョー
今帰仁城は、 今帰仁 丈 ・ ナキジンジョー
座喜味城は、 座喜味 常 ・ ザキミジョー
勝連城は、  勝連 穣 ・ カツレンジョー
中城城は、  中城 条 ・ ナカグスクジョー
の名で、 【 沖縄世界遺産物語 】 に登場している。



『 琉球王国のグスク及び関連遺産群 』 に指定されている5つのグスク。
その中に、グスクめぐりをするきっかけとなった座喜味グスクがある。
一番最初に沖縄へ行った時に、観光の定番である首里城に行ったが、
特別な感動はなかったし、興味もなかった。

そのころ、 島唄と泡盛にハマっていて、
二度目に沖縄に行った時は、りんけんバンドの 「 カラハーイ 」 や、
ネーネーズの吉田康子さんの 「 名護ぬ前 」 などに行った時に、
読谷村にある知花昌一さんの黙認地の楚辺通信所 ( 通称・象のオリ ) を見て、
時間があったので、たまたま立ち寄った座喜味グスクに衝撃を受けた。

その当時、 「 馬の詩 」 というホームページを持っていて、
それに掲載するのにグスクめぐりを始め、
琉球の歴史を知れば知るほど、どんどんのめり込んで行った。
それは、沖縄本島だけにとどまらず、
最南端の波照間島から北限の奄美大島や喜界島にまで及んだ。

個人的には座喜味や安慶名、知念などの城門連郭式のグスクが好きで、
どのグスクも感動したが、特に感動したのは、 「 これでもか! 」 っていうくらい
急勾配の山道を登らなければならない場所に城門があり、
累々と積まれた長い城壁と井戸がある伊平屋島の田名 ( ダナ ) グスクである。



鹿児島県奄美市手花部  「 大和グスク 」

2016-10-11 03:00:18 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



約150坪ほどある頂部平場








笠利湾に面した大和グスクの遠望 ( 最初に訪れたとき道路拡幅工事中 )







二度目の探訪の時はグスク頂部への道が造られていた入り口







頂部入り口付近から笠利湾の眺望








頂部にある平場の入り口







平場奥にある尾根を利用した掘り切り








グスク中腹辺りからの眺望







グスクの入り口の目印になる手花部小学校





大和グスクは、奄美大島の北部に位置する
笠利湾の一番奥深い海に面した小高い丘に築かれたグスクである。
最初に訪れた時は、グスクへ通じる場所が道路の改良工事が行われており、
立ち入り禁止になっていた。
そのため近くから見ることは出来ずに遠望になったが、
2ヵ月後に再び訪れて探索した結果。
頂部の主郭と思われる平場は約150坪ほどの広さがあり、
平場の奥には奄美で主に見られる石垣を使わず、
尾根を利用した掘り切りが郭を取り囲んで残っていた。



大和グスクへのアクセス
大和城グスクへは、国道58号線を龍郷町役場から
赤尾木を過ぎてさらに北に進むと、左側に手花部小学校がある。
その先を左に曲がった突き当りが大和グスクになる。
駐車は、左折した道路の広い場所に路上駐車した。


沖縄県嘉手納町  「 嘉手納グスク 」

2016-10-09 05:43:50 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



現在は公民館などの公共の施設が立ち並ぶ









国道58号線沿いにある公民館







公民館横にある駐車場







グスクの奥にある天川の池の碑




「 天川の池に 遊ぶおしどりの おもいばのちぎり よそや知らぬ 」



公民館の駐車場の奥にある歌碑は、赤犬子が詠んだという歌が刻まれている。

嘉手納グスクは比謝川沿いに築かれたグスクである。
この場所付近にはメーダグスク、ウフグスク、屋良グスクなどがあり、
いかにこの地がグスクを築く上で適していたかが分かるが、
現在は造成され、公民館や駐車場に姿を変えて昔日の面影を残していない。
また、横には琉球歌人、吉屋チルーが詠んだ比謝橋が架かっている。


嘉手納グスクへのアクセス
嘉手納グスクへは、国道58号線を北谷から嘉手納に向かい、
嘉手納ロータリーをそのまま読谷方面に300mほど行くと右側に公民館がある。
駐車は、公民館の駐車場が利用できる。


沖縄県粟国島   「 八重川 ( やえがー ) グスク 」

2016-09-26 03:23:12 | グスク ( 城 ) ・ 遺跡



八重川グスクの石垣















保存よく残っている石垣















グスク内にある巨岩








グスクの平場








グスクから洞穴への入り口







グスクに通じる洞穴






八重川グスクは粟国村集落の西方にあり、
標高50.3mの土倉原丘陵縁端部に位置する。
丘陵上からは島の東半分を見下ろすことが出来る恰好の地にある。
グスク内部には南北18m×東西28mのフラット面が存在し、
その北側は巨大な岩塊と崖状のフィッシャーがめぐり、
南側を屏風状の垂直な崖が東西に位置し、グスクを区切るようにある。
石積みは崖縁部やフィッシャー部には認められず、
わずかな岩塊との間をうめるように
なだらかな斜面部に構築されている。

特徴的な石積み遺構として南側の崖下部から積み上げたもので、
のぞき穴の様な箇所も造られている。
大きさが2~3mほどのもので、何らかの要害施設を思わしめる。
グスク内部では遺物は確認されず、南側の崖下部分にて石器 ( 凹石 ) 、
焼き土がわずかに採集されているだけである。


八重川グスクへのアクセス
八重川グスクは、粟国島の字西御嶽の横になるが、
地元では聖域としているだけに、地元の方の許可を得てから山に入るよう。
ただ、グスク入り口の洞穴の中は窟墓になっており、
真っ暗な中を60度くらいの斜面の崖を10mほど登らなければならないので、
かなり危険がともなう。