「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県今帰仁村 「 天孫子英祖二男 ・ 北山世之主 湧川之主の墓 」

2015-07-20 00:03:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所











「 天孫子英祖二男 ・ 北山世之主 湧川之主之墓 」 と書かれた墓石





今帰仁村の今泊集落を流れる志慶真川の近くに
天孫子英祖二男 ・ 北山世之主 湧川之主の墓がある。
ここは志慶真乙樽の墓の手前になるが、
墓には、比嘉家の墓の墓石もあり、門中であった可能性もあるが、
場所が湧川ではないのが腑に落ちないところである。

「 天孫子英祖王の二男が何故ここに? 」 って言うのが正直なところであるが、
津屋口墓のことも含めて、
一族からすれば離れ墓にしなければならない理由があったのだろう。

もともと今帰仁村湧川に按司道 ( あじみち ) があり、
そこにカー ( 湧泉 ) 跡がある。
池の側に6基の香炉が置かれ、按司道と香炉、そしてカーなど、
どのような関係にあるのか興味深い。

付近の様子を述べると、すぐ近くに新里家がある。
それと湧川の村の創設は1738年である。
そして寄留士族が過半数を占めている。
また、豊年祭の時、メンビャの広場で棒と路次楽と奉納踊りが行われる。
そこでの演舞が終わると、香炉のあるカーの側(按司道)を通り、獅子小屋へ向かう。

これまでの香炉の調査は按司が薩州や江戸立など上国の時、
随行していった奉公人が村(ムラ)の御嶽(ウタキ)のイベや
遥拝場所に寄進する例が散見できる。


沖縄県那覇市首里大名町 「 宜湾朝保の墓 」

2015-07-04 00:00:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



宜湾朝保の墓







「 尚家宜湾家之墓 」 と刻まれた墓碑







今では拝みをする人も居ないのか墓は雑草に覆われていた











高平良万歳で知られる高平良御鎖の屋敷のあった高平良山。
近世琉球の礎を敷いた羽地朝秀の墓、宜野湾御殿の墓、平良(テーラ)馬場、
それに宜湾朝保の墓、蔡温の墓一帯は西原間切りの平良村に含まれていた。
末吉宮のチャーギ山の裏側に当たる場所にある蔡温の墓から、
約250mほど離れた墓地に宜湾朝保の墓がある。
儀保方面から行けば、大名公民館の横の脇道を入った下之御嶽の裏側辺りになる。
今では拝みが行われていないのか?墓の周囲は深い雑草に覆われていた。


宜湾 朝保 ( ぎわん ちょうほ )
道光3年(尚�豹20年・1823年)3月5日 - 光緒2年(尚泰29年・1876年)8月6日)は、
琉球王国末期の著名な政治家で歌人であり、琉球の五偉人の一人である。
当時の正式な呼称は宜湾親方朝保。

小禄御殿の支流である向氏宜湾殿内(系祖・六世前川親方朝年)の12世。
首里の生まれである。唐名は向有恆。
父の宜野湾親方朝昆(唐名は向廷楷)は、尚育王時代の三司官であった。
父が亡くなり、朝保は13歳で家をつぎ、宜野湾間切を領した。
当初は、宜野湾の家名を名乗っていたが、
1875年(明治8年)に尚泰王の次男・尚寅が宜野湾間切を賜り
宜野湾王子と称するようになったため、宜野湾の名を避け、宜湾と称するようになった。

また宜湾朝保は、琉球藩を受け入れた 王国最後の政治家でもある。
十九世紀中葉、日本が明治維新を成し遂げた激動の時代に、
若くして琉球政治の最高職・三司官に就任した宜湾朝保は
維新を祝う使者として東京に派遣された。
そこで新政府から琉球を日本の藩とし、
国王・尚泰を藩王とする詔勅が下され、
使者一行は驚くが、宜湾は世界の大勢と自国の立場を鑑みこれを受諾した。
以降、琉球を日本に取り込むための施策、琉球処分が段階的に行われていった。

亡国の危機に瀕した琉球王府では議論が沸騰したが、
宜湾はこの様子を 「 衆官の議、もっぱら己の門閥を保つを先にする 」 と評し
「 ただ国家を安んずる 」 ために多難な琉球を新しい時代に導こうとした。
しかし親清派の士族達からは 「 売国奴 」 と呼ばれ、
激しい非難の集中砲火を受けたため病に伏し、やむなく三司官を辞した。
彼が憂悶のうちに没したその三年後、強権的に琉球王国は廃され沖縄県となった。


「 野にすだく 虫の声々かまびすし たが聞き分けて品定めせむ 」   宜湾朝保

幕末は、鹿児島に使し、歌人の八田知紀に和歌を学び、帰琉して別業を営み、
悠然亭と命じ、自分は松風斎と号し、歌を講じた。
のち福崎季連と相携え、琉球歌壇の基礎を築いた。
明治5年(1872年)、東京滞在中、吹上離宮の歌会に陪侍し、
「 水石契久 動きなき御世を心のいはかねにかけてたえせぬ滝の白糸 」 と詠み、
天皇のお褒めを頂いた。
一説に、上り口説、下り口説、四季口説は朝保の作であるという。
宜湾朝保は当代一の国際感覚を持った政治家であり、
琉球最大の歌人とも称された文化人だったが、失脚後は不遇な晩年を送った。



沖縄県今帰仁村  「 津屋口墓 ・ 通称 ( アカン墓 ) 」

2015-06-29 00:01:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



沖縄県今帰仁村 「 津屋口墓 」













沖縄では一般に亀甲墓は女性の性器を表したとされ、
死して生まれた場所に戻る。

いわゆる生を受けた場所に戻ることを意味し、形どったと言われている。
そんな入り口である膣に蓋がされている墓は今まであまり見たことがない。

今帰仁村今泊集落に 「 アカン ( 開かん ) 墓 」 と呼ばれる墓がある。
その墓には入り口がなく、塗り込められているので、別名でこう呼ばれている。
正確には 「 津屋口墓 」 、ウチナーグチで 「 ちぇーぐち墓 」 とも言う。

おそらく流行病か、悪霊を防ぐために入り口を塗り固めたと思われるが、
この事についてはあくまでも私感なので、参考にしないでいただきたい。

アカン ( 開かん ) 墓に葬られているのは、
今帰仁監守三世の 「 和賢 」 ( わけん ) である。
墓庭には1678年に建立された 「 墳墓記 」 と記された墓碑がある。

今帰仁監守とは、首里王府から派遣された今帰仁城の管理人で、
一世は首里の玉陵 ( たまうどぅん ) に、
二世と四世から七世までは以前、ブログでも紹介した
運天港近くの大北墓 ( うーにしばか ) に葬られている。

なぜ、三世だけが今泊の津屋口墓に葬られているのだろうか?
しかも墓口は閉じられており、
一人だけ村はずれに葬られたとは、悲しいものである。



沖縄県那覇市首里大名町 「 蔡温の墓 」

2015-06-26 00:00:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



第二尚氏・三司官 「 蔡温の墓 」











ゆいレールの市立病院前で降りて、正面の末吉公園を抜けて末吉宮へ向かって行き、
末吉宮が南向きの斜面だとすると、その裏側に蔡温の墓がある。
蔡温 ( 1682年~1762年 ) の墓は沢岻の広陵向け、浦添城向けに造られており、
蔡温は1716年に末吉の地頭、1719年に末吉親方となっているから、
末吉近在に墓があってもおかしくないとはいえる。

蔡温は、琉球王国の政治家であり、具志頭親方文若。
蔡氏具志頭殿内の小祖(蔡氏志多伯家十一世)。久米三十六姓の出身である。
第二尚氏13代王・尚 敬王に40年間にわたって仕え、第二黄金時代を築いた。
三司官に任ぜられ、羽地大川の河川工事や山林の保護に尽心竭力し、
琉球の農業の発展に貢献した。
「 御教条 」 など多くの本を書き残した。
平敷屋友寄事件で、平敷屋朝敏、友寄安乗を安謝の海岸で処刑したのも蔡温である。

蔡温の墓は浦添に向かう宿道からみれば、
南の坂 ( フェーヌフィラ ) から左手 ( 西 ) 方向となる。
平良、大名、末吉、石嶺は現在那覇市首里の町名となっているが、
近世では西原間切の村である。

今ではあまり訪れる人もいないのか?
地元の人でも、その墓所を知らず、
木立の間をひっそりと佇んでいるようであった。
ただ、墓は近年造り替えられたようで、思ったよりも新しく、
琉球王朝時代を偲ばせるものは感じなかった。



沖縄県那覇市首里平良町  「 羽地朝秀 ( はねじちょうしゅう ) の墓 」

2015-06-20 00:02:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



沖縄最初の歴史書を作った「 羽地朝秀の墓 」








墓庭の石碑は薄くなっていたが 「 贈 正五位 羽地朝秀之墓 」 と刻まれている












今年、いろんな場所で石橋、馬場跡、灯台、文化財などを探訪したが、
何よりも探し出せて一番うれしかったのが、この羽地朝秀の墓である。

今まで3年以上、5度目の探訪にして初めて見つけ出した墓である。
これまで、この付近の墓の名前を覚えるくらい巡ったが、
探し出せないので、「 もう、諦めよう 」 と思って、
首里大名町の公民館の前に停めていた車に行って帰り支度をしていたら、
公民館から出て来たおじいさんと会って、
羽地朝秀の墓のことを訊ねたら、「 付いて来なさい 」 と、
墓の入り口まで連れて行ってくれた。

自分一人では何時間かかっても探し出せない場所にその墓はあった。
「 ゆっくり見て行ったらいいさぁ 」 と、言っておじいさんは行ったが、
それは、長年の夢が叶った墓の探訪だった。


羽地朝秀 ( はねじちょうしゅう ) の墓は、
沖縄県那覇市首里平良町の通称チャーギ山にある
琉球王国の摂政・羽地王子朝秀の墓である。
墓様式は亀甲墓の祖型をなす独特の形をしている。

羽地朝秀の墓は、正確には朝秀個人の墓ではなく、
琉球王族・羽地御殿の歴代墓(家族墓)である。
羽地御殿は、小禄御殿二世・尚弘業・浦添王子朝喬の三男・羽地王子朝元を系祖とする
御殿 ( うどぅん、王家分家 ) である。

羽地朝秀の墓は、朝秀の父・朝泰の代に国王から拝領したもので、
当初は堀込墓であったが、後年現在の亀甲墓の形に似た姿に改修されたといわれる。
形は亀甲墓に似ているが、屋根は亀甲形ではなく、かまぼこ形をしており、
亀甲墓に特有の臼 ( ウーシ ) や袖石 ( スディイシ ) といった諸要素も欠いている。

また、亀甲墓に比べて、地面からマユ(眉)と呼ばれる墓室正面の屋根までの高さも高く、
墓口も大きい。
墓室前には庭を囲む袖垣があるが、戦前の写真と比べると、
上部が崩壊したのか高さが低くなっている。
墓口近くの墓庭には 「 贈 正五位 羽地朝秀之墓 」 の文字を刻んだ石碑が
1922(大正11)年に建立されている。


沖縄県糸満市与座 「 与座按司の墓 」

2015-05-25 04:20:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



与座岳の中腹にある与座グスクにある与座按司の墓





上与座集落の東はずれの農道から山道に入ると、
横穴墓があり、前面は石積みになっているノロ墓がある。
そこから5分ほど上ると与座按司の墓がある。
与座の年中行事のうち、旧暦8月15日の豊年御願と10月の火松御願には、按司墓を拝んでいる。

与座グスクは与座岳(168m)の中腹に築かれたグスクで、
南山王 ( 他魯海・たるみ ) が城下の嘉手志川 ( カデシガー ) と
尚 巴志 ( しょうはし ) の所有する金屏風との交換を与座大主が勧めたといわれている。
与座大主の配下にある国吉大屋子は、極力反対を訴えたが聞き入れられず、
反対に謹慎の処分を言い渡される。
尚 巴志は、金屏風と交換した嘉手志川の周りに使用を禁じたので、
百姓は南山王から離反した。
かくて尚巴志軍は南山グスク、与座グスクを攻め落とした。




沖縄県今帰仁村 「 志慶真乙樽の墓 」

2015-05-16 06:31:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



志慶真川の側にある 「 志慶真乙樽の墓 」








小石を飾り付けた志慶真乙樽の墓碑














今帰仁村の今泊集落を国道505号線に架かる志慶真川の橋を渡ると
その左側に古墓が4基ある。
その一番奥が志慶真乙樽の墓である。

今からおよそ七百年程前の中北山時代の頃、
今帰仁城の南側に志慶真村 ( しげまむら ) という集落がありました。
この 「 しげま村 」 に、乙樽 ( ウトゥダル ) という絶世の美女がいました。
その美貌のうわさは国中に広がり、
又このようにうっとりとみとれるほどの綺麗な乙女は、
神様みたいに気高いというので、
「 今帰仁御神 」 ( ナキジンウカミ ) と云われるようになりました。

ときの権力者は、神様のようだといわれるほどの美人を、
そのままにしてはおきませんでした。
そこで、今帰仁世の主 ( 王 ) はこの美女 ( 乙樽 ) を城内に召し寄せて
寵愛 ( ちょうあい ) することにしました。
乙樽も、それを栄誉に思い、しげま村の人たちも、
自分の村から 「 世の主 」 のおめがねにかなった美人が、
お城に召抱えられたというので、その喜び方は大変なものでありました。

乙樽は、今帰仁世の主の寵愛を一身に受け、
国中の乙女たちから羨望 ( せんぼう ) されながら、
毎日を過ごしておりましたが、王妃にも、乙樽にも子供が生まれず、
そればかりを願っているうち、ようやく王妃に妊娠の兆候が、
あらわれるようになりました。
時に 「 世の主 」 もすでに六十歳になっていました。


 今帰仁世の主は、文武の伝統をかがみにして祖先の遺徳をあおぎ、
徳をもって人民をおさめ、御代長久あらんことを祈っておりましたが、
六十歳になるまで後継ぎの子供がなくいつもこれを気にしているうちに、
ついに病床にたおれ再起もおぼつかない身の上となりました。

 そんなある日世の主は、近臣たちを枕元に呼び、
「 私には、皆が知っているとおり、後継ぎがいないので、
そればかりが気がかりで、残念に思っていた。
幸いにして妃 ( おなじやら ) が妊娠しているようで、
もし女の子であるなら、諸臣共の中から徳のある優秀な者を選んで
聟 ( 婿 )養子として私の跡を継がすようにしてくれ、
私のこのたびの病気では、治りそうにもないので、
何分とも皆でよろしく取り計らうように 」 といわれ、
間もなくして亡くなられてしまいました。

 「 世の主 」 が亡くなってからの今帰仁城内は、
まるで火が消えたような有様で、諸臣たちはじめ、国中の人も悲歎にくれました。
ただ、生まれる子が男であるように祈るだけで、
城内の武士たちも、国中の人民たちも、それを願っておりました。

 その中でも、乙樽は、城内の守護神として祀っている 「 天つぎの御イビ 」 の前にかしこまり、
雨の日も、風の日も 「 おなじやらが安産するように、
どうか男の子であるように 」 と祈りつづけ、
その祈願の熱心さは、はたの見る目にもいじらしいほどであったと云います。

月みちて生まれたのは、みなの宿願のとおり、玉のような男の子でありました。
国中の人々の喜びもさることながら、乙樽の喜びは、天にも上らんばかりで、
涙を流して神に感謝申し上げ、それからは、母子の世話を一手に引き受け、
ひまさえあれば、若按司 ( 王子 ) を、乙樽はわが子のようにかわいがりました。
その様を誰いうことなく、次の歌がはやりました。

『 今帰仁のぐすく 霜成の九年母 しじま乙樽がぬちゃいはちゃい 』

この歌は 「 今帰仁城内に生まれた王子が、王様が六十歳になってからの、
時節はずれの子であるというので霜成の九年母にたとえられたのです。
九年母とは ( 蜜柑 ) で春に花が咲いて、秋頃に実が熟するのですが、
秋から冬にかけて、即ち、霜月(下月)の頃に花が咲いて実ることも稀にあって、
これを霜成の九年母 ( シムナイヌクニブ ) と云い、
この霜成の九年母のように、その季節をはずれて生まれた今帰仁の王子を
志慶真乙樽 ( しじまうとぅだる ) が、大変かわいがった。 」 という歌であります。



沖縄県うるま市 「 天願按司の墓 」

2015-04-17 19:47:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所




うるま市 「 具志川グスク ・ 天願按司の墓 」











天願按司の墓の掲載は二度目だが、
久志の若按司の関係から掲載させて頂いた。

うるま市の旧・具志川市の具志川集落から海岸に向かうと、
海に突き出した丘 ( 具志川グスク ) が見える。

そのグスクの西側の崖下に白い 「 天願按司の墓 」 が県道37号線から見える。
墓は県道沿いの内陸と丘の間は谷間になっており、
右寄りの所に按司墓へ行く細い道がある。

具志川グスクには安慶名大川按司の三男が居住していたといわれている。
港を控え交易しているのを知った国頭村の富盛大主が攻め、天願按司は戦死したという。
子の天願若按司は従兄弟の久志若按司と協力して父の仇を討ち取ったと伝えられている。
しかし、天願若按司は若死にし、後継ぎがなかったので、
三代目安慶名大川按司の三男である具志川按司が継承したが、
尚 真王の中央集権により、首里に移住するようになったという。
子孫は屋号 「 徳松 」 といわれている。



沖縄県名護市 「 久志の若按司の墓 」

2015-04-17 06:34:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



久志集落の入り口に海を背にした 「 久志の若按司の墓 」


















久志の若按司の墓は、辺野古から久志集落へ入る入口の
カーブになった右側にある。
鳥居をくぐると正面に久志の若按司の系統が彫られた碑があり、
左手に沖縄では珍しい形をした墓がある。


天願の按司は、謝名の大主にだまし討ちに合い殺される。
遺児となった天願の若按司と乙鶴も、
逃げ延びる途中で謝名の臣下である富盛大主に捕らえられる。
それを知った天願の分家である久志の若按司は、
他の臣下らと供に東恩納番所へと向かい二人の救出に成功する。
久志の若按司は、一計を案じ、
捕らえた富盛の大主に、偽りの情報を流して逃がし
敵方同士を仲違いさせることに成功し、
ついには罠とも知らず久志の城に攻め入った謝名の大主らを捕らえ、
首尾良く主君の仇討ちを果たす。


沖縄県宜野湾市 「 大山御嶽 ( おおやまうたき ) 」

2015-03-22 04:50:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所







宜野湾市にある大山御嶽は、
大山貝塚からさらに坂を上りがり、普天間基地のフェンス沿いの小路を行くと、
そこは伊波ヌ御願小と呼ばれ、伊波門中の発祥地である。
左側に1761年建立の石碑がある。

「 昔、ウスクガー(南風原町宮城)に天女が降りて子孫が繁栄し、
宮城ノロも始まった。姓が分かれていき、
伊波子という者が200年ほど前に当地に来て地形を見分けた。
平野に丘が続いて清水がある。
近くに海があり、豊かな土地である。
喜んでこの村に家を構え、大山と号して御嶽を建立し、
美松を植えて崇拝した。

子孫も繁栄し、特に謝名真徳は強力な武勇で諸人に貴ばれ親しまれた。
毎年3月3日には兼久で馬遊びをしたので、
願立ての際はそこから堀切川の先祖墓に向かって拝礼する由、言い伝えられている 」 とある。

石碑の裏には、桃原親雲上、宮城掟親雲上、宮城にやなどが記名されている。
伊波門中はウチマーや旧暦9月9日に大山御嶽を拝んでいる。


※ 9月9日 クングヮチクニチは、菊酒・重陽 ( ちょうよう ) とも言い、
  菊花を酒杯に入れて飲み、健康長寿を祝う。
 

沖縄県国頭村 「 安須森御嶽 ( アスモリウタキ ) 」

2015-01-01 00:02:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所




























沖縄県の最北端に位置する辺戸集落を見下ろすようにそびえる安須森御嶽。
下の集落から見ても霊気が漂って来る。

安須森御嶽は琉球開闢七御嶽の一つであり、沖縄最高の聖地である。
安須森と書いて一般的には 「 あすもり 」 と読むが、
「 国頭村史 」 によると、「 あしむり 」 と呼ぶのが正しいとのこと。
「 琉球国由来記 」 ではアフリ嶽 神名カンナカノ御イベとある。
「 中山世鑑 」 によると、沖縄で最初に出来たお嶽のようで、
「 国頭村史 」 を見ると、起源1世紀頃にアマミキヨ族が南西諸島を南下してきて
宇佐浜遺跡に居を構えたことと関連があると指摘している。

似たような話は久高島にもあり、
久高島には同じく七御嶽の一つであるフボー御嶽がある。
琉球民族に刻まれた先祖の遠い記憶とも言うのであろうか?

「 琉球国由来記 」 によると、今帰仁のアフリノハナに涼傘が立つとき、
アフリ嶽 ( 安須森御嶽 ) に君真物の神が現れるという。
また、キミテズリの神というのも出現するらしく、
「 角川日本地名大辞典沖縄 」 の辺戸岳の解説によると、
国王即位の前に出現する神のようである。

ちなみに、この安須森御嶽の標高は248mの山である。



沖縄県中城村 「 中城グスクの拝所 」

2014-09-29 04:41:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



中城グスクの正門









シライ富ノ御イベ









シライ富ノ御イベの拝所








中森ノ御イベ ( 通称 ・ 着替御嶽 ちげーうたき )









雨乞イノ御嶽







小城( くーぐすく ) ノ御イベ ( 通称 ・ 久高遥拝所 くだかうとぅし )







小城ノ御イベの拝所








御當蔵火神 ( うとぅくらひぬかん ) ( 通称 ・ 首里遥拝所 しゅりうとぅし )








御當蔵火神の拝所








ナミナミノ御イベ ( 通称 ・ 長門御嶽 )







裏門の近くに築かれたミーグスク ( 新城 ) の城壁








ペリーが絶賛した裏門「 城門( ティダが門 ) 」





護佐丸が築いた座喜味グスクや中城グスクの石積みは、
観る者の心を鷲掴みにする。

護佐丸が築いたミーグスクを擁する中城グスク。
ペリーが絶賛したという城門の向こうには
さまざまな拝所が点在する。


沖縄県宜野湾市 「 羽衣伝説の森の川と西森御嶽 」

2014-09-21 00:05:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



察度の母、天女が沐浴した森の川
































浦添間切謝名村に、奥間大親という青年がいた。
その青年が仕事の帰りに森川に立ち寄ったところ、村では見かけない美人が沐浴をしていた。
そこで、女性の着ていた衣を草むらに隠し、何食わぬ顔で姿をあらわすと、
女性は驚いて慌てて衣を探すが、木の枝に掛けてある筈の衣がなく泣き崩れてしまった。
そこで、奥間は女性を自分の家に連れて帰り、夫婦となり一緒に暮らし一男一女をもうけた。
そんなある日、娘が唄う歌に「ハッ」となった。

それは、「母親の飛衣は六足蔵に、母親の舞衣は八足蔵に」と。
それを聞いた母親は、天女の飛衣をまとって泣き叫ぶ子どもを残して天に舞い上がって行った。
母親の残した男の子は、後に浦添按司となり、
中山王として察度王統を開いた察度だといわれている。






















羽衣伝説の森の川と西森御嶽




森の川の後方、林の奥にある西森御嶽。
西森御嶽は『琉球国由来記』に記されている「謝名西森」という御嶽(神名は不伝)で、
察度王の父・奥間大親の住居跡だと伝えられている。



沖縄県那覇市 「 宜湾朝保 ( ぎわんちょうほ ) の墓 」

2014-06-21 05:05:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



宜湾朝保の墓







「 尚家宜湾家之墓 」 と刻まれた墓碑







今では拝みをする人も居ないのか墓は雑草に覆われていた











高平良万歳で知られる高平良御鎖の屋敷のあった高平良山。
近世琉球の礎を敷いた羽地朝秀の墓、宜野湾御殿の墓、平良(テーラ)馬場、
それに宜湾朝保の墓、蔡温の墓一帯は西原間切りの平良村に含まれていた。
末吉宮のチャーギ山の裏側に当たる場所にある蔡温の墓から、
約250mほど離れた墓地に宜湾朝保の墓がある。
儀保方面から行けば、大名公民館の横の脇道を入った下之御嶽の裏側辺りになる。
今では拝みが行われていないのか?墓の周囲は深い雑草に覆われていた。


宜湾 朝保 ( ぎわん ちょうほ )
道光3年(尚灝20年・1823年)3月5日 - 光緒2年(尚泰29年・1876年)8月6日)は、
琉球王国末期の著名な政治家で歌人であり、琉球の五偉人の一人である。
当時の正式な呼称は宜湾親方朝保。

小禄御殿の支流である向氏宜湾殿内(系祖・六世前川親方朝年)の12世。
首里の生まれである。唐名は向有恆。
父の宜野湾親方朝昆(唐名は向廷楷)は、尚育王時代の三司官であった。
父が亡くなり、朝保は13歳で家をつぎ、宜野湾間切を領した。
当初は、宜野湾の家名を名乗っていたが、
1875年(明治8年)に尚泰王の次男・尚寅が宜野湾間切を賜り
宜野湾王子と称するようになったため、宜野湾の名を避け、宜湾と称するようになった。

また宜湾朝保は、琉球藩を受け入れた 王国最後の政治家でもある。
十九世紀中葉、日本が明治維新を成し遂げた激動の時代に、
若くして琉球政治の最高職・三司官に就任した宜湾朝保は
維新を祝う使者として東京に派遣された。
そこで新政府から琉球を日本の藩とし、
国王・尚泰を藩王とする詔勅が下され、
使者一行は驚くが、宜湾は世界の大勢と自国の立場を鑑みこれを受諾した。
以降、琉球を日本に取り込むための施策、琉球処分が段階的に行われていった。

亡国の危機に瀕した琉球王府では議論が沸騰したが、
宜湾はこの様子を 「 衆官の議、もっぱら己の門閥を保つを先にする 」 と評し
「 ただ国家を安んずる 」 ために多難な琉球を新しい時代に導こうとした。
しかし親清派の士族達からは 「 売国奴 」 と呼ばれ、
激しい非難の集中砲火を受けたため病に伏し、やむなく三司官を辞した。
彼が憂悶のうちに没したその三年後、強権的に琉球王国は廃され沖縄県となった。


「 野にすだく 虫の声々かまびすし たが聞き分けて品定めせむ 」   宜湾朝保

幕末は、鹿児島に使し、歌人の八田知紀に和歌を学び、帰琉して別業を営み、
悠然亭と命じ、自分は松風斎と号し、歌を講じた。
のち福崎季連と相携え、琉球歌壇の基礎を築いた。
明治5年(1872年)、東京滞在中、吹上離宮の歌会に陪侍し、
「 水石契久 動きなき御世を心のいはかねにかけてたえせぬ滝の白糸 」 と詠み、
天皇のお褒めを頂いた。
一説に、上り口説、下り口説、四季口説は朝保の作であるという。
宜湾朝保は当代一の国際感覚を持った政治家であり、
琉球最大の歌人とも称された文化人だったが、失脚後は不遇な晩年を送った。



沖縄県うるま市 「 伊覇按司の墓 」

2014-05-28 04:46:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



伊覇按司の墓








伊覇按司の墓と伊覇中門祖宗の墓










伊覇按司の墓は、山城集落の手前を走る石川バイパスの道沿いにある岩陰墓で、
入り口には 「 伊覇按司之墓 」 と書かれた墓標が建っいる。

伊覇按司の墓の隣には「伊覇中門祖宗の墓」 がある。
伊覇按司は伊覇グスクを住居としていたが、山城村に墓を造った。

1322年、羽地按司の攻略で今帰仁城を追われた城主・仲宗根若按司と
長男の今帰仁王子は、名護の屋部村に身をひそめたと言われている。
父が死んだので、宇茂佐の山中に葬って、王子は伊波村まで落ち延びた。
嘉手苅の洞穴で暮らしていたが、伊波大主が人物を認め、婿にした。
そして村民の協力で伊波グスクを築いた。

息子の一人は伊波グスクを継いで東道を押さえ、
他の息子は山田グスクを築いて西道を固め、今帰仁グスクからの来襲に備えた。
子孫一族はさらに防備を固め、具志川の喜屋武グスク、安慶名グスク、具志川グスク。
嘉手納の屋良グスク、比謝川の大湾グスク。
コザの越来グスク。中城グスク、勝連グスクを築き、勢力を張ったと言われている。