名護親方程順則の墓
墓の前に立つ墓碑
同じような墓が並ぶ中で一本だけある墓碑が目印になる
識名墓園の最寄りのバス停
程順足は、名護親方と言われるくらいだから、
その墓は、てっきり名護にあるものだと思っていた。
すると墓は、那覇市の識名園に隣接する識名墓園の中にあった。
この類の思い込みは、平敷屋朝敏の墓が与勝半島の平敷屋にあると勝手に思い込んでいたら、
なんと平敷屋から500キロちかく離れた多良間島にあったのと同じだ。
名護も那覇も沖縄本島なので、そこまで離れていないのは助かったが、
何も知らなければ名護を探し回るところだった。
識名墓園のおびただしい数の墓の中から 「 程順足 」 の墓を探し出した。
程順足の墓は、特別な形をしているわけでもなければ、
特別な大きさをしているわけでもなく、
その他諸々の墓と同じような大きさで同じような形をして並んで、
宮古島でいう 「 墓団地 」 状態であった。
長堂橋の親柱に座っている 「 名護親方程順足 」
長堂橋のたもとにある 「 名護親方程順足の教え 」 を書いた説明版
名護市の世富慶から国道329号線を二見に向かって行くと長堂橋がある。
この橋の親柱に名護親方程順則が座っている。
テンペストでも、よく親方という言葉を耳にする。
それに塚本高史が演じる喜舎場朝薫のように、
沖縄では名前に朝 ( ちょう ) がつく人が多い。
朝のつく人は王家の一族で、琉球の士族は一族によって決まった字を
名前の頭につける慣わしがあったことは、
羽地朝秀 ( はねじちょうしゅう ) 、玉城長薫 ( たまぐすくちょうくん )、
平敷屋朝敏 ( へしきやちょうびん ) 、宜湾朝保 ( ぎわんちょうほ ) 、
牧志朝忠 ( まきしちょうちゅう ) など、歴史上の人物から確認できる。
名護親方程順則 ( なごうえかた ていじゅんそく )
程順則 ( 1663.10.28~1734.12.8 ) は、
那覇の久米村に生まれ、童名 ( わらびめー ) を思武太 ( うむんた ) といい、
字名を寵文 ( ちょうぶん ) と言われていた。
程順則は、近世の沖縄を代表する学者・文人であり、教育者・政治家である。
久米村の総責任者として子弟の教育と人材の育成に情熱を注ぎ、
琉球王府を支える多くの人材を世に送り出している。
また、近世の日本本土で知られた唯一の沖縄人である。
程順則は21歳の時に中国に留学して以来、王府を代表する使節として、
5回も中国に赴いている。
その間、中国の文人たちと交流を深め、いつも貴重な文物を持ち帰り、
中国文化の普及に努めた。
程順則みずからも優れた漢詩文を作り、多くの詩文集を編集している。
新貢正義大夫として4回目の渡中のおり、
「 六諭衍義 」 と 「 指南広義 」 を自費で印刷し、
1708年に沖縄へ持ち帰った。
「 六諭衍義 」 は、後に薩摩を経由して徳川吉宗に献上され、
室鳩巣に和訳させ、 「 六諭衍義大意 」 として出版された。
この本は江戸時代中期から明治の初めにかけて庶民教育の教科書として
全国の各藩、また津々浦々の寺小屋で使われ広まった。
程順則は66歳の時に、それまでの功績によって
名護間切の惣地頭職を授かり、1734年に亡くなるまでの6年間を
名護とさまざまな関わりを持った。
彼は、その人格と素養・徳によって 「 聖人 」 として人々から深く尊敬されていた。
とくに名護では、旧正月の元旦に役場で 「 御字拝み 」 として、
名護親方程順則自筆の 「 六諭 」 の書を掲げ、その高徳をしのび、
新しい年の心構えを誓う行事が催されている。
「 六諭 」 の読み方と意味
孝順父母 父母に孝順なれ。 ( 父母に孝行をしなさい )
尊敬長上 長上を尊敬せよ。 ( 目上の人を尊敬しなさい )
和睦郷里 郷里は和睦せよ。 ( 郷里は打ち解けなさい )
教訓子孫 子孫を教訓せよ。 ( 子孫を教え導きなさい )
各安生理 各々生理に安んぜよ。 ( おのおの生業に甘んじなさい )
母作非為 非意をなすなかれ。 ( 悪いことをしてはいけない )