「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県今帰仁村運天 「 百按司墓 」

2014-05-23 05:08:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



今帰仁村運天 「 百按司墓 」











百按司墓は、古宇利島や運天港を見下ろす丘の中腹にあり、
「源為朝上陸碑」のそばから細い道を降りると、左側斜面に墓が点在する。
その一番奥にあるのが、 「 百按司墓 」 である。

地元では百按司(ムムジャナ)墓と呼ばれており、
墓は運天集落の北東部、崖の中腹、自然岸壁利用して造られている。
付近には三基の墓があり、百 ( 大勢の ) 按司の墓ということになるだろう。
中には、石厨子・厨子ガメ・木龕 ( もくがん ) があり、巴紋 ( 王家紋 ) もある。

一帯には山北(北山)監守の一族葬った大北(ウーニシ)墓をはじめ、
60基以上の古墓が集中する地域である。
現在見る百按司墓は漆喰で塗り固められた半月状の石積みによって囲まれている。
墓口はないが、天井が開いている。
かっては方言でザフン(和名:ヘッカニガキ)材で組まれた家型の墓があり、
壁はチニブ(竹製の網代)が用いられたと推測される。
墓内部にはおびただしい数の骨があり、複数の木棺が納められていたようである。

墓の状況から考えると、ここには幾つかの時代の墓所と思われる。


1 羽地按司に滅ぼされた中北山の戦死者の墓。
2 後北山が尚 巴志に滅ぼされた時の戦死者の墓。
3 尚 巴志王統(第一尚氏)が滅び、その北山監守たちが葬られた墓。
4 尚 徳王の悪政について行けない家臣たちの遁世した墓。
5 薩摩軍の攻撃で戦死した北山監守たちの墓。

よって墓は、以上のことが考えられる。



第二尚氏 ・ 三司官 「 蔡温の墓 」

2014-05-09 04:47:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



第二尚氏・三司官 「 蔡温の墓 」












ゆいレールの市立病院前で降りて、正面の末吉公園を抜けて末吉宮へ向かって行き、
末吉宮が南向きの斜面だとすると、その裏側に蔡温の墓がある。
蔡温 ( 1682年~1762年 ) の墓は沢岻の広陵向け、浦添城向けに造られており、
蔡温は1716年に末吉の地頭、1719年に末吉親方となっているから、
末吉近在に墓があってもおかしくないとはいえる。

蔡温は、琉球王国の政治家であり、具志頭親方文若。
蔡氏具志頭殿内の小祖(蔡氏志多伯家十一世)。久米三十六姓の出身である。
第二尚氏13代王・尚 敬王に40年間にわたって仕え、第二黄金時代を築いた。
三司官に任ぜられ、羽地大川の河川工事や山林の保護に尽心竭力し、
琉球の農業の発展に貢献した。
「 御教条 」 など多くの本を書き残した。
平敷屋友寄事件で、平敷屋朝敏、友寄安乗を安謝の海岸で処刑したのも蔡温である。

蔡温の墓は浦添に向かう宿道からみれば、
南の坂 ( フェーヌフィラ ) から左手 ( 西 ) 方向となる。
平良、大名、末吉、石嶺は現在那覇市首里の町名となっているが、
近世では西原間切の村である。

今ではあまり訪れる人もいないのか?
地元の人でも、その墓所を知らず、
木立の間をひっそりと佇んでいるようであった。
ただ、墓は近年造り替えられたようで、思ったよりも新しく、
琉球王朝時代を偲ばせるものは感じなかった。



沖縄県今帰仁村運天 「 大北墓 ( ウーニシ墓 ) 」

2014-04-29 04:48:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



今帰仁村運天 「 大北墓 ( ウーニシ墓 ) 」

























大北墓 ( うーにしばか ) は、沖縄県国頭郡今帰仁村運天にある、
北山監守を代々務めてきた琉球王族・具志川御殿 ( 元の今帰仁御殿 ) の墓である。
墓様式は掘込墓で18世紀後半に建造されたもので、
今帰仁村指定文化財 ( 建造物 ) になっている。


具志川御殿は、一世・尚韶威・今帰仁王子朝典 ( 尚 真王三男 ) 以来、
七世・朝幸まで代々北山監守を務めてきた御殿 ( うどぅん、王家分家 ) である。
首里に引き揚げるまで、歴代当主は今帰仁城に居住し、
その墓ははじめ今帰仁城下の親川の東方、俗に 「 ウツリタマヒ 」 という場所にあり、
「 玉御墓 」 と呼ばれていた。
しかし、この墓の天井が崩壊したために、1761 ( 乾隆26年 ) 年、
新たに運天に大北墓を建造して遺骨を移葬した。

墓様式は掘込墓で、 「 申方 ( 南西 ) 」 に向いて造られている。
墓室の前には石牆 ( 袖垣 ) で囲まれた墓庭がある。
墓室は墓庭よりやや高い位置に岩壁を掘削して設けられており、
墓庭から墓室へは石段で上がるようになっている。
墓室正面左右からは、袖石 ( に相当する石垣 ) が弧状に延び、
そのまま墓庭を囲む石牆へとつながっている。

墓室内部は、 『 沖縄県国頭郡志 』 記載の図によれば、
方形をなし正面奥にさらに上段の間 ( もしくは石棚 ) が設けられている。
厨子甕は全部で12基で、上段に4基、下段に8基安置されている。
被葬者は、 『 向姓家譜 ( 具志川家 ) 』 によれば、
七世までの具志川御殿の歴代当主ということであるが、
1911 ( 明治44 ) 年に修理した際の調査によると、
実際には下記のようにさらに多くの人物が葬られている。


一、イロノヘ按司、今帰仁按司御一人御名相不知
二、宗仁公嫡子、御一人若○○カリヒタル金、御一人アヲリヤイアン、シタル金
三、御一人真南風按司、御一人アヲリヤイアンシカナシ、オリヒカナコイ
四、宗仁公四世今帰仁按司ママカル金、御一人御名相不知申候
五、記名ナシ(宗仁公五世及び夫人等にあらざるか)
六、宗仁公次男南風按司子孫多人数永々相成面々相不知 雍正十一年癸丑三月十六日 移
七、宗仁公六世曽孫今帰仁按司童名松鶴金、御同人御母思玉金、
  与那嶺按司御同人ヲナジャラ、アヲリヤイ按司
八、宗仁公七世今帰仁按司、御同人ヲナジャラ
九、崎山按司、伊野波按司、親泊按司、崎山按司、本部按司、伊野波按司、後付相不知
十、呉我アムカナシ、浦添大屋子、知念大屋子
十一、崎山按司嫡子、崎山里之親雲上、同人姉マウシ金
十二、今帰仁里之子親雲上

一世・朝幸は玉陵、三世・朝敦は今帰仁村今泊の津屋口墓 ( 別名アカンバカ ) に葬られている。
八世以降は家譜によれば首里末吉町の亀甲墓に葬られているはずであるが、
付近は沖縄戦で大きな被害を受けており、この墓が現存しているかは不明である。
大北墓は、1991 ( 平成3 ) 年、今帰仁村の文化財(建造物)に指定されている。



沖縄県那覇市 「 渡嘉敷三良 ( とかしきさんらー ) の墓 」

2014-04-25 04:58:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所


























































那覇の国際通りと美栄橋との間の緑ヶ丘公園の中に渡嘉敷三良の墓がある。

この緑ヶ丘公園がある場所は、周囲の地形を見ると王朝以前は、
ガーブ川が作る谷にそびえていた山であったと思われる。
また、十貫瀬 ( 今の久茂地川の流域辺り ) の海岸線を形作っていた断崖で、
沖縄戦で地形が多少変わっていると思われるが、
その山の頂上の平坦地が今の緑ヶ丘公園だと思われる。
その公園内の一際高い丘陵にあるのが渡嘉敷三良の墓である。

渡嘉敷三良は、久米36姓と呼ばれる明からの帰化人で、16世紀の生まれである。
琉球に産業を興した久米人の中で、彼は瓦職人であった。
彼の偉業は、琉球の地に瓦産業を興したことにある。
その技術は子孫に受け継がれ、四世の安次嶺ペーチンは、
当時板葺き屋根であった首里城正殿を瓦葺きに変えた人物だと言う。

当時は内地風の黒い瓦で、赤瓦登場は江戸時代まで待たねばならない。
渡嘉敷の墓は、1600年以前に造られたことはハッキリしているらしい。
400年以上前の墓にしては、豪奢なつくりで彼の人物像が伺い知れる。

渡嘉敷の墓の周囲はきれいに整備されていて公園と一体化しているため、
墓というよりも公園内の丘陵と言う感が強く、
その墓壁には沖縄戦での銃弾の痕跡がいくつも遺っていた。



沖縄県那覇市繁多川 「 沢岻親方 ( たくしうぇーかた ) の墓 」

2014-04-15 06:32:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



























金城町 ( 旧呼称=かなぐすく、現呼称=きんじょうちょう ) の石畳を降りて
寒川 ( すしんがー ) 通りを横切ると、
伝説で有名な遺念火 ( いにんびー=人霊 ) が出たという坂がある。
そこを上って行くと左手に 「 沢岻親方 ( たくしえーかた ) の墓 」 がある。
彼は中国に渡って鳳凰橋という王の籠と竜樋 ( りゅうひ ) を持ち帰った為、
王に大変喜ばれ、その功労・功績として、この墓地を与えられたとのことである。
この墓は古い形式の面影を残している数少ないものの一つである。
昭和52年6月27日に那覇市の文化財史跡に指定されている。  
  

古い時代の墓で玉陵 ( たまうどぅん ) と同じ頃に造られた墓である。
「 沢岻親方 」 は尚 真王代の 「 よあすたべ 」 で、
その功によって生存中に、この墓を賜ったとの事である。
この 「 よあすたべ 」 という役職名は後の 「 三司官 」 の官名で大臣のことである。
この墓は現在、残っているのは第二の入口と墓庭で、
以前は第一の入口と墓庭があったと言われている。
この墓は 「 玉陵 」 似ていると言われています。

玉陵は尚 泰久王代に建てられた板葺きの首里城に似せて造られたが、
その特徴が、よくわかるのは、屋根の部分で、
墓は石造りなのに板葺きの様に造られている。その特徴は、この墓にもある。
この板葺きの屋根は 「 園比屋武御嶽石門( すぬひゃんうたきいしもん ) 」 にも観られる。
また沢岻親方は、首里城の 「 瑞泉門 」 の龍樋を持ってきた事で知られている。
この龍樋が瑞泉門という名前の由来となったようである。
多少の修復はしたようであるが基本的には変わっていない。
「 鳳凰驕 」 も持ち帰ったとあるが、これは国王が外出の際に乗る物のようで、
路次楽<るじらく>の奏法 ( 沖縄で演奏するが沢岻親方は演奏法も伝えていた ) も
持ち帰ったとの事である。
高価な御土産を持ち込もうとしたために、怪しまれ一時、
那覇港付近に留められた事もあったようである。


沖縄県今帰仁村 「 イチグスク墓( 池城墓 ) 」

2014-04-11 04:59:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



沖縄県今帰仁村 「 イチグスク墓 」







イチグスク墓の墓標






墓の前にあるジニンサガーラ










今帰仁村の平敷にあるジニンサガーラの河口近くにイチグスク墓がある。
別名に『 池城墓 』 とも呼ばれている。
イチグスク墓へは県道505号線から左の脇道に入って150mほど行くと
右に墓へ続く道があり、ジニンサガーラという川に架かる小さな橋を渡って、
左手に行くと墓が目の前に見えて来る。
墓の周りにも古墓がいくつかあり、
山の中腹まで崖がくぼんで墓を守るようになっている。

イチグスク墓は保存状態が良く、中央の納棺部分は木製の扉で塞がれている。
墓の左には墓碑があり、1670年に建造された事が書いてある。
その裏には墓を建造する際に那覇から石工を呼び寄せた事が記されている。

この墓には領主であった 『 さきやま大やくもい 』 、その妻の 『 あむしたれ 』 、
子供の 『 玉城 ( たましろ ) のろ 』 が安置されている。

『 大やくもい 』 は 『 親雲上 ( ぺーちん、ぺーくみー ) 』 の意味や
『 大役を勤める者 』 を意味する。


沖縄県那覇市 「 張献功 ( ちょうけんこう ) の墓 」

2014-04-04 05:09:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所














張献功は、?~1638(?~尚豊18) 沖縄に帰化した朝鮮陶工である。
和名は仲地麗伸といい、文禄・慶長の役(1592、97年)で
朝鮮から連れ帰った陶工の一人である。


那覇の市街地にある 「 ナイクブ古墓 」 の発掘調査をしている監督に
渡嘉敷三良と張献功の墓の場所を訊ねると、快く教えてくれた。
渡嘉敷三良の墓は公園の中にあり、大きくて立派なものだったが、
それに比べて張献功の墓は小さく、青いビニールシートの車庫の裏の草むらにあり、
場所を聞かなければ見落してしまいそうな墓であった。

そんな張献功の墓は、墓碑に 「 張氏元祖一六仲地麗進 」 と刻まれている。
一六とは、おそらく張献功のことであろう。
豊臣秀吉の朝鮮侵略の時、南原市から18姓43人陶工が
薩摩の島津義弘軍に連れて来られ、
琉球王朝の依頼でそのうち3人の陶工が琉球へ派遣される。
「 一六、安一官、安三官 」 のうち2人は去ったが、
一六だけは残り、湧田窯の創始者となる。
中国、アジアの影響、朝鮮の上焼きという釉薬をかけた焼物、
そうした中で琉球独特の焼物が出来上がっていく。
後に湧田窯も壺屋に移転し発展して行くのであった。

現在も張献功の子孫の方々が韓国の方に向かって座り、
毎年4月には清明祭を行っている。
張献功の関係者の1人は恩納村仲泊に住むが、その子孫は絶えている。
300年前の話であるが、今も仲泊の島袋家には拝所があり、ずっと祀られている。



沖縄県今帰仁村諸志 「 赤御墓 」

2014-04-02 05:05:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



今帰仁村諸志にある 「 赤御墓 」










赤御墓は、諸志の海岸に面した崖の下をくり抜いて造られた掘り込み墓である。
台上に 「 赤御墓 」 の墓碑が建っている。

この墓は、尚 真王の伯父にあたる上間大親亨翁夫婦の墓で、
尚 真王からの拝領墓と伝えられている。
石棺は朱塗りといわれ、それで赤御墓と称したとも言われている。
赤色は中国では魔除けの色とされ、朱塗りの位牌もそのたぐいであろう。

尚 円王の弟 ( 三男? ) は伊是名島から上間村 ( 本部町具志堅 ) に移り、
上間大親と呼ばれていた。
尚 真王が国頭地方を船で航行おり、暴風に遭い難渋していた。
これを見た上間は息子たちと小舟を出し、船を岸に引き入れた。
恩人の姓名を聞いて、尚 真王は驚き喜んだ。
何と自分の叔父にあたるからであった。

これによって、上間は地頭職と上間村を賜った。
上間死後、その家は拝所として敬われ、
遺族は先代の誕生地である伊是名島が見える場所に墓を造ったのが
諸志のこの赤御墓である。



沖縄県本部町 「 大米須親方の墓 」

2014-03-24 00:00:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



沖縄県本部町渡久地にある 「 大米須親方の墓 」







「 大米須親方之墓 」 と書かれた墓碑









沖縄県本部町の渡久地公民館の隣の崖下に
「 大米須親方之墓 」 と書かれた墓碑が建っている。

大米須は、金丸 ( 尚 円王 ) の義兄にあたり、
伊是名島から首里へ上り、第一尚氏最後の王、尚 徳王に仕えた。
その尚 徳王が死去し、義弟の金丸こと尚 円王が即位したが、
先王に対する節義を重んじて退隠。
首里を離れ、渡久地で暮らして浜元のヌルを妾にした。
このヌル墓は渡久地北岸にある食堂 「 まーすやー 」 の裏にある。

大米須は息子の米須里主と一緒に渡久地に来たという。
里主は結婚して米須子をもうけ、米須子の長男が顧氏比嘉筑登之親雲上助輝である。
里主は辺土名ヌルとの間に翁氏国頭親方盛順をもうけたという。
米須子とは異母兄弟になり、辺土名ヌルの墓は辺土名にあるらしい。

里主は喜界島大屋子 ( 村役人 ) を勤め、その子孫が喜界島に多いといわれている。
墓も喜界島にあるという。
だが、 「 国頭郡史 」 では、喜界島に居たのは米須子で、
渡久地の墓は、米須里主の墓とも言われている。

墓は、清明祭に顧氏、翁氏門中が那覇から来て拝んでいる。



沖縄県今帰仁村 「 今帰仁グスクの御嶽 」

2014-03-19 04:55:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



今帰仁グスクの御嶽










今帰仁グスクの御嶽は、護佐丸や伊覇按司の先祖の中北山、
攀安知 ( はんあんち ) 王の後北山。
そして第一尚氏の北山監守、第二尚氏の北山監守と続くため、
城跡の拝所は、ほとんどの門中拝みの対象となっている。

今帰仁グスクの石門から長い石畳道を上ると広場に至る。
ここは大庭で武士たちが勢ぞろいした場所である。
左手に 「 志慶真乙樽歌碑 」 があり、
左側の石垣囲いには下ノ嶽 ( 神名 「 ソイツギノイシズ御イベ 」 ) で、
霊石が置かれている。
大庭の正面の高台の所が本丸跡となる。
そこにある赤瓦屋根の四角い建物が 「 火ヌ神の殿 」 で、
今帰仁の神々が祀られているという。
旧暦の8月10日の城折目には、今帰仁ヌルを主役に30人ばかりの神女が祭りを行う。

ここから左手の石垣囲いの中に大きな霊石がある。
「 カナヒヤンのイビ 」 と称し、上ノ嶽 ( 神名 「 テンツギノカナヒヤブノ御イベ 」 ) である。

今帰仁グスクの守護神であったが、落城に際し、
攀安知 ( はんあんち ) 王はこの石を刀で斬りつけたと伝えられている。
一般には下ノ嶽の石がそれだとも言われている。



沖縄県本部町 「 健堅大親 ( けんけんうふや ) の墓 」

2014-03-13 06:03:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



沖縄県本部町 「 健堅大親の墓 」











本部町の瀬底大橋のたもとに健堅大親の墓がある。
察度 ( さっと ) 王代の14世紀、健堅大親 ( 子孫は鳳氏仲村家 ) は、
誠実で人情が厚く、村人を我が子のように愛し、村人からも尊敬されていた。

ある日、用事で那覇へ行き、
偶然に久米島の堂ヌ比屋 ( 比屋も大親も村の首長の意 ) と会い、
意気投合し、一緒に久米島に行った。
たまたま明国の船が難破漂着していたので 「 私の村には船を造る木材が多い 」 と、
明人を連れて帰り、船を造らせた。

そのころ一頭の荒馬が駆け回って ( 駆原の地名が残る ) 穀物を食い荒らしていた。
大親は村人を集め、その暴れ馬をやっと生け捕りにした。
捕えられた馬は全身真っ黒な立派な馬だった。
その馬を見て、明人がしきりに欲しがるので与えた。

帰国した明人はこの馬を皇帝に献上すると、
皇帝は、 「 こんな素晴らしい馬を見たことがない 」 と言い、
お礼に、琉球王を通して健堅大親に絹と石碑を贈った。
健堅大親は、贈られた石碑に馬のいきさつを刻んで健堅の浜に建てたが、
津波で流されたという。



沖縄県那覇市識名 「 名護親方程順則の墓 」

2014-03-02 05:48:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



名護親方程順則の墓









墓の前に立つ墓碑








同じような墓が並ぶ中で一本だけある墓碑が目印になる








識名墓園の最寄りのバス停










程順足は、名護親方と言われるくらいだから、
その墓は、てっきり名護にあるものだと思っていた。
すると墓は、那覇市の識名園に隣接する識名墓園の中にあった。
この類の思い込みは、平敷屋朝敏の墓が与勝半島の平敷屋にあると勝手に思い込んでいたら、
なんと平敷屋から500キロちかく離れた多良間島にあったのと同じだ。
名護も那覇も沖縄本島なので、そこまで離れていないのは助かったが、
何も知らなければ名護を探し回るところだった。

識名墓園のおびただしい数の墓の中から 「 程順足 」 の墓を探し出した。
程順足の墓は、特別な形をしているわけでもなければ、
特別な大きさをしているわけでもなく、
その他諸々の墓と同じような大きさで同じような形をして並んで、
宮古島でいう 「 墓団地 」 状態であった。






長堂橋の親柱に座っている 「 名護親方程順足 」








長堂橋のたもとにある 「 名護親方程順足の教え 」 を書いた説明版





名護市の世富慶から国道329号線を二見に向かって行くと長堂橋がある。
この橋の親柱に名護親方程順則が座っている。
テンペストでも、よく親方という言葉を耳にする。
それに塚本高史が演じる喜舎場朝薫のように、
沖縄では名前に朝 ( ちょう ) がつく人が多い。
朝のつく人は王家の一族で、琉球の士族は一族によって決まった字を
名前の頭につける慣わしがあったことは、
羽地朝秀 ( はねじちょうしゅう ) 、玉城長薫 ( たまぐすくちょうくん )、
平敷屋朝敏 ( へしきやちょうびん ) 、宜湾朝保 ( ぎわんちょうほ ) 、
牧志朝忠 ( まきしちょうちゅう ) など、歴史上の人物から確認できる。



名護親方程順則 ( なごうえかた ていじゅんそく )

   程順則 ( 1663.10.28~1734.12.8 ) は、
  那覇の久米村に生まれ、童名 ( わらびめー ) を思武太 ( うむんた ) といい、
  字名を寵文 ( ちょうぶん ) と言われていた。
  程順則は、近世の沖縄を代表する学者・文人であり、教育者・政治家である。
  久米村の総責任者として子弟の教育と人材の育成に情熱を注ぎ、
  琉球王府を支える多くの人材を世に送り出している。
  また、近世の日本本土で知られた唯一の沖縄人である。

   程順則は21歳の時に中国に留学して以来、王府を代表する使節として、
  5回も中国に赴いている。
  その間、中国の文人たちと交流を深め、いつも貴重な文物を持ち帰り、
  中国文化の普及に努めた。
  程順則みずからも優れた漢詩文を作り、多くの詩文集を編集している。
  新貢正義大夫として4回目の渡中のおり、
  「 六諭衍義 」 と 「 指南広義 」 を自費で印刷し、
  1708年に沖縄へ持ち帰った。

 「 六諭衍義 」 は、後に薩摩を経由して徳川吉宗に献上され、
  室鳩巣に和訳させ、 「 六諭衍義大意 」 として出版された。
  この本は江戸時代中期から明治の初めにかけて庶民教育の教科書として
  全国の各藩、また津々浦々の寺小屋で使われ広まった。
   
   程順則は66歳の時に、それまでの功績によって
  名護間切の惣地頭職を授かり、1734年に亡くなるまでの6年間を
  名護とさまざまな関わりを持った。
  彼は、その人格と素養・徳によって 「 聖人 」 として人々から深く尊敬されていた。
  とくに名護では、旧正月の元旦に役場で 「 御字拝み 」 として、
  名護親方程順則自筆の 「 六諭 」 の書を掲げ、その高徳をしのび、
  新しい年の心構えを誓う行事が催されている。


   「 六諭 」 の読み方と意味 

  孝順父母   父母に孝順なれ。 ( 父母に孝行をしなさい )
   尊敬長上   長上を尊敬せよ。 ( 目上の人を尊敬しなさい )
  和睦郷里   郷里は和睦せよ。 ( 郷里は打ち解けなさい )
  教訓子孫   子孫を教訓せよ。 ( 子孫を教え導きなさい )
  各安生理   各々生理に安んぜよ。 ( おのおの生業に甘んじなさい )
  母作非為   非意をなすなかれ。 ( 悪いことをしてはいけない )    



沖縄県今帰仁村 「 阿応理屋恵御殿火ヌ神 」

2014-03-01 00:05:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



今帰仁村 「 阿応理屋恵御殿火ヌ神 」 の御殿







入り口に立つ路標










阿応理屋恵(オーレー)御殿火ヌ神は、今帰仁城跡の正門から50mほど戻り、
右側の舗装されていないハンタ道を約50mほど行くと、左手に路標が立っている。
そこから30mほど入るとセメント瓦葺の御殿が見えてくる。

この辺りは旧村跡で、ヌル殿内の屋敷はここにあったが、
薩摩軍の侵攻のおり焼かれたものと思われる。

阿応理屋恵御殿の後ろの拝所は、尚円王と関わりがある伊是名島、
宜名真御殿 ( 国頭村 ) の遥拝所といわれている。

「 阿応理屋恵 」 は、方言でオーレーと言い、
地元ではオーレー按司、アットーメー ( 王女の意 ) と呼ぶ。
アットーメーは国頭地域の最高神女で、
北山監守の氏神を祀り、五穀の祭りをつかさどった。

尚真王の三男が北山監守になってから、
その子孫の娘か妻が阿応理屋恵になったと言われている。
1665年北山監守の廃止で一家は首里に移転し、
1742年に地元の糸洲家がオーレー職をつとめた。



沖縄県嘉手納町 「 仲昔今帰仁按司祖先の墓 」

2014-02-10 00:03:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



仲昔今帰仁按司祖先の墓








仲昔今帰仁按司の墓の横にある山田按司のものと思われる?墓







崖の中腹に墓がある





















墓の下を流れる比謝川と嘉手納町の社協











嘉手納町水釜にある嘉手納町社会福祉協議会の下の比謝川沿いを河口に向かって行くと
左側は丘陵になっており、その崖の中腹に栗石で積んだ白い墓 ( 昭和50年改修 ) が見える。
これは、中北山の先祖墓である。

1322年、今帰仁城主の丘春按司は、羽地グスクの羽地 ( 怕尼芝・はにし ) 按司に攻略され、
討ち死にしたというが、
この戦乱は丘春按司のときではなく、次の代の仲宗根若按司の頃ともいわれており、
どちらとも判明しない。

一族は先祖の遺骨を放置できないとして、上代の湧川王子・湧川按司・今帰仁按司の遺骨と
丘春按司の遺体を舟に乗せ、比謝川まで落ち延びた。
ここに葬って一族は方々に散ったと伝えられている。

今帰仁城主となった羽地按司以後を後北山 ( あとほくざん ) と称し、
その前の丘春按司らの時代を中北山 ( なかほくざん ) ・中昔と称している。
その子孫の一人は、山田城主となったので、ここの墓を山田按司の先祖墓とも、
中北山按司の墓とも呼んでいる。
また、対岸の崖 ( 泊グスク ) の中腹にも今帰仁按司の墓がある。



沖縄県うるま市 「 具志川グスク ・ 天願按司の墓 」

2014-02-03 06:33:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



うるま市 「 具志川グスク ・ 天願按司の墓 」










うるま市の旧・具志川市の具志川集落から海岸に向かうと、
海に突き出した丘 ( 具志川グスク ) が見える。

そのグスクの西側の崖下に白い 「 天願按司の墓 」 が県道37号線から見える。
墓は県道沿いの内陸と丘の間は谷間になっており、
右寄りの所に按司墓へ行く細い道がある。

具志川グスクには安慶名大川按司の三男が居住していたといわれている。
港を控え交易しているのを知った国頭村の富盛大主が攻め、天願按司は戦死したという。
子の天願若按司は従兄弟の久志若按司と協力して父の仇を討ち取ったと伝えられている。
しかし、天願若按司は若死にし、後継ぎがなかったので、
三代目安慶名大川按司の三男である具志川按司が継承したが、
尚 真王の中央集権により、首里に移住するようになったという。
子孫は屋号 「 徳松 」 といわれている。