直方の碑と坑夫の像
直方市石炭記念館の入り口に建つ「直方の碑」
直方市石炭記念館
石渡信太郎の胸像
福岡県直方市の産土神(うぶすながみ)、
多賀神社から市石炭記念館への歩道に、
地元の歴史を伝える「直方碑」が立つ。
隣接する市有地に、市は炭鉱労働者を表現した「坑夫の像」があり、
同市出身の炭鉱王、貝島太助が建立に尽力しながら市民にもなじみのない碑がある。
直方の碑の建立は1894(明治27)年。
糸島産の野北石を使った本体は高さ4.6メートル、
台座まで含めた全体は6.5メートルあり、まっすぐにそびえ立つ印象だ。
設計者は明治期の彫刻家として名高い高村光雲。
漢文で書かれた碑文を作成したのは漢学者の宮本茂任(しげとう)という。
そばには、建立資金を提供した人々や団体の名前が刻まれた碑が置かれている。
貝島太助と弟の六太郎兄弟が
「九州の片田舎の碑でありながらも、非常に質の高い人たちが手掛けた。
中央政界にも通じた太助の人脈、
彼が強力なリーダーシップを持っていたことが分かる」。
碑文は現代風に書くと、「直方は昔、東蓮寺(とうれんじ)と呼ばれ、
新入村の一部で村里はなく、高い山と広い野原があるだけだった」と始まる。
福岡藩初代藩主の黒田長政の遺言で、四男高政が初代東蓮寺藩主として治め、
商工業者が集まってまちができたことや、
明治維新後にまちが大きく発展したことなどが書かれている。
建立の由来として「黒田氏が基を開かなかったら、まちはこれほどにならなかった。
直方に住んで恩恵を受けている者は、歴史をよく知っておくべきだ」と記す。
故郷の歴史や先達に敬意を抱き、後世にも向けた太助の呼び掛けだろう。
市石炭記念館は、筑豊石炭鉱業組合直方会議所だった本館や
救護練習所模擬坑道が国史跡となった。
館内には「鉱山保安の父」とされる石渡信太郎(いしわたりのぶたろう)の胸像があり、
敷地内には蒸気機関車(SL)2両がたたずむ。
蒸気機関車については後日記載したいと思っているので、
ここでは触れないでおく。