三条實美卿遺詠
この国の濁らぬ水にすむ魚は
游ふさまさへ勇ましきかな
萩市越ヶ浜笠山の麓、明神池の大池と小池の境に架かっている石橋を渡ると、
北側正面の山麓に高さ一七〇センチメートル、幅八〇センチメートルの石碑が建っている。
文久三年(一八六三)八月十八日の京都での政変によって、
七卿の一人として長州に下った三条実美は、
山口湯田の高田御殿に隠棲していたが、
同年十一月十一日、萩藩主毛利敬親に誘われて萩の御客屋に宿泊した。
この歌は、その時越ヶ浜明神池畔の御茶屋に遊び、
その旅情をなぐさめられた際に、
池中に遊ぶ魚の群を見て、即興に詠じたものである。
昭和十一年 ( 一九三六 ) 王政復古七十周年に当たり、
元衆議院議員国重政亮が自ら筆をとって卿の偉業を偲び、
遺詠を彫って建立したのである。
三条実美は幕末から明治初年にかけて活躍した公卿で、
尊王攘夷運動に加わり、長州藩と密接に提携、攘夷実現に努めた。
文久三年の政変によって七卿の一人として長州に逃れたが、
王政復古に際して帰京し、新政府の議定となった。
明治元年( 一八六八 )には副総裁、
輔相の要職、関東監察使のち鎮将として江戸開城後の東国経営にあたった。
のち右大臣、太政大臣の職にあり、内閣制度新設以後は内大臣を務めた。