福岡県田主丸町の平神社にある 「 平 知盛の墓 」
関門海峡に面したみもすそ川公園にある平 知盛の像 ( 下関市 )
県道151号線沿いにある 「 平 知盛の墓 」 と書かれた路標
平神社
壇ノ浦の戦いに敗れた平 知盛は、
わずかの家釆を伴って筑後の国に逃れてきた。
世はみな源氏に傾く中、知盛の行方もわからないはずはなく、
村人に 「 平家はもう負けてしまったが、
平家の一将平 知盛が、今日までこの里にいたということを後世に伝えてくれ。
妻子と部下をくれぐれも頼む 」 と言い残し、
源氏方となった草野氏に討たれたといわれている。
知盛の死をかわいそうに思った村人たちが
その霊を弔ったといわれる平 知盛の墓が竹野の地に残っている。
平氏軍は讃岐国屋島に城郭を築いて再起を図り、
二箇所に陣を結び、宗盛が屋島にあり、知盛は彦島に軍営を置いた。
知盛は九州の兵を率いて門司下関を固め、
半年に渡って追討軍の九州・四国上陸を阻止する。
しかし、知盛が彦島に釘付けとなっている間、
寿永4年 (1185年 ) 2月19日、屋島の合戦で源義経の急襲を受け、
動揺した宗盛はほとんど戦闘を行う事なく安徳天皇と共に海上へ逃れ、
平氏は瀬戸内海の制海権掌握に重要な拠点であった屋島を失う致命的な敗北を喫する。
さらに源範頼軍が1月末に在地武士の緒方氏・臼杵氏の協力を得て九州・豊前国に上陸し、
2月1日には平氏方であった原田種直を討ち取っており、
彦島に追い詰められた平氏一門は海上で孤立する事になる。
寿永4年 ( 1185年 ) 3月24日の壇ノ浦の戦いで鎌倉軍と最後の戦闘に及ぶが、
田口成良ら四国・九州在地武士の寝返りにあい、
追い詰められた一門は入水による滅びの道を選ぶ。
安徳天皇、二位尼らが入水し、
平氏滅亡の様を見届けた知盛は、乳兄弟の平家永と手を取り合って海へ身を投げ自害した。
享年34歳。
妻の治部卿局は東宮として同行していた守定親王と共に生き残り、都へ戻った。
壇ノ浦から36年後、承久の乱によって後鳥羽院が鎌倉幕府に敗れて配流となり、
幕府によって守貞親王の皇子が後堀河天皇として擁立され、
父である守貞親王は後高倉院として院政を行う治天の君となっている。
碇知盛
自害にあたり、知盛は碇を担いだとも、鎧 ( よろい ) を二枚着てそれを錘にし、
「 見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん 」 と言い残して入水したとも言われている。
共に入水後遺体となるか、
あるいは生きたまま浮かび上がって晒し物になるなどの辱めを受けるのを避ける心得である。
これに想を得た文楽及び歌舞伎 『 義経千本桜 』 の 「 渡海屋 」 および、
「 大物浦 」 は別名 「 碇知盛 ( いかりとももり ) 」 とも呼ばれ、
知盛が崖の上から碇と共に仰向けに飛込み入水する場面がクライマックスとなっている。