村田清風の墓
山陰本線の横に墓道の路標が立つ
苔に覆われた説明版
大津唯雪と妻の光子の比翼墓
向かって右側にある 「 看雨村田峯次郎の墓 」
幕末の激動する政治情勢の中にあって、
藩政改革の中心人物として手腕をふるった郷土の先賢・村田清風は、
天明3年(1783年)長門国大津郡三隅村沢江(現在の長門市三隅下沢江)に生まれました。
当時、長州藩の財政は困窮を極めており、
13代藩主・毛利敬親は、中級武士であった清風を抜擢登用し、
藩の財政改革にあたらせました。
この「天保の大改革」で、清風は負債8万貫の返済のための倹約の徹底や、
武士の負債整理と士風の一新、四白政策(紙・蝋・米・塩)の振興などを行い、
さらに軍備の改革と充実のために江戸に武器庫を建設、萩では海岸防備等の訓練を行いました。
その結果、長年の弊害を取り除いて出費を節約し、藩政は一新。
士気は大いに高められ、後に長州藩が雄藩となる基礎を築きあげたのです。
その後清風は、63歳のとき職を辞して三隅山荘に帰り隠居の身となりました。
以後人材の育成に力を注ぎ、山荘内に開いた私塾「尊聖堂」は、
多くの子弟たちで満ちあふれていました。
数年後、清風は再度藩主に乞われて出仕しますが、中風に倒れてしまいます。
不自由な身をおして密議にあずかっていたものの、中風の再発により、
城内平安古の役宅において73歳でその生涯を閉じました。
幼少より清風の薫陶を受けた周布政之助(三隅下浅田の出身)は、
その後を受け継ぎ、革新的政治家として安政以後の難局に対処しましたが、
維新の大業を見ることなく悲運にも散った人です。
しかしその志は、吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允らに受け継がれ、
長州藩革新派を輩出する原動力となりました。
大津唯雪は( 1825-1887 ) 幕末の武士。
文政8年7月9日生まれ。村田清風の次男で、長門萩藩士。
物頭(ものがしら)役などをへて,文久2年京都留守居役となる。
慶応元年諸隊総会計掛,干城隊頭を兼任し、代官、奉行を経て明治2年京都公用人となった。
明治20年4月3日死去。63歳。
通称は、次郎三郎,四郎右衛門。 幕末の武士。
村田峰次郎
安政4(1858).7.24-昭和20(1945).12.29 (89)
諱:春信
称:峰次郎
号:看雨
生:長門国萩
身:維新史料編纂会顧問
村田峰次郎名は春信、看雨と号す、
贈従四位大津唯雪の次男にして村田清風の孫なり、
出でて宗家村田九兵衛の跡を襲ぐ、安政4年萩に生れ、初め明倫館にて学び、
明治に入り東京に出で更に諸名家に就き和漢学並びに英独等の語学を修む、
同17年内閣に出仕して伊藤公の憲法制定事務に参加し、次いで衆議院属に転ず、
既にして26年辞職して毛利家に入り藩史編輯を主宰す、
然るに同30年同家を辞してこれより又仕官せず専ら意を鉛槧に留め、
のち維新史料編纂会の顧問となりまた伊藤公伝記の編纂に与って功あり、
資性清高頗る乃祖の風を伝え、
その学博洽殊に防長の故事に精通し嘗て長周叢書を刊行して世に便せり、
其の著述に甲子殉難士伝品川子爵伝近世防長史談等の外なお数多あり、
昭和20年12年29日相州逗子の客寓に歿す、年89。