熊本県玉名市、「海の万里の長城」と形容された
石垣と樋門がある旧玉名干拓地。
明治時代に建造された干拓関連施設群は、国の重要文化財に指定。
末広開(すえひろびらき)と明丑開(めいちゅうびらき)の接続部分には樋門(ひもん)が設置されており、
末広開樋門には「六枚戸」と呼ばれる三枚戸樋門2基と、
二枚戸樋門1基が現存しています。
菊池川下流域では江戸時代から干拓が始まり、
昭和の国営横島干拓まで75ヶ所の干拓地が築かれました。
明治維新後、許可を得れば個人による干拓が認められるようになり、
明治20年〜明治30年代になると地元の有力者による大規模な干拓が行なわれるようなったのです。
それが西から順に大浜町の末広開(明治28年/坂本平次ほか=築造者不定)、
横島町の明丑開(明治26年/栗崎寛太ほか6名)、
明豊開(明治26年/服部運太ほか7名)、
大豊開(明治35年/加藤篤ほか2名)です(複数の大地主共同による干拓)。
大正3年8月23日〜8月25日の台風では、
大豊開、明豊開、明丑開、末広開の堤防が決壊し、
水田が水没しています(大正8年、昭和2年にも大規模な潮害が発生)。
戦後、食糧不足による食糧増産などを目的として国営の横島干拓事業が実施され、
昭和42年に潮止工事が完了。
それにより、末広開・明丑開・明豊開・大豊開の堤防は役割を終え、
その結果として、明治時代の美しい石積みの干拓堤防が保存されることになったのです。
干拓関係施設の中で、
最も保存状態が良好なものが大浜町の末広開堤防と樋門、
横島町の明丑開、明 豊開、大豊開の堤防で、
とくに末広開樋門は、六枚戸(3枚戸の樋門2基)と二枚戸から構成され、
六枚戸は有明海でも最大級の規模を誇っています。
総延長5.2kmに及ぶ堤防と3つの樋門からなる旧玉名干拓施設。
末広開東三枚戸樋門、末広開西三枚戸樋門、末広開二枚戸樋門、
さらに末広開潮受堤防、明丑開潮受堤防、明豊開潮受堤防、
大豊開潮受堤防が国の重要文化財に指定されています。