菊池能運は、重朝の嫡子である。
はじめは武運と名乗っていたが、
「 不運 」 につながるとして改名したとされる。
隈部氏をはじめとする家臣団の離反や、
大叔父の宇土為光 ( 二十代為邦の弟 ) の反乱などがあり、
一時期は守山城も奪われ島原に避難する。
その後奪還には成功するものの、
この時の戦傷が元で23歳の若さで死去した。
菊池一族直系としては最後の惣領となった。
墓所は熊耳山正観寺の、
実相院があったとされる場所 ( 現菊池グランドホテル前 ) にある。
菊池能運の墓正観寺にある能運の墓。夫婦の墓とされる。
正観寺は、最盛時には本坊のほか多くの院坊があったとされ、
実相院はその一つである。