「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県久留米市  「 久留米城跡 」

2019-09-23 19:31:54 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )

 

城内主郭にある 「 篠山神社 」

 

 

 

 

 

 

 

 

駐車場がある 「 蜜柑丸跡 」

 

 

 

蜜柑丸の城壁

 

 

 

 

城壁の横の階段を登って行く

 

 

 

 

月見櫓跡への階段

 

 

 

月見櫓跡

 

 

 

月見櫓跡からの眺望

 

 

 

聖徳太子像

 

 

 

 「 以和為貴 」 和らぎを以ってたっとしとなす

 

 

 

太子像から艮櫓跡へと続く道

 

 

 

艮櫓跡 ( うしとらやぐらあと )

 

 

 

艮櫓跡へと続く階段

 

 

 

艮櫓跡からの眺望

 

 

 

城内にある大井戸

 

 

 

乾櫓跡

 

 

 

 

 

 

 

乾櫓跡から筑後川を望む

 

 

 

篠山神社への参道

 

 

 

太鼓櫓跡

 

 

 

太鼓櫓跡からの眺望

 

 

 

冠木御門跡

 

 

 

冠木御門跡

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蜜柑丸跡へ続く道

 

 

 

久留米城跡を蜜柑丸跡から散策した順番の掲載は、

順路ではないのでやや違和感があるかと思いますが、

写真に沿って歩いたと思って下さい。

 

 久留米城は江戸時代の久留米藩、約250年間を治めた有馬氏の居城跡で、

その昔は笹原城の名で呼ばれていた。

今は平山城づくりの本丸跡が残され、

見事な石垣や正面側の内濠に往時の雄姿をしのぶことができる。

また城内には藩祖豊氏を祀る篠山神社や歴代藩主の武具、

工芸品などの有馬家資料を中心とした久留米藩政資料を主に展示する有馬記念館がある。

これは蛇足になるが、競馬の「有馬記念」は有馬氏から取ったものである。


 久留米城は、筑後川沿いの小高い山に築かれた平山城で、

天正15年、豊臣秀吉の「九州国割」により、毛利秀包が入城した。

これが近世大名の居城としての始まりである。

慶長6(1601)年、田中吉政が関ヶ原の戦いの功績で毛利家の後をうけ、

筑後一国の大名となり、久留米城には二男則政が藩主となった。

元和7(1621)年、有馬 豊氏が田中家の断絶をうけて筑後五郡の大名となり、

久留米城は幕末まで治世の中心となった。


 豊氏は入国間もなく久留米城の大改修を行った。

毛利 ・ 田中代には東面していた大手を南面に作り替え、

その前面に二ノ丸 ・ 三ノ丸 ・ 外郭を南北に配置した連輪式の構造をもつ城を建設しており、

 大まかな範囲を示すと東限は久留米市役所北側付近、

この地区に城郭と城下町を区切る外濠が走り、南限は裁判所裏手の森と溝になっている。

 

 昭和58年3月19日県指定文化財となっている。

 


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