デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 





ドラクロワ「自画像」(1837年ごろ)

フランスを連想させる美術作品は何?と問われたとして、パッと思いつくものはいくつか候補があると思う。もしその問いの答えを集計したとしたら、「民衆を導く自由の女神」もきっと上位にランクインすると思う。この有名な作品を書いたのが、↑のウージェーヌ・ドラクロワである。
ドラクロワについて書かれている本には、彼が体こそあまり丈夫ではなかったにしろ完璧な社交家であったことが描かれているが、その内に秘めた精気や情熱はこの肖像画からも見て取れるとおもう。


ドラクロワ「フレデリック・ショパンの肖像」(1838)



ドラクロワ「オフィーリアの死」(1844)



上に、イポリト・フランドランの「海辺に座る青年」(1836)
右下に、シャセリオーの「エステルの化粧」(1841)



テオドール・ジェリコー「雌ライオンの頭部」

ジェリコー(1791-1824)は悲劇的な32年の生涯を送ったのだが、この人の存在なくしてナポレオン失脚後から二月革命(1848)までの「ロマン主義時代」の中の絵画はありえないだろう。
大雑把に書けば、ロマン主義は新古典主義のアンチテーゼとして生まれてきたようなものだが、このロマン主義の祖といってもいいのがジェリコーだ。
ジェリコーはその短い生涯に主に3作品しか世に問わなかった。しかし、ルーヴルにある超有名作「メデューズ号の筏(いかだ)」という大作は、当時の大いなるスキャンダルに留まらず、その後のロマン派の絵画を方向付ける意味で決定的な影響を及ぼした。


ジェリコー「メデューズ号の筏」491x716 cm

メデューズ号はイギリスから返還されたセネガルの植民地を運営するために、フランスからセネガルに向ったフランス海軍の船だが、1816年7月にアフリカの西海岸で難破した。即席で造られた筏に150人が乗り込み12日間漂流し、その間地獄のような凄惨な体験が彼らを襲った。生存者は15名だけだった。
ジェリコーは全身全霊を傾けて、この作品に取り掛かり、あらゆる資料を集め、どの場面を描けば最もドラマティックかを考えるために、難破事件のプロセス、筏上での殺し合い、人肉食、救出などの様々な段階のスケッチを試みた。
1819年、作品はサロンに出展され、評価は賛否両論の二手に分かれた。だが、1819年の政治状況では、作品はスキャンダルだった。ジェリコーには政府からメダルが与えられ新しい宗教画の注文を受けたものの、作品の買い上げはなかった。失望したジェリコーは注文を若いドラクロワに譲るのである。


ジェリコー「エプソムの競馬」(1821)

その後、イギリスを旅行したジェリコーは、上のような馬たちが躍動する作品も描いたりした。帰国後、精神病院の患者たちを臨床的な観察眼から描いた一連の肖像画を描く仕事もこなしたりした。
だが、「メデューズ号の筏」の不評から健康状態を損ねたジェリコーは、さらに二度の落馬での傷がもとで身体の障害を発した。彼は32歳の若さで世を去った。

ルーヴルで、圧巻だった「メデューズ号の筏」のみならず、完成にいたるまでのスケッチ、ジェリコーの華々しいデビューとなった「突撃する竜騎兵隊長」、そして「賭博偏執病者」などの一連の作品を見て、この人の大いなる寄り道ともいえるような作品群は、たしかに傑作をたくさん生むことは無かったものの、近代絵画にとって本当に貴重なものなんだということが分かった気がする。ドラクロワの前にジェリコーあり、後世に与えた影響は計り知れないと書かれるのも納得できたし、短い生涯でも彼の残した遺産はすばらしいものだった。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )





肖像画で名を馳せた人のなかで、マリー・アントワネットの庇護を受けたマリー=エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランという画家がいる。上はヴィジェ=ルブランの自画像(ウフィッツィ美術館蔵)で1790年に描かれたものだが、これはマリー・アントワネットを描いているところである。
ルーヴルには彼女の描いた肖像画がたくさんあり、彼女の師匠であったクロード=ジョゼフ・ヴェルネの作品もあった。


ヴェルネ「月夜の港」(1771)

ヴェルネの作品の展示数は少なかったが、見たいと思っていた絵を見ることができてうれしかった。
このロマンチックな絵は、浪漫劇の背景にも用いられていそうだった。ヴェルネについてはよく知らないが、ローマっぽいような古代趣味が表れているように思う。
また昔は旅をするにも今より時間も体力も必要だったことだし、なおさら旅先の印象も強かったのではと思う。


ヴィジェ=ルブラン「ヴェルネの肖像」(1778)

ヴィジェ=ルブランが描いたヴェルネの肖像画。昔はこんな格好で絵を描いていたのか?といぶかりたくなるのだが、それにしても筆とパレットを持ってのポーズ、何と分かりやすいことだろう。

楽しみにしていたヴィジェ=ルブランの絵はたくさんあり、どれも見ごたえのあるものばかりだった。モデルになっている人の服もおもしろかった。


ヴィジェ=ルブラン「ルソー夫人とその娘」(1789)



フランス語読めません…



ヴィジェ=ルブラン「ヴィジェ=ルブラン夫人とその娘」(1786)

ヴィジェ=ルブランの絵は繊細で優美だった。いつの時代も人に苦労はつき物だが、絵に描かれている人の心の状態が一番落ち着いているのがロココ時代かもと思わせるような、そんな雰囲気をヴィジェ=ルブランの絵からは感じる。
尤も、ここまで美しく繊細な作品が発するものは、時代を超えても受け継がれるし、実際彼女は革命後19世紀半ばまで肖像画家として活躍した。彼女の功績はロココだけにとどまらず新古典主義にも影響を及ぼした。彼女は時代に翻弄されず、画家として生き抜いた。


ヴィジェ=ルブラン「ヴィジェ=ルブラン夫人とその娘」

たぶん、↑がルーブルで一番知られているヴィジェ=ルブランの作品だろう。


やっぱり絵を写真の収めたいですよね…


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




これまで紹介した、モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールにしろポンパドゥール夫人にしろブーシェにしろ、彼・彼女らはフランス革命前に亡くなっているが、ロココ時代それもルーヴルと大いに関わり、革命を生きた画家もいる。
ユベール・ロベール(1733-1808)もその一人だが、この人の絵はずっと気になっていて、有名な美術館に行ったなら必ず所蔵されてるか訊ねてしまう。(日本にもロベールの絵はあって東京の国立西洋美術館に「ローマのファンタジー」という作品がある)。
ロベールは1733年パリで生まれ、1754年21歳でローマに到着。それから10年以上もローマに滞在し、ローマの遺跡を絵や版画にしたパンニーニやピラネージのスタイルで廃墟画を描いた。イタリア各地を旅行して1765年に帰国、二年後のサロンにはじめて出品し、「廃墟のロベール」と言われるようになった。


「ルーヴルのグランド・ギャラリーの改造案」(1796)



「廃墟化したルーヴルのグランド・ギャラリーの想像図」(1796)

ルーヴル宮は18世紀後半まで、なかば芸術家の共同アトリエみたいな状態だった。
ルーヴルを美術館として整備し、王室の美術品を一般に公開しようという動きが始まるのが1770年代、1777年にルイ16世の美術館設立許可が出されるのだが、そのときからルーヴルの整備、陳列計画の策定を中心的に行なったのが、ユベール・ロベールなのだ。年譜によれば、革命騒ぎのときの投獄後、1794年にロベールはルーヴルの館長になっている(『NHKルーブル美術館Ⅳ』(日本放送出版教会))。
ルーヴル宮が美術館として公開されるのは革命後の共和制新政府になってからである。現在のルーヴル美術館には、おもしろいことにロベールが考えて描いたルーヴルの陳列計画や整備計画の絵が、今も展示されていたりする。
一番目の絵と次の画像を見比べると、ロベールの天井をガラス張りにしてトップライト方式で展示する構想が、ほぼ現在に実現されていることがわかったりするのだ!



さらにロベールはおもしろいことに、自身の美術館の構想で出来上がった美術館が、はるか未来にどのような姿になっているのかといった想像図まで描いているのだ。それが二番目の画像で、右下のミケランジェロ「瀕死の奴隷」も廃墟画となればただの一断片みたいだったりするし、崩れ去ったルーヴルにあっても彫刻を模写しようとする人がいたりと、ロベールの想像力は計り知れない。でも廃墟画に対する姿勢は、一貫しているのだ。


「ポン・デュ・ガール」(1786)(きれいな画像はこちら

ロココ時代自体が、ポンペイやヘレクラネウムの発見など、古代ブームが起こった時代だったので、廃墟画もたくさん登場したといえそうだが、ロベールは若い頃から古代のローマの遺跡に魅せられていた。
彼は現在もフランス南部にある古代ローマの水道橋(ポン・デュ・ガール)を描いている。絵のなかの長い年月が経った建造物に対し、人はあくまで小さい。水道橋は光と背景の空と一体となろうとしているかのようで、2千年の時間の流れをゆったりと感じさせてくれるかのようだった。

廃墟を表現する方法は、本当にいろいろある。また廃墟の解釈の法則もあるのかもしれないが、私は過去の栄華の記憶なくして、廃墟画は生まれないという、これだけは人間だけが味わえる特権、人間冥利に尽きることではないかと思う。ロベールの絵では、実際、生々しい廃墟の前にいる人間が、まるで時間の証人といわんばかりに立ち会っていると捉えられないか。
次に旅に出るとしたら、いつになるか分からないが、きっと私はまたどこかの廃墟に立つだろう。ロベールの絵は、またさらに私を行動に駆り立てる力を持っていた。ポン・デュ・ガールだけでなくいろいろなところに、行きたいっ…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回、紹介したポンパドゥール夫人とも大いに関わり、ロココ時代のイメージの中心的存在といえる、フランソワ・ブーシェ(1703-1770)の作品のセクションに来た。
ブーシェは若い頃に版画家の工房で下絵制作をしていた。先達のヴァトーの絵の版刻制作にも参加していたが、その後イタリア留学、1731年に帰国した後は、王侯貴族に愛されて売れた画家となった。
彼はポンパドゥール夫人の寵愛を受けて、夫人に絵を教え、ルイ15世の首席宮廷画家にもなった。尤も夫人としても、ルイ15世との愛妾の関係後でも影響力を保つために、ブーシェを関わらせることでルイ15世との良好な関係を維持したわけだから、持ちつ持たれつということだったのかもしれない。
周囲もブーシェを愛したが、ブーシェも周囲の人々をポジティブに愛した。絵にはその幸福感が本当によく出ている気がする。


ブーシェ「エウロペの掠奪」(1747)

「ヨーロッパ」の語源は一説に、牛の姿に身を変えたゼウスにさらわれたフェニキアの王妃エウロペにちなんでいるとか。美しいエウロペが花を摘んでいる姿に一目ぼれしたゼウスは、大人しそうに見える牛に姿を変えてエウロペ近づき、エウロペがゼウスに触れたか乗ったかした時にゼウス牛がいきなり走り出して、エウロペは連れ去られた。結局、エウロペは海を越えてクレタ島まで誘拐されたわけだが、連れ去られるときに今で言うヨーロッパ中を駆け回ったために、「エウロペ」→「ヨーロッパ」といわれるようになったとか。何かのオチかいな(笑
ただ、ブーシェの絵ではエウロペは誘拐されることを嫌がってはおらず、望んでいるかのようで、周囲もそれを祝福しているように飾られているのが面白い。絵の裏のテーマとして神とか偉大なものとか権威とかにさらわれたいという、秘めた願望を描ききっているのかもしれないと思ってしまった。


ブーシェ「オダリスク」(1740)

紹介する画像が少ないので短絡的かもしれないが、ブーシェの絵の多くは上流階級の婦人の寝室を飾るものだったそうで、誘惑的で感覚を刺激する特徴がある。尤も、↑の「オダリスク(トルコの後宮に仕える女)」は、あまりにもあからさまで後にディドロの厳しい批判を招いたのだが。
フランス革命前の悦楽と遊戯的な気分が表れた、時代を反映している絵を描いたブーシェも革命前に亡くなっている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




絵画を目を凝らして見ていると、やっぱり集中力が萎えたりするのでちょっと窓から外を見たりもした。


すごく太い柱とセーヌ川ですねぇ



遠くに見えるのはパンテオンですねぇ

18世紀は油彩による肖像画だけでなく、パステル画の肖像画が流行した。1720年にイタリアの女流画家ロザルバ・カリエラ(1675-1757)がパリに招かれたとき、パステルの新技法を伝えたことがきっかけになっているそうだが、それをすぐに取り入れる画家たちはすごいなぁ…。
前回紹介したシャルダンもパステル画で自画像を描いていたが、とりわけパステル画の名手だったのがモーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール(1704-88)である。


モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥール「ポンパドゥール侯爵夫人」(1755)
(きれいな画像はこちら

モーリス・カンタン・ド・ラ・トゥールはパステル画に魅せられて、パステル画でも油彩に負けない絵を描けると信念を持ったのか、パステル画に生涯を捧げたという。
さて、描かれているポンパドゥール侯爵夫人(1721-64)って、名前だけでも聞いたことがあるような人だと思う。
古今東西の歴史には、稀に低い身分から貴族や王の称号を得るまでに至ったような生涯を送った女性がいるが、ポンパドゥール侯爵夫人もその一人である。彼女は本名ジャンヌ・アントワネット・ポワッソンといい、平民の階級の出だが1745年にルイ15世と出会い、ポンパドゥール侯妃の称号を受ける。30歳くらいまでは王の愛妾であったが、それ以降は王の良き友人・相談相手であった。
彼女の名前が今に残るのは、彼女の才色兼備さがなせる業か、ダンス、クラヴサン、朗読、歌唱、版画、セーヴル王立陶器製作所の設立などなど、ポンパドゥール式といわれるほどの芸術というか趣味のスタイルをつくりあげたからだろう。セーヴルの陶器なんかはロシアの女帝エカテリーナ2世が莫大な値段で買い上げるほどだった。
芸術への理解が深かったこともあってか、彼女の才気は学問の方にも向けられていて、肖像画にもモンテスキューの『法の精神』や『百科全書』が描きこまれている。こういった当時の進歩的思想は後のフランス革命を引き起こす上での下地になるわけだが、このような思想を保護したのもポンパドゥール夫人のような人だったりするのは、歴史の妙なのか。彼女はフランス革命を目にすることなく、43歳で若死にした。満足とか幸福とかいったことは、いろいろな考え方があるだろうが、最も幸せな時代に彼女は自分の名を残せるほどのセンスを発揮できた、幸せな人だったんだろうなぁと、今になって絵を見たときの事を思い出しつつ感じる。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ルーヴル鑑賞において、プッサンの作品に負けないくらい、ここだけは外せないというセクションにやってきた。ジャン=バティスト・シメオン・シャルダン(1699-1779)の部屋だ。
シャルダンは、これまでに何度か書いているプルーストの『失われた時を求めて』に「登場する」のだ。作中にシャルダンの名前や作品が記されているわけではないのだが、作中に描かれる料理などの譬え、たとえば魚の内臓を大聖堂の内陣に譬えたりする豊かなプルースト十八番の隠喩は、プルーストがシャルダンの作品に対して抱いていた印象そのものなのだ。実際、プルーストは「シャルダンとレンブラント」という美術評論の中で、次のように書いている。

……シャルダンの諸作品のまえで足をとどめさせるだろう。そして彼が、かつては凡俗さと呼んでいたものを描いたこの豊かな絵に、かつては味気ないものと見なしていた生活を描いたこの味わい深い絵に、かつては安っぽいものと思いこんでいた自然を描いたこの偉大な芸術に目を奪われたとしたら、私は彼にこう言うだろう。……
 こういったものすべてが、今あなたに、見て美しいものと思われるとすれば、それはシャルダンが、それらが描いて美しいものであることを見出したからなんだよ。そして彼が、それらが描いて美しいものであることを見出したのは、それらが見て美しいものであることを見出していたからなんだな。
……あなたの頭上には、何とも奇怪な姿をした、かつてそいつがうねり泳いだ海のようにまだみずみずしい怪物が、つまりえいが一匹ぶらさがっていて、そいつを見ると、美食の欲求と、かつてそいつがそのおそるべき目撃者だった海の静けさや嵐の不思議な魅力とが融けあうんだな、そして、レストランの味のなかを、植物園の思い出のようなものを横切らせるさ。えいは開かれていて、その繊細で相愛名建築構造に感嘆することが出来る、赤い血や青い神経や白い筋肉などにいろどられていて、多色装飾の大聖堂の内陣といったところさ。
(筑摩書房『プルースト全集15』p248~252)


「赤えい」(1725-26)

吊るされたエイの内臓を大聖堂の装飾や内陣に譬えるという発想が、なかなかそう思いつかないものだと思う。そこに目をつけたプルーストもすごい。しかし、それも豊かな色彩で事物の実態すら描き出しているかのようなシャルダンの絵があってこそだ。シャルダンの絵こそ、私は究極のリアリズムだと思う。


「食前の祈り」(1740)

シャルダンは玉突き台を専門に作る家具師の長男として生まれ、社交界とは無縁な堅実な小市民社会で育った。
彼の観察眼・表現力・テクニックは作品を見て感じ取ることは出来るが、本人は仕事ぶりを誰にも見せずに秘密にしていたらしく、人々は「彼は魔法のような秘密の技法を持っている」と噂したほどだ。シャルダン自身「私は絵具を用いて仕事をするが、心で描く」と言っているとか。


「若き芸術家」(1737)

ルーヴル内のシャルダンの絵は油彩の風俗画・静物画、そしてパステル画による自画像があったが、シャルダンの作品は中の事物が動きだすんちゃうか?と思えるほど多層な質感を感じ取れるようだった。本当に空気までも伝わってきそうな。


「コマ遊びをする少年」(1738)

「赤えい」については書いたので、「食前の祈り」「若き芸術家」「コマ遊びをする少年」について一言。どれもドラマチックでもなく、まして誇張など感じられず、ひとり静かに自分の世界に無心に浸っているといったような、ようするに静かな生活の営みを描いた素晴らしい作品だった。このような過去にあったような光景は、ふと注意さえすれば、今の世でも見れそうではないか。
平凡で日常的なものが、シャルダンの造形世界にかかると、人間の真実みたいに思えてくる。これまで演劇的であったり劇的な効果を狙った作品を見てきたが、シャルダンの静寂・静謐な絵は、それらに対するアンチ・テーゼといったら言い過ぎだろうか。絵画の可能性を考える、すばらしい具体例が目の前にあった。

(以下、鮮明な画像の分です)


「赤えい」



「食前の祈り」


コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




私にとって、どうしても見ておきたかったルーヴル美術館最高の展示室の一つが近づいてきたが、その前に最も有名な肖像画が私を見下ろしていた。



イアサント・リゴー「ルイ14世の肖像」(1701)


ご存知「朕は国家なり」と言ったあのルイ14世その人だ。画家のリゴーは前回触れたシャルル・ル・ブランの弟子である。
縦280cmの大カンバスにこれでもか、といわんばかり本当に王様しかできない格好で威厳を見せ付けた肖像画。身を包んでいるマントは白テンの毛皮、腰にはシャルルマーニュ伝来の剣、(今ではあまり考えられないが)ハイヒールも立派な履物だ。
ルイ14世は「領土を拡大することは、君主に最もふさわしい仕事である」と言って、たびたび戦争を起したが、当時のフランス王国を支えていたのは人口の6分の5を占めていた農村の人たちだったので、戦争をされると民衆の生活は圧迫された。もちろん、他にも疫病・凶作が襲ったこともあったし、重税なども科せられたわけだから、民衆の生活はかなり厳しいものだったそうだ。
1715年ルイ14世が亡くなったときパリの民衆は王の長い治世が終わったことを神に感謝して踊り、歌い、通り過ぎる王の葬列をののしったといわれている。
ちなみにルイ14世は死の床で後継者のルイ15世を呼んで
「私は戦争をたいへん好んだが、あなたは隣国と平和を保つことを心がけなさい。人民の苦しみをできるだけ軽減するように。もはや、私がしたような浪費はできないのだ」
と言ったと伝えられているが…。



ジャン・アントワーヌ・ヴァトー「ピエロ(ジル)」(1720?)


ルーベンスやレンブラントやフェルメール、プッサンやロラン、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールらが活躍したバロック時代の次には、貴族趣味というか心的平和をフワフワした遊戯や宴をなどを明るく描いたようなロココ時代がおとずれる。
ヴァトー(1684-1721)は短命だったが、ロココ時代の幕開けを告げた画家として知られている。上の「ピエロ」でもロココ時代のティエポロやフラゴナールの絵の雰囲気が出ているように思う。
でも、この「ピエロ」は華やかで明るい画風の中にも、ピエロがもつあの独特の憂愁が表情から滲み出ていた気がした。それにやけに目立つこの白い衣装、ヴァトーの内面の表れとも思ってしまう。
ヴァトーは「恋の画家」と呼ばれていたそうだが、実際はそんなものとは縁遠い生活をしていたそうだ。ヴァトーの明るい雅な絵の世界は画家の夢だったというなら、彼はすべてを悟りきっていたのかもしれないと、思えてしまった。



コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




館内をぐるぐる回っているうちに、バルビゾン派の絵画として有名なコローの部屋に来た。


カミーユ・コロー「シャルトル大聖堂」(1872)

今や世界遺産となっている聖書の物語のステンドグラスで有名な、ゴシック建築の代表作シャルトル大聖堂の昔の姿だ。
私の好きな小説『失われた時を求めて』で登場する聖堂のモデルの一つとされる大聖堂、よくぞ描いてくれました、と勝手ながら思った。
コローの絵は「モナリザの娘」と言われることがある「真珠の女」、「絵を描く自画像」「青い服の女」「コローのアトリエ、マンドリンを持つ女」「ドゥエの鐘楼」そして「モルトフォンテーヌの想い出」などなど、詩情に満ちた素晴らしい作品がたくさんあったが、カメラのメモリを節約したため画像には残さなかった。(絵自体は一般の図版でもよく載っています)

もう一度、クロード・ロランの部屋まで戻り、時代順に順路を進めると、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋があった。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「燈明の前のマグダラのマリア」(1640-46頃)



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「大工聖ヨセフ」(1640頃)



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「聖イレーネに介抱される聖セバスティアヌス」(1649頃)



ジョルジュ・ド・ラ・トゥール「いかさま師」(1625頃)

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは近年ようやく脚光を浴びてきた画家で、それまでは忘れ去られた画家だったそうだ。
ラ・トゥールの絵にみられる明暗の特徴はイタリアのカラヴァッジョの影響を受けているが、カラヴァッジョの劇的で動的な効果はラ・トゥールにはない。ラ・トゥールは激しい動きを消し去りって見ている人間を静かな世界へと導くような感じだ。またラ・トゥールは闇を多く描くことで光(炎の照明自体)をより現実の物のように見せているところがうまい。
私が特に好きなのは「大工聖ヨセフ」と「いかさま師」だ。「大工聖ヨセフ」は神とか天使とか天井の光とかが出てこず、一般人のおじさんが暗い中黙々と仕事に精を出す姿を横の子供(幼キリストもしくは聖霊)が一本のロウソクの光で照らし出しているという簡潔さでもって、ヨセフの人なりの全てを静かに表現している。まるで言葉は要らず、行動で語るといわんばかりだ。
「いかさま師」は人物の光の当て方がカラヴァッジョの影響を受けている頃のものなので、ロウソク一本の照明と暗闇を描くほどの技巧には達していないが、いかさま師たちの表情がとてもそれっぽいところがいい(笑)。左の男はカードを仕込み、中央のマダムは飲み物を注ぎにきた「仲間」のサインを横目窺っているみたく、次の手を下そうとしているかのようだ。ということは右端の大きいオレンジの羽飾りを頭につけた男がカモで、彼は三人にどれほど巻き上げられるのか、そこはもう想像次第。

ラ・トゥールの部屋の次に続く大きい部屋にはやたら大きい絵が壁一面にドンと展示されていた。そんな大きい部屋の端っこの方に、見たことのあるような人物が…。


セバスティアン・ブールドン「デカルトの肖像」(1629-1649?)

デカルトが座標なんてものを考え出したから苦労したんじゃ!と数学嫌いな人は思っているかもしれないが、上のデカルト氏、なんかむちゃ顔色悪い…。デカルトって体がそんなに丈夫じゃなかったとか聞いたことあったので、画家の目にもそんな風に映ったのだろうか。



上の絵は誰が描いたのかメモを忘れたのだが、色合いがきれいでリアルな人物が雲に乗っている姿が妙に印象に残った作品だ。私の想像では聖人の幻視の絵だろうと思っているが…



上はヴェルサイユ宮殿の建造に多大な貢献をしたシャルル・ル・ブランの絵だったと思う。ルーヴルにはル・ブランのアレクサンドロス大王の戦いを描いた大作がいくつかあって、これもその一つだったと記憶している。

以下の四枚も大作で、ジャン・ジューヴネの作品だ。どれもが聖書の一場面を壮大なスケールで描いてある。


きっとキリストの奇蹟、病人や墓からしてラザロの復活の場面だと思う



赤子姿のキリストからして東方三博士の礼拝の場面だろう



大量の魚からして、キリストによるガリラヤ湖の魚の奇蹟だろう



十字架降下の場面

最後から二番目の「大漁」の絵は、ロシアのサンクト・ペテルブルグにあるエルミタージュ美術館にも巨大なタピスリーとして壁にかかっていたりする。フランスの絵画がタピスリーの図柄になってロシアに届けられたのか、それともロシアで作られたのかは分からないが、18世紀のフランスとロシアとが芸術の面でも地続きであったことを改めて学んだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




外国の大きい美術館では特殊なスペースもあったりする。たとえば美術館に対して多大な寄付や寄贈などで貢献をした人のコレクションが、貢献した人の名前でホールやスペースが設けられて作品が展示してあったりする。そのスペースは美術史を基にした系統などは意識されてなく、極端なたとえでは一つの部屋内にボッティチェッリの横にエル・グレコの絵が飾ってあったりするおもしろさがある。
ルーヴルにおいて個人コレクションの展示があるのかは知らないが、それっぽいようなスペースがあった。人は少なく、監視員の人も暇そうにしていた。


左にフランス革命期の画家ジャック・ルイ・ダヴィッドの「ド・ヴェルニナック夫人の肖像」(1798-99))が
右にスペインの画家ゴヤの「ラ・ソラーナ侯爵夫人(カルピオ女伯爵)」(1794-95)が見える

ナポレオンの姿を数多く描いたダヴィッドの絵のほとんどは、フランスの革命期美術やロマン派美術とともにドゥノン翼のグランドギャラリーに展示されているのに、「ド・ヴェルニナック夫人の肖像」だけシュリー館の特別な一室にあったりする。作品は豪華な生活に身をやつした夫人の退廃的なところが、非常によく表れていた。
ゴヤの「ラ・ソラーナ侯爵夫人」…。なんて静かでさみしそうな絵なんだろうと思った。ゴヤは侯爵夫人の死の数ヶ月前に描いたそうだ。侯爵夫人は自分が重い病気であることを自覚していたが、ゴヤは決して理想化することなく死の近い侯爵夫人のありのままを描いた。画像では伝わらないが、これはよく画集でも載っているので、機会があればぜひ見て欲しい。
この部屋には他にロシアのピョートル大帝の肖像も手がけたことのあるジャン・マルク・ナティエの手による貴族の夫人を伝説の女神に見立てた作品があったりした。


カナレット「リアルト橋」



カナレット「救済教会」

18世紀にヴェネツィアで活躍したカナレット(1697-1768)の絵もあった。カナレットというのは通称で、本名はアントニオ・カナルという。
カナレットの絵は明るく詩情豊かで、「現在のヴェネツィアですよ」と言われても、違和感を感じないくらい写真みたいに思えてしまう。理想化された風景を描いたロランの絵画とはまた異なり、カナレットの風景画は旅行パンフレットに用いられてそうな飛行機にさえ乗れば手が届きそうな旅情をくすぐらせる。カナレットの絵を見て、あぁ、ヴェネツィア行きたい!と思う人もいるのではと思う。


(画像をクリックしたら大きい分が表示されます)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )





えっ、まさか、デジャヴ? といった体験をした。

デジャヴを意味を改めて確認したら、

一度も経験したことのないことが,いつかどこかですでに経験したことであるかのように感じられること。既視感。(三省堂提供「デイリー 新語辞典」より)

とあって、やっぱそうだよなぁと何かよく分からないけど確信みたいなものが今ある。(蛇足だがSF映画の某作品ではデジャヴには論理的意味があったりするみたいなことまで思い出してしまった。)

スペインの巡礼道で知り合ったスイス人の友人が、うれしいことに現地の板チョコを四枚、そして友人が住んでいるところの絵葉書を四枚贈ってくれて、昨日それが届いた。私はチョコレートを食べてしまう前に贈り物を画像として残しておきたくて、上のようにパチリと撮った。
画像をパソコンに取り込み、編集しているときに何か分からないけど、妙な確信がふつふつと湧いて出てきた。

「以前、同じ作業をしたことがあるぞ」

単にいつも画像を編集するような同一工程だから当たり前と思ったなら大したことは無いだろうが、それが初めて見るはずの絵葉書にある風景まで見覚えがある気がし、以前思ったような行った事の無い土地への憧れみたいな感情までついてきたから、どうなってんの?と正直我を疑ってしまったのである。まるで、以前からこの日のこの作業がやって来ることを分かっていたような気になったのだ。
まぁ無意識の領域が映像化した体験の夢というなら分からないでもない。日中に活動しているときに思い出せない夢の断片みたいなものが、今回の贈り物が引き金となってよみがって、とりあえず私にデジャヴみたいな体験をさせたのかもしれない。
人間年をとれば、かつて経験した似たようなものごととか増えていくし、また、してみたかったという願望もそれ相応に増えていく。となれば、デジャヴ体験も増えていくのか!? 普段から珍奇なことが好きな私としては、そうなるとかなりヤバイだろう(笑
フランスの作家ネルヴァルは

「夢は第二の生である」

と『オーレリア』の冒頭に書いた。リアルに名言だなと思った。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ 次ページ »