デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ノンフィクション小説の金字塔として名高いトルーマン・カポーティの『冷血』を読み終えた。
カポーティは5年余りの歳月を費やして綿密な取材を遂行した。この作品を書くにあたり、ノートが6千ページにもなる資料を収集し、さらに三年かけてそれを整理したという。
取材量だけでも大変なのに、それを読者が登場人物たちの背景まできちんと分かる形で、描く「編集能力」もしくは表現力に驚かされた。なにせ文庫本で600ページぐらいで描ききっているのである。かといって描写が荒いわけではないのだ。
『冷血』から読み取れるテーマは多いが、私は殺人者の過去に悲惨な境遇が認められない場合でも、他人を殺めてしまうことが出来る不可思議さが印象に残った。土足のにおいのする、根っからの悪の状態を、いや、人間は根っからの悪になりきっている時がある不可思議さというべきか。精神がいわばエスカレートしているような。
金のためだけなら、殺害せずに済ませることが出来たかもしれない。しかし、問題は金ではなかった。犯人同士が互いに精神を煽る相乗効果のようなものが、殺人へと至らせた。読んでいて、どこか精神的に人生におけるリスクに対して考えを張り巡らせない「若い」というか「青い」ものも感じたが、こういった心理の状態は人間の人生の場面場面では起こることかもしれないし、また起こりそうでも無自覚に紙一重ですり抜けているタイトな綱渡りが、日々続いているのかもしれない。そのことを思うだけでも、人間ってきわめて危うい存在なのだと思う。人間はときとして後先のことを考えずに、凶行に及ぶことのある生き物なのだ。

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