デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 




墓碑についてのイタリア語で解説が始まった。イタリア語は分からないのになぜだか混じって話を聞いていた。この墓はDric tombと呼ばれているようだ。見てのとおり、この墓は修復されている。
現代ではお墓といえば、自治体、寺、神社、教会などが管理する集団墓地にあるのが、当たり前であるといえばそうだが、ローマ時代には街道沿いに墓が建てられた。
公道に面して墓碑や墓所を建てるローマ人の慣例の先鞭をつけたのは街道敷設の立案者のあの財務官アッピウスで、彼は自分の墓はアッピア街道脇に建てよと遺言して死んだという。


これは復元ではあろうが、現代に立てられたっぽいな。



だんだん現代の四角い石の舗装が多くなってきた



ヒラリウス・フスクスの墓

一族のレリーフが見られる。外面はきっと立派な彫刻で覆われていたことをうかがわせた。











往時のアッピア街道を描いた復元図

これを見てみれば、現在に残るアッピア旧街道がいかに原型を留めていないか、わかるように思う。『すべての道はローマに通ず(ローマ人の物語Ⅹ)』(新潮社)には、古代ローマ人が現代のアッピア旧街道を見たら憤慨して卒倒してしまうだろうと、書いてある。
旅行ガイドブックやインターネット上にある現在のアッピア街道の画像だけでも十分あこがれを抱けると個人的には思うが、元々ローマ軍が行軍するために敷設された街道であるという側面を今に残る街道から想像するのは確かに難しい。せめて昔は今とまったく違ったという思いだけは持っておきたい。


Tiberius Claudius Secondinusの墓



Quintus Apuleiusの墓






子供が墓所?の跡をよじ登っていた。

つづく

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