デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



今の自分にとって重要なことが書かれている本であることは確かなのだが、読んでみていざ自分の中で起こった漠然とした感想を述べようにも、どのように書けばいいのか困り果ててしまっている。本自体は、先月末に読了したものの分からない点がたくさんあったので、正月中よく読めてなかった箇所を読み返したが、それでも私の理解はまだまだ追いついていない、手に負えてない本であることは確かなようだ。
タイトルどおり、この本は歴史とは何かを論じた歴史哲学の本だが、名著といっていいだろう。

歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話なのであります。

よく引用される有名な言葉だが、本はこういった不断の過程のなかにも歴史家が歴史を決定することというのは、そもそもどういったことか、といったことを解きほぐしてくれている。
カーは歴史が決して覆せない、打ち壊せない、過去という型が決められてしまっているということについて、

「われわれが読んでいる歴史は、確かに事実に基づいてはいるけれども、厳密に言うと、決して事実ではなく、むしろ、広く認められている幾つかの判断である。」

といったバラクルーという人の言葉を引用したりしているが、このような解きほぐしは体験したことのない歴史について軽々しく語る私にとっては非常に為になるように思う。
そして、歴史家も人間で、自分の生きている時代の影響から逃れることはできないという当たり前のことではあるが、一般読者がそこまで意識しないことも改めて気づかせてくれたりしている。とくにモムゼンの書く歴史のくだりはおもしろかった。
歴史における因果関係の章には苦笑せざるを得なかった。とかく私も、歴史にIFを用いたがる傾向があるから、「クレオパトラの鼻」問題や、ロビンソンの死やスミスの譬えは秀逸だ。しかし、カーがもし現在の社会的責任を負う人間の姿を目にしたら、どう思うことだろう?と思ったりはする。
なんだかんだいって同意したのは、

過去に対する歴史家のヴィジョンが現在の諸問題に対する洞察に照らされてこそ、偉大な歴史は書かれるのです。

…ある歴史家たちに比べて、もっと永続性のある、もっと完全性と客観性とが多い歴史を書く歴史家たちというのはいます。この人々は、過去および未来に対する長期的見方とでも呼ぶべきものを持っている歴史家たちです。未来への理解が進んで初めて、過去を取扱う歴史家は、客観性に近づくことが出来るのです。

といった言葉だった。そうか、結局人間は未来がどういった変化を遂げるのかという方向性をもちつつ、あらゆることを検証しよう・論じよう・書こうとするのだ。これって、当たり前すぎて実は見失いがちで、また自分本位の価値観や欲望とすりかえたり勘違いしやすいことのように思う。時間って連続してて地続きであると捉えること、どんな国の地域の歴史家であれ、一般大衆であれ、過去・現在・未来を相対的に捉える努力を欠かすべきではないと思った。

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