デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



東からサンタンジェロ城へ

アッピア旧街道の記事にて、『ハドリアヌス帝の回想』を何度か引用したこともあり、せっかくなので"ハドリアヌス帝の廟(墓)Mausoleo di Adriano"についても紹介したい。
ハドリアヌス帝の廟とはいっても、現在の有名観光スポットのサンタンジェロ城(Castel S. Angelo)のことだから、ここについてはさまざまな書籍やイタリアを映した映像・映画、WEB上でも記事がたくさんあるので、私の書く内容も部分的に同じようなものになるだろう。
私はアラ・パチスからカヴール橋を渡り、川岸通り沿いに最高裁判所の前を通ってハドリアヌス帝の廟に向かった。


サンタンジェロ橋

サンタンジェロ城入口の前に架かる橋だからこう呼ばれている。橋を飾る天使像はバロックの巨匠ベルニーニの像の複製である。
バチカン市国、サン・ピエトロ大聖堂と近いからか、訪れる観光客は多い。サンタンジェロ城自体は大きな建造物だけれども、混雑による事故防止のための入城制限はそれなりにしているようだ。午後というのもあったのだろうが、私は結構並ばされた。


外壁

入城券購入まで並んでいる最中に廟の外壁を見上げる。層のようになっている。段階的に廟の姿が変わっていったことが分かる。
入る前の検札で人が途切れたので、私は「ハドリアヌス帝の墓はどこですか?」と訊ねてみた。職員さんは英語で詳しく「この建造物自体がハドリアヌス帝の墓で、今こそサンタンジェロ城となっているけれども、云々」と教えてくれた。その説明は有難かったのだが、私としてはハドリアヌス帝の「骨室」のことを訊ねたかったのだ(笑)。「骨室」を意味する単語、もしくは細かいニュアンスを表現する英語力は持ち合わせていなかったので、お礼だけ言って中に入った。


ハドリアヌス帝の廟のだった頃の模型

サンタンジェロ城の元の姿を再現した模型があった。アウグストゥス廟の影響を受けていることが分かる。



入口から一旦階段を下りてから、らせん状のゆるい坂が続く。
あぁ、ここがそうなのか、と少し感慨に耽りたかったが、町を歩き回った後のサンタンジェロ城観光なので疲れていて、まだ後から後から観光客の声がするのでさっさと足を進めてしまった。
感慨に耽りたかったというのは、須賀敦子の『ユルスナールの靴』(河出書房新社)にあるハドリアヌス帝の廟を訪れた箇所が印象に残っていて、骨室までの螺旋状の坂のどこか高貴で乾いた静寂さというやつを期待していたのだが、私の行ったときはそうではなかった。
しばらくして、『ユルスナールの靴』にある「傾斜した橋」まで来た。そして、一説にハドリアヌス帝が埋葬されているという骨室が見えた。現地にいたときは実際のところエッセイの内容を参照したというより、そこがただ単にライトアップされていたので、ハドリアヌス帝の骨室っぽいな、と思えたというのが正直なところだった。


ハドリアヌス帝が死の床で作った詩の一節が…

ユルスナールの『ハドリアヌス帝の回想』、須賀敦子の『ユルスナールの靴』にも載っているハドリアヌス帝の詩だが、廟にあった大理石に刻まれている詩は大文字で記されていた。

ANIMULA VAGULA, BLANDULA,
HOSPES COMESOUE CORPORIS,
QUAE NUNC ADIBIS IN LOCA
PALLIDULA, RIGIDA, NUDULA,
NEC UT SOLES DABIS IOCOS.

たよりない、いとおしい、魂よ、
おまえをずっと泊めてやった肉体の伴侶よ、
いま立って行こうとするのか、
青ざめた、硬い、裸なあの場所へ、
もう、むかしみたいに戯れもせず…… (須賀敦子訳)


ハドリアヌス帝の遺骨が納められた場所の説には、この「骨室」よりも上階にあるローマ教皇が装飾を施させた「宝物の間」と呼ばれる部屋ではないか、とするものもあるようだ。私個人は画像にある骨室の方がストイックな皇帝にふさわしいと思っている。
ちなみにハドリアヌス帝の廟には、ハドリアヌスからカラカラまでの皇帝が埋葬された。


天使の中庭への階段



天使の中庭



ここから上の造りは…?

サンタンジェロ城が、もともとはハドリアヌス帝の廟であったことは書いたが、お墓から要塞に最初に改築したのは、ホノリウス帝である。ホノリウス帝はローマ帝国の東西分離が決定的となった4世紀末以後の西の皇帝だ。アラリックが族長の西ゴート族がローマを劫掠したあとの復興で、要塞に改築したのだろうか。
そして、西ローマ帝国の滅亡後、東ゴート族のトティラがローマを占領した際、現在見られるような堅固な要塞へと再改築した。
10世紀以降、サンタンジェロ城が教皇庁の所有になってからも、要塞として強化されていった。


ハドリアヌス帝の胸像



屋上からカンピドーリオの丘方面を望む



天使の像

ゴート族は再三ローマを攻略した。6世紀半ば、ユスティニアヌス帝から西に派遣されたナルセスがロンゴバルド族を主力とした軍を率いてゴート族と戦い勝利したが、その後ロンゴバルド族はイタリア半島を手中にすることになる。
そのロンゴバルド族はローマにペスト菌を持ち込んだ。ペストはイタリア全土を席巻した。



590年、時の教皇グレゴリウス1世がペスト流行の終結を祈願する行列をつくった。その一行が城塞の近くにさしかかったとき、天使ミカエルが城塞の上に現れてペストの終焉を告げた、といった伝説が、現在のサンタンジェロ城の名の由来となっている。



屋上のテラスのこの石の像の跡らしきものを見ていると、西ローマ帝国が滅亡した後、ゴート族がローマに攻め入り東ローマ帝国のユスティニアヌス帝が将軍ベリサリウスに命じて旧西ローマ帝国の領土を再復を図った際の攻防を思い出した。
ローマ入城を果たした将軍だったが、再びゴート兵がローマを攻城した。要塞化されたハドリアヌス帝の廟をゴートの兵から守るためとはいえ、彼らは廟にある神々や馬の彫像を引き落として破壊し、石塊の山と化したそれらを両手で持ち上げては、ゴート兵の頭上に落とし始め、敵兵を追い払ったのだ。
仕方がなかったとはいえ、芸術作品の殺戮だけはしなかったローマ人の将軍の時代とは異なる6世紀半ばの「殺戮」であった。
画像にある石の跡は「殺戮」の跡と無関係であるとは思う。でも、その攻防のことを髣髴とさせるように思った。


サンタンジェロ橋から撮

ハドリアヌス帝の骨室、屋上テラスからの眺めなどを堪能し、サンタンジェロ城を後にした。入城の際、私に説明してくれた男性職員が「再見」と言ったので、Splendido Mausoleo! Arrivederci.と返事してGiapponeseと言い添えた。男性職員は「サヨナラ」と返してくれた。

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