デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



まぁいろんなものがおっ立ててある



墓標自体は明治に立てられた?







紀貫之の『土佐日記』について、今のところ私の中では、「かな」が使われている時点で読み手が瞬時に女らしいと文章だと判断していたのか、いくら「かな」を使って書いたところで読み手からすれば「あ、これ実は男が書いてるやろ?」と即見抜かれたりしていたのだろうか、などの、いくつか疑問をもっている。
ただ、やはり『土佐日記』は文を読んだり書いたりする人から見れば、「紀貫之め、女言葉をつかって諧謔めいたものを書きよったわい(笑)」といった楽しみを、当時の読者は味わっていた可能性はあるだろう。紀貫之は自分の交友関係のネットワークをもっていて、その「友だち」に日記のことを知ってもらったからこそ、作品は今に伝えられたと思うのだ。

ところで私が読んだ『土佐日記』は、林望著『すらすら読める土佐日記』(講談社)の分であるが、この本にはありがたくもページの上段に原文、下段に現代語訳が付されていて、初心者にも『土佐日記』が非常に分かりやすくとっつきやすさを感じさせるものになっている。
この本の中から『土佐日記』の七日目を引用させていただく。

七日になりぬ。同じ港にあり。
 今日は、白馬を思へど、かひなし。ただ波の白きのみぞ見ゆる。
 かかる間に、人の家の、池と名ある所より、鯉はなくて、鮒よりはじめて、川のも海のも、他物ども、長櫃に担い続けておこせたり。若菜ぞ今日をば知らせたる。歌あり。その歌、

浅茅生の野辺にしあれば水もなき 池に摘みつる若菜なりけり

いとをかしかし。この池といふは、所の名なり。よき人の、男につきて下りて、住みけるなり。この長櫃の物は、みな人、童までにくれたれば、飽き満ちて、船子どもは腹鼓を打ちて、海をさへおどろかして、波立てつべし。
 かくて、この間に事多かり。今日、破籠持たせて来たる人、その名などぞや、今思ひ出でむ。この人、歌詠まむ、と思ふ心ありてなりけり。とかく言ひ言ひて、「波の立つなること」と憂へ言ひて、詠める歌、

行く先に立つ白波の声よりも 遅れて泣かむ我や勝らむ

とぞ詠める。いと大声なるべし。持て来たる物よりは、歌はいかがあらむ。この歌を、これかれあはれがれども、一人も返しせず。しつべき人も交れれど、これをのみいたがり、物をのみ食ひて、夜更けぬ。この歌主、「まだ罷らず」と言ひて立ちぬ。ある人の子の童なる、ひそかに言ふ。「まろ、この歌の返しせむ」と言ふ。驚きて、「いとをかしきことかな。詠みてむやは。詠みつべくは、はや言へかし」と言う。「『罷らず』とて立ちぬる人を待ちて詠まむ」とて求めけるを、夜更けぬ、とにやありけむ、やがて往にけり。「そもそも、いかが詠んだる」と、いぶかしがりて問ふ。この童、さすがに恥ぢて言はず。強ひて問へば、言へる歌、

行く人もとまるも袖の涙川 汀のみこそ濡れ勝りけれ

となむ詠める。かくは言ふものか。うつくしければにやあらむ、いと思わずなり。「童言にては何かはせむ。嫗、翁、手捺しつべし。悪しくもあれ、いかにあれ、便りあらばやらむ」とて、置かれぬめり。

(現代語訳)
七日になった。が、まだ同じ港に停泊している。
 今日は宮中で白馬(あおうま)の節会(せちえ)が行われている日だなあと思うけれど、どうにもしかたがない。こうして、馬の白いのは見えもせて、波頭の白いのばかりが目に見える。
 そうこうしているところへ、ある人の家から、……これは池という名前のついた所の家からでしたが、長櫃(ながびつ)に幾つも幾つも担がせて贈り物を届けてきた。なにが入っているのかと思ってみると、残念ながら池につきものの鯉はなくて、鮒をはじめとする川の魚、そして海の魚、その他あれこれと入っていた。なかに若菜が入っていたので、そうか今日は菜摘(なつ)みの行事の日だったよなあと思い知らされる。菜に、歌が付けてある。その歌。

「私のところは『池』とは申しますが、じつは茅萱(ちがや)の繁る野、そんな野辺の村なのでございますから、その水もない池で摘んだ若菜でございます」

 じつにしゃれたものだ。この「池」というのは地名である。やんごとない身分の姫が、夫に連れ添うてこんなところまで下ってきて、今も住んでいるのである。この長櫃のなかの物は、一行の総ての人に、それこそ童(わらわ)の末に至るまで行き渡るほどあったので、みなすっかり満足満腹して、船の水夫どもは鼓腹撃壌(こふくげきじょう)の民よろしく腹鼓を打って、池どころか海までも驚かして波を立てようかという騒ぎとなる。
 とまあこんなことで、かれこれするうちにいろいろな事があった。今日、折り詰めの餞別(せんべつ)を家来に持たせてやって来た人、さてその名は、なんと言ったか、……ま、そのうち思いだすだろう。ともあれ、この御仁、よせばいいのに歌を詠もうと思いついて、それでこんな粗略なものを持ってやって来たのであったよと思い当たる。ああだこうだとお喋りをして、揚げ句に「波が立つようでござりますなあ」などと、わざとらしい憂え顔で言って見せたあと、詠んだ歌は、

「行く先に立つ白波の音よりも、その後に残されて泣く私の泣き声のほうが、きっと勝るでありましょう」

 と、こうであった。波よりも勝るとは、よほどの大声にちがいない。持って来た料理はまあいいとして、この歌のほうは、さていかがなものであろう。この歌については、誰も彼も、口先では、結構ですなあ、ってなことを言うけれど、ただの一人も返し歌を詠もうという人がない。一同のなかには返し歌を詠んでもよさそうな人も交じっていたけれど、その人もまた、「まことに結構なるお歌で……」なぞと言いつつ、ひたすら物を食うて、夜が更けた。と、この歌の主は「まだ帰りませんがね」と言いながら、ふと席を立った。その時、ある人の子で、まだほんの小さな女の子にすぎぬ者が、「わたくしが、この歌の返しをいたしましょう」と言う。一同これにはびっくりして、「そりゃあいいねえ。でも、ちゃんと詠めるかな。もし詠めるなら、さっそく言ってごらん」と言う。すると、この子が「さっき『まだ帰らない』と言って立っていった人が戻ってきたら詠みます」と言うので、くだんの歌の主を船じゅう探してみたけれど、みつからない。たぶんもう夜が更けたから、とでもいうので、あのまま帰ってしまったのであろう。「で、それは、いったいぜんたい、どんなふうに詠んだかね」と、いぶかしく思って尋ねる。けれども、この童、そうは言っても恥ずかしがって言わない。強いて問うと、やっと言った歌は、

「都へ帰っていく人も、ここに留まる人も、袖濡(そでぬ)らす涙が川のように流れて、その涙の川の水際はますます濡れ勝っていくばかりでございます」

 とこんなふうに詠んだ。なるほど、こんなふうに詠むものか。まだほんの可愛い娘だとばかり思っていたからであろうか、この歌の出来の良さには、みな意外の感を持ったことである。そこで、一同「子供の歌ということではどうにもならぬ。ここはひとつ、お母上かお父上が、署名なさったらよい。作者を偽るのが悪いことであろうとなかろうと構わぬさ。それで、なにかのついでにでも、奴に届けておやんなさいよ」とか言って、それっきりになったもののようである。

長くなったが、こんなことって現代でもあるだろ?と、弊ブログをご覧になられている方々に共感を求めたい気分になってくる(笑)。
餞別(豪華な料理)を持たせてやってきた田舎の役人は、日記の作者に名前すら覚えてもらえない。そもそもこの役人に関しては、作者は名前を覚えようとする気がないように私は思う。
なぜならば、この田舎役人は別れを惜しむために料理を振舞ったのではなく、自分の歌を聴いてもらうために足止めを食らっている船客に料理を振舞ったからである。この役人の歌は自ら歌の素養の貧しさを露呈してしまうできのもので、それを聞かされる船客たちはいい迷惑なのだ。なので「けっこうなお歌」と言ってはいるが、場合によっては誰もが絶句してしまい場が白けて、誰もが料理を何かをごまかすように取り繕うように俯いて食べ続けるような光景すら起こりうるだろう。そして次の秀逸なエピソードが語られる。
船中には歌を返せるような素養の持ち主もいるが誰も返さず、田舎役人はバツが悪くなったのか引くに引けなくなったのか「まだ帰らん」と言い残しその場を一旦?離れるが、その間に子供が大人顔負けの返しの歌を詠んでしまう、というのはなんとも笑える話ではないか。あげく、みな子供に感心したものの田舎役人の顔も立てなきゃならんから、善悪はともかくその場をとりつくろいましょうと共謀する思考はさらにおもしろい(笑)。
西洋と東洋の文芸における笑いについては一概に比較はできないが、セルバンテスの『ドン・キホーテ』が機知でもって人を笑わせるものを書くことに並々ならぬ姿勢を感じさせ、また自ら機知について時に狂人の主人公に作中で論じさせることのおもしろさを与えてくれるものならば、紀貫之は機知について論じはしないが人の素養の有無がはっきり表れる情景をものの見事に描き出し、この場の空気って困るよなぁ、食っちまった料理を今更吐き出すわけにもいかん、といった誰でも覚えてしまう情感があって、懐かしくもあり同時進行的なものがあるように思う。
『土佐日記』はこういった笑えるエピソードだけでなく、悲哀を感じさせるエピソード、ちょっとエロいがユーモアを感じさせるエピソード、紀貫之の前の時代に編まれた和歌集や唐詩を踏まえて書かれたシブい記述など、盛りだくさんな内容になっている。私なんぞが『土佐日記』の魅力を語ろうにも到底語りつくせぬが、もしこの記事で『土佐日記』を手に取ってみようかな、と思われた方がおられれば幸いである。

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