デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ナヴォーナ広場

マリオ・プラーツ著(伊藤博明・上村清雄・白崎容子 訳)『ローマ百景Ⅰ・Ⅱ』(ありな書房)
読了。
読み終えたのは2週間ほど前なのだが、なかなか感想というか、この論文集についての考えがまとめられずにいる。
それにしても読了までに長い時間がかかった。同じような読書体験としてはゲーテの『イタリア紀行』の時のようだったといえるかもしれない。『イタリア紀行』も『ローマ百景Ⅰ・Ⅱ』も長い時間をかけなければ読めなかった。(分量的にはるかに多い『チボー家の人々』の方がペースが断然早い(笑))
『イタリア紀行』と『ローマ百景Ⅰ・Ⅱ』はともにイタリアについて書いている本で、ゲーテはドイツからの来訪者の立場から、プラーツはローマに居を構えた立場という違いこそあれど、どこか読みづらさを覚えさせるような臭味を読者に感じさせるようなものを感じた。
しかし『ローマ百景Ⅰ・Ⅱ』は、ドイツから訪れたゲーテとは異なり、ずっとローマにあった人が書いた文だ。旅行先でバスや地下鉄でさっさと移動してしまう私には決して味わえないものが詰まっていた。その内容は常に辛らつであろうと思っていたわけではないのだろうが、読者や一旅行者からすれば、偏屈な懐古趣味にも映るし、かつて汚くて雑然としていたものでも楽しく感じたことを称揚するようなものでもない内容に辟易するかもしれない。実際、他人にとってみればなんら面白いところがない単なる学者や評論家の嘆きに映るかもしれない。
ただ、都市の姿が変貌を遂げていく様を昔の文献を紐解いて研究するのみならず、日常の生活でもそれをつぶさに目にした人であるがゆえの辛らつさに対しては、どこか同情する余地があるように思う。老人にかつて少年期があったことなど想像がつかないように、都市にも昔の絵画や写真で写された時代のことを想像することは難しいと分かってはいつつも。


ナヴォーナ広場



ナヴォーナ広場のサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会



エマヌエーレ2世橋

『ローマ百景Ⅰ・Ⅱ』を読み終えてから、本に出てくる場所の画像を探してみた。プラーツ氏が若かりし頃の雰囲気とはまるで違うことであろう。一旅行者では本にあることのわずかな要素すら知ることはできなく、今はこんな風です、としかいうことができないのが関の山だ。今はこんな風です、という行為は相手にとって時に悲痛なものをもたらすが、そんな私でもヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂が21世紀に入った現在でも俄然存在感を放っていることに軽々しく言及したくはないと思っている。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )