デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



ヴィクトル・ユゴー作(辻昶, 松下和則 訳)『ノートル=ダム・ド・パリ(上・下)』(岩波文庫)、読了。

15世紀のパリを舞台にしたヴィクトル・ユゴーの長編。ETVの「100分で名著」を見て、思い出したかのように読み始めた。
昨年の台風被害で落ち込んでいるときにネット上の知人から「異世界もの」を勧められて食傷してしまった体験を踏まえると、ユゴーによって詩的なものが凝縮されている19世紀の時点でここまでやっている作品があることに少しくらい目を配ってはいかがなものか、というのが読み終えた直後に得た感想というか感情だった。
作品は正直、作者がしゃしゃり出てきて町の歴史の薀蓄を披露しているのは読んでいてきついものがあった。作者によるエッセイ、脱線が無かったら全体の分量の2/3で収まっていたんじゃないか、とさえ思う。作者註としてすべて巻末に本筋とは関係の無い薀蓄を傾けていればそれなりに読み応えはあったしカタルシスを得れたように思う。読者や研究者にとっては作者のエッセイや脱線から過去を検証・研究する足がかりを得るから一概に無用の長物ともいえないかもしれないが・・・。
ただ、この中世を舞台にしたコテコテのロマン主義の悲劇の典型作品はETVの番組でも言っていたとおり、確かに(後世に大いなる改変の余地を与える)「神話」であるとは思った。
とくに、クロード・フロロの存在感、よくこのような登場人物を創ったなと感心した。現代人の目からするとクロード・フロロは「きもい」存在で不審者・異常者で片付けられてしまうだろうが、私は共感こそしないものの大いに同情するところはあるように思った。世のすべてを学問頭で判断してしまいがちな、頭でっかちの堅物で理性と感情に苦しむ救われない存在。でも彼は図書館や修道院の奥に篭っていたわけではないし、信仰一本で生きてきたという見方も一概にはできない。弟の養育は信仰が支えになった善行とはいえるし、弟の成育の悪さは彼のせいではない。
ただ、学問の世界では思い通りになったものも、現実世界では思い通りにならないものがあることを自省できないのは彼の悲劇だったろう。最初は弟のジャン。ジャンは学生で自由人、自堕落な存在で、彼を通すことでクロードは自分に絶対服従しない飼いならせないものの存在について無意識下では分かっていたろう。
ジャンに対しては身内ゆえ意識していなかったが、どうにもならない存在を意識せざるを得ない時期に来ていたタイミングでエスメラルダを目にするところは確かに「宿命」としか感じられなかったろうし、彼のやることなすこと、とどのつまり自ら手を下したり宗教的権限でエスメラルダを我がものとしようとする執着心はぶっ飛んではいる。しかし、司教補佐の職を投げ出そうとまでするとは読んでいて正直思わなかったし、次第に不思議と彼が『源氏物語』の柏木の姿に重なって見えてきた。私はフロロに柏木との類似点を見た。
クロード・フロロ創出は、作家の社会的立場や普段の素行、自身の思想・信条、性格がどうあれ、自分の表現したいことをきちんと表現できることの証左であろう。作品では登場人物の役割をきちんと考えているし、激情に囚われてしまいかねない自身の体験の昇華のみならず、知識の探求に貪欲であるところなどは作家の並々ならぬ精神力を感じる。個人的に感じる退屈な描写も多いが読者のことをきちんと考えていて、決して適当に書きなぐったものではない。

ほかにもカジモド、グランゴワール、エスメラルダの母、エスメラルダ、フェビュス、各登場人物について書いていけば何かしら考えさせられるものがある。ここまで各キャラについて様々な感想が湧き上がってきた作品は久しぶりだった。

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