私の個人的体験でなんだが、10年以上前だったか、若い女性があこがれる「小父様」的特徴としてこの映画の主人公ドン・ファブリツィオ(サリーナ公爵)のような人が挙げられるといったようなことを酒の席で耳にした。野暮な私はさっそくこの映画をレンタルしてきてイタリア近代史などの知識を全く持たないまま視聴した。まったく面白く感ぜず非常に退屈だった。
先日、録画しておいた『山猫(完全復元版)』で再鑑賞すると、傲慢ではあるが洗練された優雅なふるまいも含めてバート・ランカスター演じるドン・ファブリツィオに、「小父様♪」として庶民が近づこうものなら門前払いだなと思った(笑)。当時のヒエラルキーの違いを誇大妄想で乗り越えられそうなものという若気の至りの時期の真っ只中だったのだろうと思った。
私がいうのもなんだがイタリアにおけるシチリアの立場はそれこそ波乱万丈といっても過言ではない。そのことが作品にもドン・ファブリツィオのセリフの中にも顕れていることを理解しようにも若い頃には実感として伴わせることができない。あの雰囲気は監督のヴィスコンティの貴族意識があってこそ醸成されるものだろう。
ただ、時代は自分達にとって斜陽・没落していくことを避けられない容赦の無い時代の波に飲まれつつも、ドン・ファブリツィオは決して「いき」なところを失わない人だな、と感じた。映画を見る前に読んだ九鬼周造『「いき」の構造』の影響もあるのだが、「いき」というのは江戸時代の庶民だけに見られるものではなく、外国の貴族であっても見て取れるような気がしたのだ。
ドン・ファブリツィオが「いきな人」?とおそらく人様からすれば私の感性や直感から得たものが的確な表現として合っているものかどうか疑問を呈することも少なくなかろう。しかし、ドン・ファブリツィオにはやせ我慢と反骨精神のみならず「諦め」まで表現されているじゃないか(笑)。『「いき」の構造』で論じられている「いき」に影響され、その言葉の端々を今回この映画にみた。
| Trackback ( 0 )
|