デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』 (土屋政雄 訳、ハヤカワepi文庫)、読了。

カズオ・イシグロ氏がノーベル文学賞を受賞したニュースが世界を駆け巡ってから書店で品薄になった作品の一つ。尤も、受賞によるブームが去ってしまったら、手にしやすくなったなぁ。3年も経てば仕方の無いことなのだろうか…。
それはともかく、作家がどれほどのビッグネームであろうが、なるべく作品そのものに対して良かったかいまいちだったかを第一に考えたいと思ってはいるのだけれども、カズオ・イシグロ作品は(三作品目の読書とはいえ)さすがだなと、私の中では作家名だけで一定の評価が固まりつつある。
今回も、読み手が読書中に抱きがちな物語の展開や予想をいい意味で裏切ってくれた。読み終えたときに「すごいねぇ。考えさせられるねぇ」といった唸りしか繰り返さないような、この記事を読んでくださっている方々に対して何一つ伝わらないみっともない物になっているのではないかという感想しか出てこないほどだ。
舞台の設定が中世のグレートブリテン島、中世の伝説をモチーフ?にしている。作品の登場人物たちは決して特別な人間ではなく、過去の記憶を忘却してしまってはいるがそれでも日々の生活には困ることのない普通の人々である。
歳を重ねたことですべてを忘れ去る前に離ればなれになった息子に会いに、また自分たちの過去のことを思い出すために旅に出る老夫妻が主人公である。旅が進行するにつれ、想起を阻む霧が間歇的に薄まったり晴れてくるにしたがって、普通の人々の辛い過去の記憶が明らかになる手法には舌を巻く。話の展開に水を差すように思えたガウェインやエドウィンの回想も物語のクライマックスにとても効果を発揮する伏線の張り方として正直うならされた。
作品の内容について、上記のことや人間の習性にするどく切り込む内容だったという以外、ネタ割れは避けるが、この作品も読んだ者しか分からないというインパクトを残す。映画でも小説でも、作品を鑑賞した人、作品を読了した人と話せる機会はあるというのはありがたいもので、幸いにも私の周囲に作品を先に読んでいた方がおられた。ネタ割れもなしに私が読了するまで話題に出さなかったその高潔な精神がなければ最後まで読むことはできなかった。改めて感謝の念を抱いた次第である。


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