デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



いよいよ、楽しみにしていた絵画鑑賞に。一日では到底見れるものではないが、なるべくたくさん見たし、見ておきたい分についてはなるべく画像に残した。もちろん、見逃した作品もたくさんある。

さて、ルイ14世と聞けば「朕は国家なり」という言葉を吐いた人物として聞いたことがあると思うが、ではルイ14世はどの年代の人かというと、1638年生まれで1715年没というから、近い人といえば、万有引力の発見で有名なアイザック・ニュートン(1643年~1727年)ということができるかもしれない。私の場合、歴史の本を読んでも、その認識って曖昧なもので、これを聞いたとき「えっ!そうなの?」と意外な気がした。(小説好きの人間として一言付しておくと、シェイクスピアや、『ドン・キホーテ』を書いたセルバンテスは1616年に亡くなっている。私は上のことを知るまでルイ14世はシェイクスピアよりも前の人だと思っていた…)
ところで、ルイ14世の祖母にマリー・ド・メディシス(1573年~1642年)という人がいる。上の年代でいえば、シェイクスピアが生まれて十年後ぐらいに生まれたのがマリーである。
ド・メディシスという名前から察せられるとおり、マリーはフィレンツェのメディチ家からフランスに嫁いで来た人である。彼女の生涯はルーベンスの手による連作絵画で表され、それがルーヴル美術館のメディシスの間に展示されているのだ。


メディシスの間



右の絵「肖像画の贈呈(アンリ四世が将来嫁となるマリーの肖像画を贈られている)」
(中央と左の絵についてはまた調べます…)

「マリー・ド・メディシスの生涯」は圧巻だった。この連作を仕上げるのにルーベンスは数年かけたそうだが、それにしても一人の生涯を24枚もの絵に仕立て上げるとは常人には理解しがたいものがある。それに絵に盛り込まれた神話が彼女の生涯を「脚色」しているのだが、短い年表でもいいので彼女の生涯のエピソードを知っておけばもっとよかった気がしている。


絵画を模写する生徒もいるのです。



外はいい天気だった。


楽しみにしていたレンブラントの作品が展示されている部屋にきた。


トビトの家を去る大天使ラファエル

レンブラントの絵はその精密さにも圧倒させられるのだが、なんといっても時にドラマチックな主題で感動させられることがあるので好きだ。これは旧約聖書の外典の「トビト記」に出てくる話で、信仰の篤いトビトという人が盲目になり大天使ラファエルの助けで再び目が見えるようになった話を描いてある。場面は大天使ラファエルがトビトとその息子トビアスに正体を告げて飛び立つところで、トビトは大天使にひれ伏している。大天使の威光を白で浮かび上がらせているところが素晴らしかった。


レンブラントの風景画だと思って撮っておいたが違うものだった…。



エマオの晩餐

これもレンブラントの作品。聖書にはキリストが亡くなって三日後に復活することを信じない弟子の前に、キリストが現れるという話がある。二人の弟子にパンを与え、弟子がキリストに気づいたときにはキリストの姿が見えなくなっている、その直前だろうと思うが、この絵のキリストは本当に周りの人と比べても明らかに何か異質なものがあって、まるで電球が消える前のようなそんな感じがした。

レンブラントの作品は他にも「息子テオの肖像」「自画像」「手紙を読むバテシバ」など名作があったが、職員さんの目が気になったので画像には残せなかった。


フランス・ハルス「ジプシー女」

上はフランス・ハルスの作品だったが、タイトル失念。すごく生き生きした絵で、とても印象に残っているのだが…。
(後日調べたら、「ジプシー女」という題で親しまれているとあった。でも描かれているのは娼婦だとか。なるほど流し目をよく見ると…)
--------------2007年1月15日0:34追記--------------

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ルーヴルは広いので、ツアー旅行でくるにはもったいない場所だと思う。
次にきたのは彫刻の間でたぶんギリシャかローマ美術の部屋だったように思う。


三美神(紀元前1~2世紀、大理石、105cm)

いいですねぇ。「典雅」「愛嬌」「歓喜」を表した三美神の姿。紀元前からこの形式が今に伝わっていると思うと、これは美を考えるうえで根底にある審美の感情の一つかもしれないと思ってしまう。三美神は後世に絵画でも描かれていて、特に有名なのはボッティチェリの「春~プリマヴェーラ」やルーベンスの「三美神」などがあるように思う。


眠るヘルマフロディテ

↑のヘルマフロディテというのは、オリンポス12神のヘルメスとアフロディテの間に生まれた美しい息子のこと。でも、ここでは彼は女性のごとく彫られている。ひょっとすると、ヘルマフロディテは後にサルマキスというニンフと交わり、体が統合しアンドロギュノス(両性具有)になることを暗示しているのかもしれない。
ところで、彼が伏しているベッドと枕は、「アポロンとダフネ」の彫刻でも有名なジャン・ロレンツォ・ベルニーニ(1598-1680)が制作したものだそうだ。つまり、この作品は紀元前2世紀後半のオリジナルによるローマ時代の模刻と、バロック時代の巨匠が制作した装飾との「合作」なのである。


解説のヘッドフォンを貸し出す職員さん。忙しそうにしていた。

美術館のパンフレットにはルーヴルが誇る歴史で必ず習うような有名な展示物が親切に強調されている。紀元前18世紀前半のバビロンのハンムラビ法典といえば「目には目を。歯には歯を」が有名だが、それが彫られているのが下の石碑だ。


地道に彫ったんだろうなぁ…

言葉は時代によって使い方も意味も変わってくるが、時に解釈も誤って伝わることがある。少なくとも私は、誰かの歯を折ってしまったからといって、被害者に対し自分の歯でもって償ったなんていう話を聞いたことが無い。償いの方法は意外に現在にも通じているものもある(懲役や罰金など)。
ひどいのはやっぱり「歯を折られたなら相手の歯を折って復讐してよい」と誤解しているパターンかも。いくらなんでも法典なのだから、復讐を奨励して煽ってどうするの?と今なら学校で習った解釈にチクリと言ってやりたい(笑

いろんな展示物を集中してみていると、ちょっと気分転換したくなる。窓の外を見てみるのもお薦めかもと思った。


ルーヴルは外観だけでも立派な美術品なのです


   ***

(上の女神たちの彫刻については分かり次第、後記します。)

----------2007年1月11日22時11分内容を追記・訂正----------

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9:30ごろにルーヴル美術館に着いたと思うが、入場は地下鉄の方の入口からで、有名なガラスのピラミッドの地上入口からではなかった。また入場券を買う前にさっさと絵葉書を買いに走り、見ると決めていた絵画の絵葉書を購入した。閉館間際ではおそらくタイムオーバーで購入できないことを見越してのことだった。
入場券を買うにも四苦八苦した。自動券売機の使い方がいまいちよく分からず、何度やり直してもチケットが出てこなかった。私の後ろでどんどん列が長くなっていたので、人のいるチケットカウンターで買った。断然そちらの方が早かった。(入場は2006年10月現在で8.5ユーロ。再入場可)


某映画でも有名な小さいピラミッド



今ではエスカレーターも

入場し、早速?地下に潜った。
ルーヴルの歴史は鎌倉幕府が誕生するころに遡ると言っていいかもしれない。その歴史が地下にあるのだ。
パリが町として現れたのが10世紀後半で、その頃にはまだルーヴルの面影も無かったそうだ。
時が経ち、パリが第三回十字軍に参加しようとしていたフランス王国のフィリップ2世の治世下(在位:1180~1223年)にあるとき、ルーヴル城は十字軍に参加している間にイギリスから攻められてはかなわんという目的から建設された。つまりはパリ防衛のための出城というのが当時のルーヴル城で、もちろんそんな頃に美術館の機能等は無かった。



シャルル5世(在位1364~80年)は、ルーヴル城を要塞としての機能のみではなく王の住まいとしての城館に作り変えた。↑はその模型。


昔のルーヴル城の堀。美術館の地下にあって、その規模には驚かされる。

地下を歩き回っているうちに、いつしかエジプト展示室にやってきた。


観光の目玉の一つであるスフィンクス像

フランスは過去の外国に対する功罪から、いろいろなものをルーヴルの所蔵品として展示している。北アフリカや西アジアからの発掘品も豊富なのだが、過去のフランスの異国趣味も手伝って、とりわけエジプト美術の充実ぶりは目を見張るものがある。上のスフィンクス像は1828年から展示されているそうだ。


船に何かを積むヒエログリフ?



古代エジプトの神が宿っているような…

エジプト美術は美術館の古代エジプト部門の責任者シャンポリオンが、19世紀前半にイギリス領事の大コレクションから購入し、今なお展示されているものも多数ある。

フランス革命から第三共和制までいろんなことでモメている割には、たとえ政変で作業の中断が幾度もあったにせよ、ルーヴルは増改築を繰り返し、今に至っているようだ。

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長いフライトの末、パリのシャルル・ド・ゴール第二空港に降りた立った。正直これから、どうなるのだろうという不安も隠せないゆえ、着いてほしくなかったと機内では思うのだった。
入国はパスポートと帰りのチケットさえ見せれば、すんなりと入国できた。右も左もわからず、荷物の受け取りも適当に空港内を歩いているうちに受け取れた…。
パリ市内へはRER(高速郊外鉄道)に乗って行った。出発前、駅の構内でとっし~と記念撮影をした時、カメラシャッターを押してくれた青年が笑顔とオーバーリアクションでカメラを盗るフリをして、おどけて見せた。笑い声とともにお礼を言いカメラを返してもらったが、青年は英語で「町では気をつけるように」と半ば真剣な口調で忠告してくれた。
私たちの後に韓国人らしき男女が乗ってきた。「これはパリ北駅に行くのかい?」と尋ねてきたので「そうだよ」と返事をすると彼らは安心した風に席に着いた。どこの国の人にしろ、初めての土地というのは、本当に不慣れで一つの目的地に行くにしろ誰かに尋ねざるを得ないのは同じなんだなと思った。
しばらくして列車が発車し、傷つけられた窓から外を見ながらただひたすら南へと走った。


ベトナムとは一変



車窓から



朝日がまぶしかった

パリ北駅に着き、お世話になったとっし~ともお別れの時が来てしまった。結果的に4日間も共に過ごしたことになる。パリまでに旅のことについて、あれこれ語ったなぁと思う。北駅で別れたときの印象は昨日のことのように思い出せる。本当に楽しい道中だった!

私は泊まる予定のユースホステルへと直行した。地下鉄を幾駅も通過して地上に出たとき、ようやくパリの冷えた空気を体感した。でも荷物を持ってゆっさゆっさと歩いていると寒いのだか暑いのだか分からなくなってしまう。
しばらく道に迷ったが、どうにかユースホステルに着いた。監視カメラの映像がモニタに映し出されていたことに慄いたが、その分安全なのかも?と自分を納得させて入った。支払いにはクレジットカードを勧められたが、私は現金で払った。海外ではなるべくクレジットカードは使いたくないと、用心深い思いからだった。フロントのおっちゃんは困惑と面倒くささを表に出しつつ、金庫から細かいつり銭を出してくれた。
手続きは済んだが、チェックインは14:00以降なので、荷物だけコインロッカーに預けなさいと言われた。ところがそのコインロッカーが、コインを入れて閉めた後に鍵が抜けないという最悪のものだった。ユースホステルに着いて早速こんなトラブルかよ、とロッカーをガンガン叩いたりしても何の意味も無かった。そしてまたしてもフロントのおっちゃんに「コインだけ食われた!」苦情を言いに行った。おっちゃん、ときどきコインを食われることがあるんだよといいながら、ロッカーをマスターキーで開け通常のキーを取り外し、それからどこかを叩いてコインを取り出し口に落とし、マスターキーでロッカーを閉めて、落ちた2ユーロ硬貨を受け取って通常のキーを私に渡した。「荷物を取り出すときに開かなかったら、どうするんだろう?」と不安を覚えつつ、私は外に出た。


ユースホステルの近く



光感度を上げて写

やっとパリを自由に歩けると思うと気分上々になるのだった。地下鉄の駅の傍にパン屋が開いていたので、朝食のためのパンを二つほど買った。そして(今から思うと行儀悪いと反省するのだが)地下鉄に乗る前に歩きながら食べつくした。疲れはあったがいざルーヴルへ!

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いつかの車窓から

いつか、初日の出を世界の車窓から眺めて年を越したいもの。

日ごろより、弊ブログをご愛顧いただきありがとうございます。
本年もよろしくお願いします。

オペラ座の灰燼

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