デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



シラー(シルレル)作『群盗』久保栄訳(岩波文庫)読了。

シラーはゲーテと同じくらいの時代のドイツ作家で、『群盗』は彼の処女作である。
『群盗』は戯曲なのだが、内容は悲劇であり、登場人物の若くみずみずしい感じはデュマ・フィスの『椿姫』の勢いのようなものが感じられた。また、『群盗』にはアウトサイダーならではの心情のなかに、若者の戯言として済ますことの出来ないものがあり、それは人がいくつになっても心を打つようなものであろう。それは思考を発展させれば、少なくとも私にとっては映画の『地獄の黙示録』に至らせるようなものがあるように思う。
ところで、『群盗』は青年期のドストエフスキーに影響を与えた作品でもある。劇中に、『地下室の手記』の独白者や『罪と罰』のラスコーリニコフとスヴィドリガイロフ、『白痴』のなかの死刑囚が刑場に赴く場面や『悪霊』のキリーロフとスタヴローギン、『カラマーゾフの兄弟』のドミートリーに重ねてしまいたくなるようなセリフを発するキャラもいるし、またそういうキャラは境遇からしていかにもという感じで分かりやすかった。
昔、ドストエフスキー作品に精通し、ドストエフスキーが影響を受けたバルザックやホフマンやシラーまできちんと読んでいる人の言っていたことが、今なら少しは分かるような気がする。

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カオサン通り。とても賑やかだ。



日本や欧米の都会で目に入るような
店の看板もたくさん見ることができる。



比較的レートのいい両替所レインボー。
窓口の人がいなかったので両替は諦めた。



安宿街というかバックパッカーのたむろしている
通りという雰囲気は微塵も感じられなかった…。



この店のピエロも「サワッディー・クラッ」


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数日前、銀閣寺の閉門後になんとか拝観できないかと周囲を回っていた外国人旅行者がいて、その彼が登山道の方に歩いていった。もう拝観を諦め引き返すのかなと思っていたら、私の後についてくる形で火床まで登ってきた。
彼はやっぱり遠くからでも銀閣寺の外観を見るつもりだったという。なので大文字山がどういった山なのか知らずに登ってきたわけだが、思わぬ形で京都市内を一望できたことに、ひょうたんから駒の心境だったようだ。
下手な英語で送り火のことを説明したら「先祖崇拝」のことも分かってくれた。彼は次の日も市内を巡るよ、あなたに付いてきてここまで来れた、ありがとう、と言い残し、道がまだ見えるうちに下山して行った。

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ピーター・ヘスラー『北京の胡同』栗原泉訳(白水社)読了。

シェイクスピア作品の前に読み終えていたのだが感想を書くのが後になってしまった。E・オズノスの『ネオ・チャイナ』以来の中国に関する本当におもしろいルポだった。
まず著者が自然体で臨む姿勢を貫いていて、中国において彼は中国人になろうとはせず、外国人であることを自覚しているところに好感が持てた。けっして周囲に媚びたりしないが中国で暮らす術を学ぶ姿勢は貪欲で、いろいろなことに戸惑いながらも外国人として長年にわたり鋭い観察眼を失わず生活してきた人ならではの言葉で書かれた本であることがわかる。
外国を訪れた人は、その国の国民的気質を、「○○人ってこうである」と安直に言い放ちがちだが、私もその例に漏れない。そんな私は周囲から後ろ指をさされていても甘んじて受け入れるところがあるが、著者のような人の言葉から発せられた中国人評ははるかに強い説得力をもっていると感じた。
どの記事もとてもたのしく読めるが、平和部隊に参加した人間が現地でいろいろなことを学んだのにそういった人材こそ政治に参加しなくなってしまう記述や、万里の長城に憑かれた研究者と長城の実像、「奇石」、「車の町」、「中国のバルビゾン派」の記事はとりわけ目を惹く。世の中、見た目と現実とその裏側は、何も知らない人の想像力の斜め上をいく様相を呈しているものだが、著者もその点を見逃すことは無い。読者としては驚かされることも多いが、もし旅行で中国を訪れるならぜひとも事前に知っておきたい中国の現実が本のなかに豊かに描かれていると思った。

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カオサン通りの前にプラ・メー・
トラニーに参詣しに行った。

プラ・メー・トラニーの周囲は夜になると屋台がたくさん出ていた。


たしかに昼間は何も無かったところだ。南国は
涼しくなる夜に屋台や市がでるところが多い。



プラ・メー・トラニー



若い人も熱心に拝んでいた。
像の前の水を汲んでいく人も。






ガイドブックによればプラ・メー・トラニーは
地母神像という。祀られているのは大地の女神
トラニーで、トラニーはタイでは瞑想中の釈尊を
襲おうとした悪鬼を洪水を起こして押し流し、
釈尊を救った女神なのだそうだ。洪水を起こした
水はトラニーが自分の髪から絞ったものだとか。






ここで食べていこうかなと思ったが
カオサン通りで食べることにした。



カオサン通りが近づいてきた


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ハムレット』の解釈は無数にあるし、多くの『ハムレット』愛好家から支持されている解釈も少なくない。また『ハムレット』を題材にしたり踏まえたりして作られた作品もある。そして、やっぱり世間には「意外!この切り口からハムレットを描くか!」と思うような作品もある。
『ハムレット』本編ではちょい役程度で出てくるローゼンクランツとギルデンスターンという二人の登場人物がいる。ハムレット王子の幼馴染で学友でありハムレット自身も「友」と声をかけるほどの間柄であるのだが、ハムレットの親友ホレーシオと、ローゼンクランツとギルデンスターン二人の運命はまったく異なったものになる。
そのローゼンクランツとギルデンスターンの二人の視点から「ハムレット」を描く作品があるというのは実に興味深いことだ。彼らは確かにハムレットに警戒されるが、二人にとって見れば王子の気がふれてしまった訳はわからないだろうし、クローディアスに従ったのも王様の命令であるからだし、イギリス行きの船に乗るのは役割をつとめようとしただけでのことであるし、彼らを襲う不意打ち(不条理・理不尽)は悪夢以外の何物でもない。
命の危機が迫っていると分かるのは読者だけで、彼らを待ち受ける運命に対峙する余地が彼らには一切無いというのは、恐ろしいことだしまさに急転直下である。私の主観ながらこういった立場におかれてしまう人物を描いた作品にカフカの『審判』や『城』があるように思う。ローゼンクランツとギルデンスターンはイギリスに上陸した途端、この世がカフカの描くような幻術的な世界に突如なっちまったと感じたかもしれない。

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