プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

池沢義行

2017-05-03 20:10:42 | 日記
1965年

東映の田沢八十彦球団代表は二十五日、午後三時から東京・京橋の球団事務所に池沢義行外野手、富永格郎投手、藤野隆司内野手を呼び来シーズンの契約について話し合ったが結論はでなかった。東映は今シーズンの終盤戦の最中、十月六日に橋詰文男投手ら六選手を整理しており、この三選手の成績もパッとしなかったので整理される可能性が強い。

田沢八十彦代表の話「きょうは給料日で選手がきたから話し合っただけ・・。契約に関する話ではない」

富永投手の話「五月に目黒のガード下で横断歩道を渡っていたとき、タクシーにはねられて今シーズンはダメだった。故障(右足打撲など)は全快したが・・・。もちろん、きょうの話は暗いことですヨ」
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石原碩夫

2017-05-03 19:42:40 | 日記
1962年

東映は意表をついて横手投げの石原を先発させた。今シーズン・三度目の登板である。南海はこの石原のシュートにひっかかり、一、二回は三人で片づいた。まずまずのスタートをきった石原だったが、三回にコントロールを乱した。一死後小池に死球、二盗されたあと皆川にも四球、広瀬遊ゴロで皆川が二封、二死となったが、堀込も歩かせて満塁。しかしビートの遊ゴロでどうにかこのピンチを切り抜けた。東映はスピードのない南海の先発皆川をよく攻めた。三回右前安打の稲垣を一塁において二死後張本が第一球を右翼スタンド中段に2ランホーマー、軽く2点をリード。五回には四球と稲垣、毒島の連安打で二人目の三浦をKO、救援した富島にも張本の中犠飛で2点を追加、4-0とリードした。あとは東映の一方的なペース。六回にも1四球、2安打で5点目をあげた。南海は六回二死二、三塁もリリーフの橋詰に押えられてわずかに3安打、1点もとれなかった。石原はプロ入り初勝利。
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石原碩夫

2017-05-03 19:33:09 | 日記
1962年

水原監督の石原起用が見事に成功した。六回橋詰と交代したあとベンチで試合をみていた石原はさすがにプロ入り初の1勝がうれしいのか、僚友の握手ぜめにただニコニコするばかり。「投げろといわれたのは、きょう球場へきてからです。いまうちの投手はみんな疲れているようです。そろそろ声がかかるんじゃないかと、気持ちの準備はできていたのであわてませんでした。野村と小池にぶつけたのはみんな直球のスッポぬけです。悪いことをしました。しかし、ボールはのびていたと思う。だから押えられたんですよ」石原は初勝利の感想をスラスラと語る。水原監督に石原を起用した理由を聞いた。「どのチームも投手は疲労しているんだ。うちも同じことで、すこしでもローテーションを楽にするために出したのだ。それに石原は、六月六日の南海戦でハドリにホームランされて急にくずれたが、それまではいいピッチングをしていたので、そこを買ったのだ。南海がアンダースローの投手に弱いことも計算ずみだよ。打つ方では張本の一発がきいたね」石原は好投、代打を出せばヒット、打つ手打つ手がみんな当ったあとだけに水原監督は上きげんだった。
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清俊彦

2017-05-03 17:42:22 | 日記
1965年

清が約半年ぶりでやっと両目をあけた。キャンプ、オープン戦ではすばらしい整調ぶりをみせ、開幕直後の対南海戦で今季初勝利をあげ、好調のスタートを切った清だったが、五月末、流行性肝炎(黄だん)というやっかいな病気にかかり、六月いっぱいまで闘病生活、七月なかばから一軍ベンチへ復帰したものの、病み上がりでスタミナがつづかず、おまけにあせりも手伝ってフォームをくずしてしまった。後半はもっぱら敗戦処理に当っていた。この日も阪急にリードを許してからの登板だったが、清は「勝敗は別にしてコントロールに気をつけ、内容のあるピッチングをしようと心がけていた」という。ストレート、カーブ、スライダーがともによくきまって三回以後2安打散発の無失点・・・結果は上々だった。「これでホッとしましたヨ。やはりボクの生命はコントロールです。ボクはそれほど馬力があるほうではないから、スピードで勝負するのはもうやめました」約半年ぶりに報道陣に取り囲まれ、清はニキビいっぱいの顔を真っ赤にした。「リキまず慎重にストレートとカーブでコーナーをねらった」ともう一度コントロールのよかったことを口にする清。「ようやく調子のよかった春先のいい感じを思い出しました。このピッチングを忘れず、来年はことしのぶんまで・・・」日頃おとなしい性格に似ず、めずらしく強気のことばをはいた。
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板東里視

2017-05-03 14:24:50 | 日記
1967年

板東はことしから救援専門になった。本人もこの新任務が気にいったようで、最近では「ワシは近鉄の八時半の男になるのだ」とはり切っている。この日も救援命令は受けていた。ブルペンに走ったのは四回表、味方の攻撃がはじまる前だ。その裏、小野坂が二死後、ウィンディに打たれたあと、四球を二つつづけ満塁となったことも知らずに、救援命令をうけた。それほどウォームアップに夢中になっていたのだ。救援投手の心構えのひとつに「戦況に背を向け、冷静な気持ちで準備ができること」というのがある。その意味では板東は悪くはなかった。マウンドまで約50メートルの間に作戦もねった。「打者は長池か。あの選手は長打力がある。低めをねらおう。しかも、はずれるボールだ。一回に右翼へヒットを打っとるから、さっと思い切り振ってくる」ところが長池は、西本監督の指示でマトを内角高めと決めていた。「2-3まではここへくるまでどんなことがあっても待とう」と思った。低めのスライダーが二つともボール。長池は「意識して低めをついてるな」とみた。しかし内角高めを待つという気持ちには変わりはなかった。スライダーが外角いっぱいにはいった。4球目へまたボール。板東はマウンド上でいっこうに振ってこない長池に「おかしい」と首をひねったが、それだけにとまどった。打者の出方によって作戦を変えていく柔軟性が急造の火消しには考えおよばなかったのだ。5球目は低めボールのシュート。あっさり見送られて四球。押し出しの1点が首位攻防の決勝点になった。負けたベンチで、板東は笑いながらいった。「ボクみたいな投手は、打者が振ってこないと、どうにもなりません」-すっかりあきらめた口ぶりだった。
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