プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

水谷茂雄

2017-05-13 23:26:22 | 日記
1985年

およそ野球界とは縁遠い職に就くものもいる。南海から中日に移籍し、昨季は1試合も登板することもなく去った水谷茂雄氏(投手)もそんな一人だろう。四日市にある魚の仕入れ問屋の魚丸市場で、魚と氷にまみれて働いているのだ。少年野球時代から世話になっている恩人の紹介で、「ヒジ痛が治らず、引退が決まる前から、やろうと決めていた」朝は早く午前3時前に出勤。トラックで運ばれてくるサワラなどの一般家庭向け小魚を水で洗って箱に詰める作業に従事するが、魚は氷詰めになっていて冬の寒さも手伝い、手には厳しくこたえる。「現役時代は手を大事にしていたけど、今はそんなこともなく、ときには手の感覚がなくなります」たまに、事務所で計算の仕事がある。「そんなこと今までやったことないでしょう。これが一番いやですね」と、別世界で生きる厳しさをしみじみと語る。しかし、この4月には高校時代からの女友達との結婚が決まっていて、「野球に未練はない。結婚もするし、頑張ってこの仕事を続けます」と同氏の前途は洋々としている。
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安藤治久

2017-05-13 21:45:11 | 日記
1964年

阪急は八月三十一日付けで安藤治、井置、大島の三選手を任意引退にしたが、さらに首脳会議で少なくとも二軍から十名内外の整理選手が出るものとみられている。トレードが活発に行われる模様なので、中堅投手陣の放出も考えられるし、内野手獲得のためには主力投手のトレードもありうる状態だ。安藤治久投手(沼津市高)。米田、石井茂、足立、梶本につぐ投手として、ここ二、三年大きな期待をかけられてきたが、とうとう報い少ない実績しかあげられず、今シーズン途中任意引退選手となった。球団としてもまだ働ける実力を認めながらも精神的なつまづきから見放してしまった。阪急を任意引退になってから中日のテストを受けていたが、まだ入団するかどうか決まっていない。阪急当時は「アンちゃん」の愛称で呼ばれていた。酒が好きな投手だった。
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坂上惇

2017-05-13 21:26:30 | 日記
1955年

毎日は七回無死代打奥が安打に出たあと西本、沼沢、ルイス、三宅と持ゴマを総動員して代打をくり出したが1点もとれなかった。そのほかの三度のチャンスも五、六番の打者が坂上の低目のカーブとスライダーに押えられシャット・アウトを食った。大映は三回植村が力を抜いて投げた高目の第一球を滝田が右翼越三塁打し投手の暴投で生還、八回には坂上の二塁打でダメ押し点を加えた。
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衆樹資宏

2017-05-13 19:57:19 | 日記
1967年

来年、球団としては契約する意志はない。四十二年十月末日、新山社長からこういわれたとき衆樹は、さも当然といわんばかりの顔つきだった。クビを申し渡されると、ほとんどの選手はメソメソするのにくらべ、衆樹のそれはカラッとした秋晴れ。「これで気がねなしに好きな釣りに行けるようになります」とむしろ嬉しそうでもあった。少し動くと、すぐ水がたまる左ヒザ。野球選手として練習にも十分耐えられぬほどそのヒザは悪化していた。ことし南海へ移籍したものの、オールスター後は一軍ベンチにすら入れずずっとファーム暮らし、右の代打として期待していた鶴岡監督も見捨てざる得なかった。シーズン中、巨人から柳田をもらい受けたのも、この衆樹の低調が原因だったからにほかならない。「だから球団から呼び出しを受けたとき、クビだと思ったですよ。外様選手だし、当然のことですよ」だが、衆樹の場合、実力不足には違いないが、ほかにも原因があった。阪急から南海へ移籍するとき、入団の橋渡しをしてくれたのが杉山打撃コーチ。ところが、その杉山は鶴岡監督とウマがあわず、ことしかぎりで解任された。その杉山がいなくなれば衆樹も当然解雇。いいかえれば杉山コーチの心中でもあった。選手契約はムリでも、衆樹には優れた野球理論があり、コーチとしての才能があるからだ。まして森下コーチの退団騒ぎがあっただけに、杉山派でなかったら、あるいは衆樹コーチが誕生していたかも知れない。それは別にしても、一年前にも人間関係のむずかしさ、運命のいたずらで衆樹は損な目にあっている。阪急で西本監督と鋭く対立。結局クビになって南海へ移ったわけだが、岡野社長は、西本監督が退陣すれば衆樹をコーチにすえるハラだったらしい。ところが、不信任投票事件後、退団を表明した同監督が翻意。結局衆樹コーチはタナ上げとなったばかりか、西本構想からはみ出してしまった。それから一年後、西本監督は優勝して男になり衆樹はプロ失格。人の運命なんてものは全くわからない。しかし、衆樹は、そんなことには、いっさい無頓着だという。「自分の主義主張は、どんな立ち場にたっても変わりませんし、また変えようとも思いませんよ」宝塚市の仁川台にある自宅にはいまはだれもいない。年末から年始にかけて一家は夫人の実家である神奈川県へ引きあげた。油壷で衆樹は連日、釣り糸をたれてのんびり構えている。メシよりも好きな釣り。「これで気がねなしに行けますよ」自由契約になったときの言葉はやはり負け惜しみではなかった。横浜には新居も買った。宝塚の自宅を千三百万円で売却している。それで引っ越さないのは相手の都合で時間待ちなのだという。何事も電光石火でやってのけるタチ。仕事も退団後すぐ決めた。第二の人生は、野球解説者からスタートだ。昨年、阪急を辞めたとき、慶応の先輩である岡野社長のコネで某放送の解説者として就職が決まっていた。そこへ一年越しの入社。来春の公式戦から電波でファンに接する。プロ入り後は十一年間、パッとせず同じ慶應ボーイの中田はこんど主将に昇格。プロ選手としての衆樹はパッとしなかったが、そのセンスは関係者の間で高く買われていた。そこで歯に衣着せぬ性格をひっさげて評論家の仲間入り。「ちょうど広岡と青田の長所をとった理想的な解説者になるだろう」と球団関係者はいう。いささかオーバーな見方であるにしても大洋の別当監督にいわせれば「モロの理論は大したものです。私が保証しますよ」ということになる。一説によると、別当監督は衆樹の大洋打撃コーチを考えたが、ただ複雑な大洋の内部事情が、これを拒んだらしい。美保ちゃん(8つ)まり子ちゃん(6つ)と礼子夫人(32)それに実母欣子さんの五人暮らし。そこで新たに横浜で喫茶店を開く。名前はMORO(モロ)「駅構内の百貨店の中なんです。開店は来春、三月ごろになると思います。百貨店のなかですから人は集まるでしょう。殿様商売ですが、いつものクセでのんびりかまえているんです」油壷で釣り糸を垂れながら衆樹は他人ごとのような表情だ。「来年から昼間は喫茶店で、夜はネット裏。いまより数倍忙しくなりそうです。そのためにもいまは十分休養して、と思っているんです。釣りもあまりできなくなるでしょうからね」釣りと第二の人生とどちらが大事か、豪快な衆樹なら釣りをとるかもしれない。「喫茶店の店主としてみたときのプロ野球ですか?さぁむずかしいですね。第一、ボクは、どこを応援すればいいんですかね。十一年間、東京、阪急、南海と動きましたからね。どこをヒイキにすればいいですか?」栄光の座からひきずりおろされてもなんのくったくもない面持ち。できることならだれしもこうありたいものである。
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滝村修平

2017-05-13 10:06:01 | 日記
1962年

滝村は、外角低目のストレートをきめ球に、シュート、カーブをうまく生かして三回まで近鉄打線をピタリと押えた。四回トップの高井に2-3からさんざんねばられたすえ、ついに四球。だが近鉄は滝村にその後も安打が出ない。回を重ねるごとに凡打をくり返す近鉄打線は、七回には三者三振にとられあせりが目だった。九回、西条が一飛をあげ、蔦の代打に児玉(弘)を送ったが、これも遊ゴロ。二死後高井を迎えた滝村は、シュートで三振にとった。広島打線も16安打で滝村を援護した。

滝村修平 広島国泰寺高出、1㍍77、70㌔、右投右打、三十四年入団したがウエスタン・リーグでは三十六年18試合3勝4敗の成績を残しただけで、一軍の試合に登板したことはない。下手のクセ球に威力があるがスピード不足で毎シーズン期待されながらのび悩んでいた。二十一歳。

滝村投手「球にのびがあったし、うまく散った。ノーヒット・ノーランは全然考えていなかった。そうさわぐことはありません」
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