プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

伊東勇

2018-04-15 22:20:01 | 日記
1969年

最後の打者山崎を三振にしとめた与田がマウンドをおり、駆けよって頭を下げる伊東。その細い目、白い歯がプロ入り最高のうれしさをあらわしていた。このあと、ラジオマイクでインタビュー。184㌢、73㌔のモヤシのような体が、緊張感でふるえていた。マウンド上では終始冷静に投げ続けた伊東が「初めてあがりました」場面でもあった。しかしロッカールームでピッチングを説明している伊東は、ぜんぜん興奮の色を見せなかった。「ロッテの主軸は左打者だから、そうこわくなかった。山崎、前田を警戒、タイミングをはずすカーブのコントロールがよかった」先発は前夜(十五日)の試合後に言われたが「後藤さんも勝った。ぼくもがん張らなければ」と思ったそうだ。ただ寝床にはいってからいろいろピッチングを考え続け、眠ったのは午前二時。そしてけさは八時に目がさめた。プロ入りして初めてめぐってきた先発のチャンスに、やはり興奮していたのだろう。「しかし新幹線で眠ってきました」というあたりは現代っ子だ。「この前、東京球場で救援し、引き分けたとき、初めて自信らしいものがついたが、そのあと打たれ続け、また自信が消えてしまった」という。重松コーチがこの点を解説した。「伊東のよさはリズムで投げる点だ。だから最近はリズム感を取りもどすように、重点的にやらせた。きのうのピッチングを見て、いけると思い、この夜先発に使ったのだ」伊東のよさはブルペンの調子をそのままマウンドで発揮できるという点だ。中西監督も「うちの投手はどれもロッテ相手になると打たれてしまう。その点、こいつはあまりぶつかっていないからね。思ったとおり冷静に投げた」と伊東をほめた。四十二年福岡第一高から「テスト生と同じ条件」で入団。昨年は六月に心臓を、そのあと腹膜炎をわずらって、ほとんど棒にふった。「ことしだめだったらもうやめよう」とまで思いつめての精進だったが、キャンプでの努力がやっとここへきて花を咲かせたようだ。

伊東の1勝は、どん底の西鉄が単に1勝したという以上に価値がある。それでなくても手薄な投手陣から、池永、稲尾を書いては無防御で打ち合うしかないのだが、その攻撃もそれほど破壊力はない。こんな時期に新人の投手が貴重な勝ち星をあげたということはほんとうに大きい。伊東が成功した第一の原因は、ロッテにとって予想外の先発であり、しかもほとんど知られていなかったこと。その上に一回かんたんに1点とってのんびりしたところを、広野の本塁打が強烈なパンチとなって、ロッテ打線をすっかりまごつかせたことである。伊東はスイフト、シュート、カーブと、それにもう一つ種類のわからない変化球を持っているが、それらの一つ一つのスピードが違っている。意識的に変化させたとすればたいしたものである。ペースを狂わせたロッテはメチャメチャに振り回して伊東を助けた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北川公一

2018-04-15 19:59:50 | 日記
1966年

「ぼく、初めてなんです」恥ずかしそうに小さな声でいった。ベンチの上から多勢のファンが「北川、顔を見せろ」と声をかけるが、その声がふえるにつれてシリ込みする。永江代表に背中を押されるようにして前に出た。「大学時代も打っていない。ウエスタンで一本打ったきりのホームランです」いつまでたっても遠慮気味につぶやくようにいうのに、興奮気味の永江代表が黙っていられないという感じでいった。「なあ、東京六大学のヒーローだもんな」まるで北川のマネージャーみたいに付き添って北川のかわりに大声を出す。永江代表の言葉によけいに赤くなってテレた。無理はない。北川公一といえば昨年まで七、八回ごろ守備固めに出る選手でしかなかった。ボレスの加入でますますレギュラーのカベは厚くなったが、山本八の左足故障で出場のチャンスがふえてきた。「こういうときがチャンスなんだからがんばらなくては・・・といつも思っていた」そうだ。相手の若生は「ぼくが一番好きな下から投げる投手」二日前も皆川(南海)に右翼金網に直接当たる二塁打している。「内角にくるのを待っていた。外角ばかりついてきたが、内角にきたら思い切り振ってやろうとヤマを張っていた」一見、強気に聞こえる言葉もすぐ遠慮気味になってしまう。「打ったとき、まさかはいるとは思わなかったが、一塁を回ったらみんながワーワーいうのであらためて見直したんです」おまけにカウントまで間違えていた。外角きわどく二つのストライクを見のがしたあと、大きく外角をはずれるボールを見送っているのに「カウントは2-0でしょう」と首をかしげる。キャンプからずっと根本コーチに「右足が開きすぎ自然に肩が開く。もっとためて打て」と欠点を指摘されてきた。前日、大阪球場で試合前の打撃練習中、根本コーチが北川のバッティングを見ながら「うん、よくなった。このフォームでいけばいいんだが・・」とつぶやいていたことを北川は知らない。もう暗くなったグラウンドで佐々木に「ありがとう」とお礼をいわれてまだテレている。「いまがチャンス」だと必死にバットを振り「大好きな下手投げ投手の内角球」を最後まで待って今季初のサヨナラ決勝ホーマーしたヒーローにしてはなんとも純情なプロ入り三年生だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妻島芳郎

2018-04-15 19:23:08 | 日記
1966年

六回のマウンドへ歩きながら、頭の中にフッと思い出したくない意識がわきあがった。こういったことはこの日に限ったことではなく、先発して六回以上投げたときはほとんど起こっている。しかし、いまだに対策がたっていたないことなのである。いまから五年前のノンプロ日本通運に勤務しているころだった。ある日、藤田監督からささやかれた。「なあツマ、お前は初回と六回にくずれるクセがある。その二回をとくに注意したらピッチングがグッと締まってくるんだが・・・」それまで気がつかなかったが、妻島は自分の記録を調べて六回と初回にとくに打ち込まれていることを発見してドキッとした。ことしは東京の五年生。しかしまだ初回と六回のプレートを踏もうとするとき、藤田監督の言葉が聞こえてくるそうだ。「意識しまいと思えば思うほど、意識してしまう」五回まで金光のヒット一本に押えてきた。ところが、六回はボールが浮いて近藤和に右翼線へ痛打され、アスプロにもゴロで中前へ打たれて一、二塁。それまでの安定したピッチングからは考えられないように打たれた。つぎの金光にも右前へ合わされた。しかし、池辺の強肩に救われた。妻島はいう。「スタミナ不足も六回に打たれる原因の一つかもしれない。だが、それにしても六回は打たれるような気がしてならないという先入観をなんとかなくせないものだろうか」腕を組んで考え込んだ。五回までは強打者ぞろいの大洋打線を完ぺきに近い投球で押えた。ストレートを中心に、カーブ、シュートが外角いっぱいにベース上を通過した。六日の近鉄戦(藤井寺)でも先発し、五回までを無失点に押えながら、六回に3点とられた。魔の初回と六回これをどのように切り抜けるかが、いまの妻島の大きな課題だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

釘谷肇

2018-04-15 18:32:38 | 日記
1973年

ヤクルトがドラフト第二位で指名した八代東、釘谷肇外野手(19)=1㍍86、82㌔、右投右打=の入団が二十七日決定的になった。ヤクルトの内田スカウトは同日午前十時、熊本県八代市井上町354の自宅に同選手を訪ね、母親悦子さん(45)、八代東、堀部野球部監督をまじえて二度目の入団交渉を行い、契約金七百万円(推定)で内諾を得た。二十八日、後見人の叔父、釘谷義之さんの立ち会いのうえで正式入団を決める。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山下浩二

2018-04-15 18:28:51 | 日記
1973年

山本スカウトは午後五時、第二位に指名した熊本二高・山下投手の実家(熊本市九品寺)をたずね、二度目の入団交渉を行なった。この日は「本人の大学進学の意思を確めたい」(山本スカウト)ということだったが、山下投手が不在のため、話し合いは後日に持ち越された。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小鷹卓也

2018-04-15 18:21:34 | 日記
1973年

土井垣スカウトは二十六日夜、ドラフト二位で指名した飯能高の小鷹卓也投手の自宅(埼玉県比企郡鳩山村大字熊井)をたずね、父親・富雄さん(50)=農業=と入団交渉を行なった。指名と同時に電話で交渉あいさつをすませ、学校側との話し合いも終わっているところから、この日は入団条件、契約金七百万円を提示した。家族、学校ともにプロ入りに賛成しているので、次回交渉が行なわれる十二月七日ごろには入団決定の運びとなる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹口幸紀

2018-04-15 18:11:39 | 日記
1973年

日本ハムがドラフト五位に指名した北海高、竹口幸紀投手(18)=1㍍83、76㌔、右投右打=の入団が十六日決まった。瓜生スカウトが同日午後、北海度・支別町の自宅に父親・元さん、母親きぬえさんをたずね、本人をまじえて入団を要請。竹口側が契約金五百万円、年棒百五万円(いずれも推定)の条件を了承して内諾を得た。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

佐藤博正

2018-04-15 18:00:59 | 日記
1973年

横手投げでコーナーをゆさぶる技巧派。ことしの夏の北海道予選では62イニング投げ93三振を奪い、夏の甲子園大会でも好投。一回戦の京都商戦で小竹と投げ合い延長十一回惜しくも負けたが、変化球のキレ、マウンド度胸は天下一品。

佐藤博正投手「野球を続けるためプロに行きたいと思っていた。第一位に指名してくれたのはうれしい。しかし両親と相談のうえで決めたい」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鵜飼克雄

2018-04-15 17:50:02 | 日記
1973年

城西中ー徳島商ー同大から四十五年四月に四国電力に入社。徳島商時代は一塁手として活躍、三年の春、夏の甲子園大会に出場したが、同大に進学してからは投手に転向。ストレートに威力がある本格派投手で四国電力に入社後四年目のことしはノーワインドアップ投法に切り替えて成功。フォークボールをマスターしてエースの座にのし上がり都市対抗、産業対抗大会でも好投している。

鵜飼克雄投手 「まさか一位で指名されるとは思わなかった。野球選手なら一度はプロでやりたいと思っていたが、正直いってあまり自信はない。年もとっているし、十月に子供が生まれたばかりで、どうするか家と会社に相談して決めたい。日本ハムについてはとくに知識はない。可能性は五分五分だ。」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬戸和則

2018-04-15 17:38:14 | 日記
1974年

「ライバルは池谷」と闘志を燃やす本格派投手。

ドラフト会議で3位に指名され、その五日後には入団を決めた。それだけプロへのあこがれは強かったという。申し分のない体からくり出される速球を武器とする本格派。同じノンプロ出身者としてノンプロ界エースだった池谷にライバルとしてはげしい闘志を燃やしている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

入江道生

2018-04-15 17:30:16 | 日記
1973年

広島がドラフト六位で指名したノンプロ九州生交の入江道生内野手(22)=1㍍78、72㌔、右投右打、博多工業出=の入団が五日決まった。同日午前中、野崎スカウトが熊本市内のプラザホテルで同選手と会い、最終的な条件を提示して了承を得た。

古葉をめざす九州男児

野球をするために生まれてきたような筋肉質。福岡出身の剛者。練習の大切さをよく知っているし、実際に常に若い人の先頭に立っている。古葉コーチの現役時代に似たタイプとして首脳陣の期待も大きい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中山孝一

2018-04-15 14:16:30 | 日記
1974年

南海の中山孝一投手(26)が十日、佐々木美穂さん(24)=章氏(55)長女=と福井県阪井郡三国町の専久寺で挙式する。招待された新山コーチは仏式の結婚式と聞いて「神社や教会のは列席したことがあるが仏式は初めて」と興味津々。ことしは10勝を期待されているだけに「中山もお嫁さんがいるのでうかうかできん。ことしこそ一本立ちしてほしい」と早くもはっぱをかけていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

外山博

2018-04-15 10:10:47 | 日記
1970年

外山博投手(22)は二十日、退団を申し入れた。理由は父親の家業を継ぐためで、球団はこれを了承し同選手を任意引退選手とした。また大西譲治投手(21)も退団を申し入れたが保留となった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

プロ野球引退後職業

2018-04-15 08:59:03 | 日記
1968年

ノンプロとの交流がとだえている現在、ユニホームを脱いでサラリーマンに転向する選手は、野球選手としての特権はない。それでも就職難の中で、比較的ラクに転向できるのは、生存競争の激しい社会でもまれた強い精神力を評価されるだろうか。大洋が一昨年、ドラフト第一位に指名した岡投手。貴重な左腕投手として期待されながら二年間のプロ生活で、一度として桧舞台を踏まなかった。それでもかれは「自分がいまのように、こんなポストにつけたのも野球で養った強い精神力と、体力を認められたおかげだ」という。同氏は現在、弱冠二十歳で郷里福島の山田デパート営業第二部スポーツ用品担当主任として、売り場をきりまわしている。いきなり出世コースに乗った、こんな例は少ないが、それぞれ責任を持った仕事にたずさわっている。サンケイの渡辺一氏は第一広告会社の第一線セールスマン。これまであまり着用したことのないスーツにネクタイをきちんと着こなし、いそがしそうに飛びまわっている。阪急の佐々木幸氏は、いすゞ自動車の整備工場でソロバン。帳簿とにらめっこの生活・・・。なれぬ仕事に驚きながらも、かれらはかれらなりに誠意をこめた仕事をつづけ、上役から野球生活時代に味わうことのなかった将来性の目を向けられている。緑安全靴株式会社の係長におさまった大洋の森田コーチがいった。「野球とは違った仕事の楽しみがあります。まだお世話になって間もないので精神的に疲れますが・・・。時間的なユルミもなくなり、いまはからだにハリが出てきたようで、とにかく夢が出てきた。人間的な関係も野球界のように複雑なところがなく、一生懸命やっただけのことはちゃんとみてくれる人がいますから・・・」野球界の複雑な人事関係を、チクリと批判しながら、サラリーマンに転向した選手たちは、大きな目でみつめてくれる新しい社会で胸を張っている。同じサラリーマンでも、南海の鶴岡前監督の場合はその意味が違う。鶴岡さんは、来シーズン評論家として再スタートを切る。鋭い目で、各チームの試合ぶりを解説する鶴岡さんに、ファンは「楽しみが、またひとつふえた」と喜んでいるが、ふたたびユニホームを着るだろうから、一時的なサラリーマンとなる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

相沢勝

2018-04-15 08:26:57 | 日記
1971年

トレード会議で近鉄に指名された相沢が午後、球団事務所をたずね、引退を申し入れ認められた。別府市で旅館業に専念するため。手続き上では近鉄の任意引退選手になる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする