プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

奥田敏輝

2018-04-28 10:35:36 | 日記
1966年

大阪・桜塚高の奥田敏輝投手(18)の獲得に当たっている阪神は、十四日午後六時四十分すぎ、河西スカウトが豊中市宮山町二の三の同投手宅を訪れ、奥田投手と両親の元一郎氏(49)正枝さん(39)と三度目の対面交渉をした結果、同投手をはじめ両親もこれまでの明大進学希望からプロ入りに大きく傾き、阪神入団は決定的となった。奥田投手は東京、関西六大学のほとんどから勧誘を受けているが、明大進学を希望していた。しかし十四日よる、両親の兄弟など親族が同投手宅に集まり親族会議をひらいて話し合ったところ、ほとんどがプロ入りに賛成、本人も阪神でプレーしたい気持ちがあることをほのめかしたため、河西スカウトが訪問した。この日、奥田投手はプロ入りの意思表示はしなかったが、十七日ごろ再度親族と相談して態度をきめることになっており、周囲の情勢から同投手は進学を断念、近日中に阪神入りの意思表示をするものとみられている。
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簾内政雄

2018-04-28 09:23:39 | 日記
1967年

簾内はこの日も午後三時三十分まで、練習に汗を流した。日立市白銀町のグラウンドは、ちょっとぬかっていた。白いバックシューズをはいた簾内は走っても、とんでもこころなしか遠慮しているように見えた。話し合いが心のどこかにひっかかっていたのだろうか。だが、さすがに体力は抜群。右翼のボール下から外野のへいぞいに走る足どりは、ナインの中では一番がっしりしている。心もち、重心を低くしたランニングスタイルは迫力がある。筋肉がよく発達した両肩、まるでラグビーの選手のようだ。軽いキャッチボールもした。モーションを起こしてから軸足に反動をつけて投げ込む。バネの強さをはっきりと見せつけるフォームだ。簾内の球速の秘密がここにある。快足ぶりはチーム随一。百㍍の最高タイムは11秒9。コンスタントに12秒3はだすという。そればかりか、長距離を走らせたら、もっとすごい。この春の選抜東京大会で全試合を一人で投げきったスタミナがこれだ。この日の練習で、15㍍ほどの距離を片足でとんでいく種目をやっていた。三十人近くの野球部員のうちで、簾内の跳躍力は群を抜いていた。沢本監督もこの点を大きくかっている。「あの有数のバネを、ピッチングにどう生かしていくかがカギ」という。野球部の合宿のある日立市白銀町は、町の中心からちょっとはずれたところ。それでも簾内はヒマをみつけては西部劇の映画をみにいく。愛読書は宮本武蔵。いま武蔵が自ら勝負の道を説いた「五輪書」を本格的に読破しようと計画している。「プロ野球という勝負の世界はなみたいていのことではダメだと思います」サンケイ入りを表明したあと、簾内は小山スカウトと食事をした。注文したのはステーキ。とたんに沢本監督が笑った。「簾内君はもったいないな。こいつは牛肉も豚肉も区別がつかんのだから・・・」日鉱日立にきて四年。簾内はまだ秋田生まれの純朴さを失わぬ好青年である。

巨人・菅原投手の話「そうですか、よかったですね。簾内君のことは気になっていたんです。会って握手をしたいくらいです。彼とは高校時代(秋田・鷹巣農林)からのライバルでした。学校は違いましたが、一年生のときから県では注目されていましたね。一番印象に残っているのは、三年のときの甲子園大会県予選でした。彼のところとは準決勝でぶつかったのですが、3-2でボクのところが逆転負けをしてしまった。くやしかったですね。いつも彼のところとは1点差のせり合いを演じたので、彼のことは一番よく知っています。彼はタマも速いし、ドロップもいいものを持っていましたね。簾内君にお互いにがんばろうといってください」

サンケイ・小山恒希知スカウトの話 「やっと入団の承諾をもらった。サンケイの投手陣には本格派の速球投手が少ないから、からなず活躍してくれると思う。簾内投手の速球はやたらには打てぬほど威力があるとわたしは思う」

日鉱日立・渡辺光明コーチの話 「タマの速さは社会人でも右へでるものがいないだろう。とくにボールの切れがいい。調子のいいときの球威はナンバー・ワンだ。一本調子になる欠点はあるが、プロでもじゅうぶん通用するだろう」
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簾内政雄

2018-04-28 08:34:06 | 日記
1967年

サンケイアトムズが、新人選択会議で交渉権を獲得したノンプロ日本鉱業日立の簾内政雄(すのうち・まさお)投手(22)=1㍍77、74㌔、右投げ右打ち=は二十九日アトムズ入りの意思を表明した。正式契約は十二月十日ごろ、簾内投手が上京し、有楽町の球団事務所で行なわれる。サンケイが交渉権を持つ新人で、入団の意思表示をしたのは、九州工の奥宮種夫捕手についで二人目。

サンケイの小山恒希知スカウトは、同日午後四時三十分、茨城県日立市宮田町の日本鉱業日立鉱業所大雄院営業所を訪れ、簾内投手と約一時間話し合った。この結果アトムズ入り表明となった。この席には竹本高二野球部長、沢本長一監督も立ち会った。簾内投手は三十九年、秋田県・能代高から日鉱日立入り。今春の選抜東京大会では4試合全部に完投勝利をおさめ、優勝投手になるなど、上手からの重い速球が低めにコントロールされた本格派投手。サンケイは十一月九日に行なわれたドラフト会議で簾内投手を二番目に指名して交渉権をとるほどその力量を高く評価。担当の小山スカウトが四度にわたって直接交渉し、獲得に成功した。簾内は、はじめからプロ入りの意思を抱いていた。十一月九日よる、ドラフト会議でサンケイが交渉権を得たことを知って、さっそく「プロ野球でやってみたい」と語っていたほどだ。小山スカウトが日立市に簾内を訪れて初交渉したのが十四日。それから十五日間でアトムズ入りとなった。簾内の気持ちが固まったのは二十五、六日の両日。秋田県山本郡二ツ井町天神の実家で行なわれた三度目の交渉だった。空路秋田入りした小山スカウトが、簾内投手、父親・喜三郎さん(50)、母親ヨシさん(48)をまじえて二日間にわたって話し合った。このとき、スカウト仲間では無口で通っている小山スカウトのねばりに簾内投手、家族らが根負けしたような感じだった。したがって、この日、日鉱日立での話し合いはむしろあっさりと終わった。竹本野球部長、沢本監督ら会社側の了解をとりつけることに重点がおかれた。小山スカウトとの話し合いを終えた簾内投手は「一度はやってみたいと思っていたプロ野球です。まだ実感がわきませんがプロ入りの決心をしたうえは、だれにも負けないようにがんばります」と闘志いっぱいの表情。なお簾内投手は正式契約がすみ次第、東京・杉並の佼成学園のグラウンドで自主トレーニングをはじめることにしている。

簾内投手の略歴

秋田県能代高三年の三十八年に、夏の全国高校大会へ出場、エースとしてマウンドにあがったが、一回戦で岡山東商に敗れた。翌三十九年、日鉱日立に入社、持ち前の真っ向から投げおろす快速球で、すぐ第一線に起用された。その素質は早くからプロのスカウトの目にとまり、四十年秋には東京がドラフト会議にリストアップ、交渉権をとったが、プロ入りはしなかった。中央球界にクローズアップされたのはことしの春の選抜東京大会。このとき四試合全部を一人で投げまくり、日鉱日立の優勝に大きく貢献した。生まれは満州だが、すぐ日本に引き揚げ、秋田県山本郡二ツ井町天神で育った。昭和二十年五月十二日生まれの二十二歳。
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植村秀明

2018-04-28 07:05:36 | 日記
1967年

郡山高・植村秀明投手(18)=の広島カープ入りが決まった。同投手はさきのドラフト会議で、広島から第二位に指名を受け、三度にわたる交渉の結果、条件面の話しあいがついて入団へ踏みきったもの。入団発表は来月四日、広島で行なわれる予定。植村投手は右投げ右打ち。1㍍86、82㌔の巨漢、真っ向から投げおろす速球は重くて角度がある。昨夏は郡山高33年ぶりの甲子園を実現させたし早くからプロ向きの本格派と注目を集めていた。県選手の広島入りははじめて。郡山高校では溝部(旧姓中田)片岡、杣田、速水、松本、山田に次いで七人目。
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