プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

中村公夫・池田公成

2018-04-29 07:04:18 | 日記
1972年

西鉄ライオンズは十四日午後、テスト合格の中村公夫投手(23)=右投右打、176㌢、74㌔、浪速高ー大経大=と池田公成内野手(19)=右投右打、172㌢、64㌔、西日本短大付属高ー新日鉄八幡=の入団を発表した。両選手は七十人の応募者があった新人テストにパスした逸材。中村が「得意な球はスライダー、大学時代は15勝をマークした。大好きなライオンズの一員になれて幸福です」といえば、池田は「守備には絶対の自信がある。社会人の一年間は軟式しかやってないけど、高校時代は硬式だった。二番打者、ショートで百㍍12秒2で走る。がんばります」と語った。
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山口富夫

2018-04-29 06:05:38 | 日記
1972年

太平洋クに二位指名された三協精機・山口富夫投手(23)は、長野県諏訪郡下諏訪町の同本社で、磁性事業部製造課製造技術係に勤務している。ドラフト指名の知らせを受けるとまず「何位ですか?」と問い返した。これまで横浜高ー神奈川大を通じてプロから指名されたこともなく、ことしも打診はなかったが、本人は「チャンスがあればプロで投げてみたい」という気持ちが強かった。それだけに、うれしさとともに、太平洋クが自分に対してどのていどの期待度を寄せているのかを知りたかったのだろう。「別に九州のチームだからという抵抗はない。プロで自分の力をためしてみたかった。会社や監督と相談して決めたい」本人ははっきりプロ入りの意思ありを表明した。しかし、同チームの光沢監督は「素質はあるが、まだ実績がない。いますぐプロ入りして果して本人のためになるかどうか。最後は本人の気持ちしだいだが、そのあたりをよく本人と話し合ってみる」と、やや反対の口ぶり。ことしの産別大会後エース玉井を巨人に取られたばかりの三協精機としては、これから期待している投手に抜かれるのが痛いということだろう。山口は恵まれた体格を生かした本格派。その速球は即戦力として大きな期待が寄せられている。
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中村正義

2018-04-29 05:46:56 | 日記
1973年

中村はノンプロ東芝で八年間もマスクをかぶっていた。二十六歳の異色選手。しかも、ドラフトの指名外でプロ入り。何を好んでいまさらという気もしないではない。だが、ぶしつけな質問にも、中村は顔色を変えるどころか、ジッと視線を定めて語り出す。プロへ踏み切った理由は「高校卒と大学卒の将来性に悲哀を感じた」からだそうである。「社会人として八年も勤務すれば、自分の将来がどうなるかくらいはわかる。大社会ほど高校卒はみじめ」-。五年前、同じ東芝から近鉄入りした永淵も、中村と同じようなことをもらしていたものだ。島原キャンプでの中村は、こうした過去を持つだけに、なにかにつけて姿勢が違う。捕球、打撃の一つに熱がこもっている。「だって、ボクにはもう待ったは許されない。ことし一年が、イチかバチかの勝負なんですから」だが、そのプレーには何となく余裕を感じさせるものがある。「見た感じは線が細い。でも、あれで試合になると別人のような活躍をするそうなんだ」と稲尾監督はいう。いわゆる実戦タイプの選手で、そこに期待もあるわけだ。中村はキャンプの初日から主力選手組で打撃練習を続けている。打球はそれほど遠くへは飛ばない。パワー不足の印象だが「そうではない。試合ではいいところで長打の出る好打者」と浦田スカウトは反論する。早鞆高時代は甲子園大会にも出場したし、昨年は社会人野球のベストナインにも選ばれた。内向型の性格、無口なことからもうかがえるが、それだけに「秘めた闘志は人一倍」と自己診断した。ライバル片岡との果し合いの日は近い。
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中野孝征

2018-04-29 05:34:54 | 日記
1967年

「サンケイがボクをまっさきに指名してくれたって?本当ですか・・・」真っ黒に日焼けした童顔を一瞬緊張させた中野は、次の瞬間、目をパチクリさせた。サンケイから第一回目に指名されたことを知ったのは午後七時少し前、浜松市池川にある日本楽器野球部合宿所で夕食をとっている最中だった。「ことしあたりドラフト会議でボクの名前が出るとは思っていましたけど、最初にあげられるとは・・・、その点がわかんないな」自問自答をくり返しながら考えぶかげ。森口哲夫監督に「いいじゃないか、光栄なことだ。喜べよ」といわれて、やっと白い歯をみせた。作新学院三年の三十七年に八木沢(現東京)、高山(現サンケイ)加藤(元中日・故人)を率い、主将として春、夏の甲子園大会に出場、史上初の連続優勝をやってのけた勝負運の強さ。作新学院卒業と同時に岩崎電気(四十年に野球部解散)、四十年から日本楽器のユニホームを着て、ことしの春の選抜東京大会で5割3分7厘を打って首位打者、夏の都市対抗では久慈賞に輝いた打撃の実績。さらに社会人野球界で抜群といわれる守備力などあげればきりがない。森口監督もその技量については絶賛する。「ことしの都市対抗で、雨や引き分けで3連戦やった日立製作所との試合で、かれは左右に2ホーマーを記録している。からだのわりに腕っぷしが強いから、バッティングが実にシャープだ。性格は内向的だが、勝負根性はみあげたものをもっている。俊足で守備も的確だ。昨年は中央大会に出るとき、ウチに武上(当時河合楽器、現サンケイ)を補強したが、二人で万全と思われる二遊間コンビを組んでいた」作新の四天王といわれながら、プロ野球から注目されなかった原因は小柄なからだにあった。森口監督は「体力さえつけば、オニに金棒だ。技術的にはプロでじゅうぶんやっていける」とタイコ判を押し、プロ入りについては、「ウチとしては痛いが、あくまでも本人の希望しだい」と強調する。中野の実家は栃木県宇都宮市にあり、母親フミさん(52)と観光バスの運転手をしている兄雅美さん(50)のほか兄一人、弟一人の四人兄弟。父親は中野がもの心がつきだした三歳のときになくなっている。「オフクロをはやく楽にさせてやりたいのが、夢なんです。ノンプロにはいって五年目、プロにいくとしたら、いまがちょうどいい時機ですネ。高山や八木沢ともう一度野球をするのもいいし、別所監督のようなこわい監督のもとでプレーをやるのも貴重な経験だと思います。これからスカウトの人がみえたら話をよく聞いて結論をだすつもりです」森口監督と同僚に囲まれながら中野は人生の転機に立った心中をたんたんと説明した。
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