プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

福島明弘

2019-03-18 22:15:13 | 日記
1985年

福島投手は、右投げ右打ちでストレート、カーブ、スライダーを持つ、142㌔の速球派。浦和大谷場中時代は全国大会出場の経験を持つ。身長182㌢、80㌔。川口市で両親と三人暮らし。
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竹中惇

2019-03-18 21:48:30 | 日記
1962年

名古屋を出た東海道線が、山あいの美濃路を抜けて岐阜まであとひと息のところ、木曽川の清流を間近にすると尾張一ノ宮だ。ここが竹中の出生地。この一ノ宮を中心とする一帯は尾州織物で全国的に名高い。しかし、竹中の両親は、一ノ宮市松降(マツフリ)通りで歯科医を開業していた。竹中は、現在身長1㍍83、73㌔という堂々たる体格の持ち主。中日高田代表、濃人監督がその人並みはずれた体格に目をつけ、体のわりに俊敏、ベース一周13秒台という逸材をとらえたのはケイ眼だが、ここで今日の竹中を語る前に、彼の過去をかんたんにふりかえってみよう。なぜならそれは、竹中という男についての最良の説明だからだ。一ノ宮北部中学ー一ノ宮高と内野手をやっていた竹中が、はっきり投手として踏み切ったのは高校三年生のときだった。兄の敬(タカシ)さんは、同じ野球部で投手をやっていたこともある。しかし、それ以上に決定的とした事実は、彼の肉体的変化だった。二年から三年にかけてなんと10㌢も身長がのびた。もちろんこうなればチーム一の長身である。どうしても投手をやりたかった竹中は監督の北川氏(現旭ヶ丘高)にはっきりいった。「投手をやりたいんですが・・・」夏の大会一週間前であった。わずか一週間の練習。この大会で準々決勝の津島商工に破れるまで彼は四試合すべてに登板した。この年津島商工は名門中京商をもくだして初の甲子園出場を果している。竹中は翌三十三年、投手として期待されながら日大に入った。リーグ戦初登板は一年秋の駒大一回戦。しかし、二年までは鳴かず飛ばず。三年目の春、日大12回目の優勝に最高殊勲選手となって一躍名をあげた。「東都にひさびさの本格派投手出現」とさわがれたのはこのころである。ところがこのあとに右ひじの故障という不運に見舞われた。このためすでに二年のころから竹中の打力を認め「内野手に使おう」と思ったこともある香椎監督は、思い切って外野手として竹中を使ってみた。高校時代から定評のあったバッティングは長打一発もあって本物だった。今春は、害や主としてみごとベストナインに選ばれている。打力の開眼が文字通りケガの巧名だったともいえるが、竹中は中学ー高校ー大学と進みながら投と打の二筋道にその責を果したことになろう。プロの世界に向かって新しいスタート台に立つ竹中に、日大の恩師香椎監督はこういいきかせている。「プロに入ったら自分でやらなければだめだ。チャンスは作ってくれない。自分で作るのだ」と。また父親の稔氏(56)はこういう。「恥ずかしいことはやってくれるな」と。竹中はこのことばをキモに銘じているそうだ。「監督さんにいわれたんです。ことしのトレーニングが大事だって、これはかならず実行しますよ」最初が大事だということをだれよりも知っており、練習していれば調子がいいという竹中。投手としての武器は投げおろしの速球を主に、フォーク・ボールとカーブだ。ウドの大木ではない、バネのある体を生かして「内野手なら、三塁をやりたい」ともいう。だが、プロで打者でいくか、投手でいくかは、わからない。そして当の竹中はそんなことはどうでもよいという表情でこういった。「江藤さんのようなタイプ、いいですね。もちろん目標はレギュラーですよ」
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