プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

石田雅彦

2019-03-17 23:17:09 | 日記
1985年

川越工の左のエース石田雅彦投手(三年)が幸手を相手に七回まで毎回全員の13奪三振をマーク。好調ぶりを見せた。背番号は9をつけているが左腕から投げおろす速球と大きなカーブは威力があり、文句なくエース格。「2ストライクからはいつでも三振を狙っています」と2ケタ三振奪取にも、当然といった表情だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹下浩二

2019-03-17 21:22:31 | 日記
1986年

竹下も実はルーキーだった57年、一軍ベンチ入りしたこともあった。立場としては、中山や相川と同じだったのだが、そのチャンスを生かせずしぼんでしまった。足首のケガなどもあったが、一軍での登板は59年の7試合だけ。そして、今季、いつしか5年目を迎えていたー。「エースで甲子園に出たくてボクは沖縄まで行ったんですよ。そして、思い通りに甲子園に出られたし、プロのスカウトの目にも止まった。ここまでやってきたのに、いまつぶれたら何のために野球をやったのかわかりません。絶対やりますよ」(竹下)ここまで書いてくれば、忘れていた人も、ああ、あの竹下か、と思い出してくれるだろう。そう、兵庫県(つまり甲子園のおひざ元)からわざわざ沖縄の興南高に野球留学、狙い通りに56年夏、甲子園出場を果したあの竹下である。甲子園では皮肉にもいまチームメイトの松本(秋田経大付)に投げ負けたのだが、当時はかなり話題になった選手。それが5年後にはただの人?いやいや、まだまだ竹下に可能性は残されている。「一軍の投手ワクには十分入れる素質は持っている。打者のタイミングをはずすテクニックを、若いくせに身につけているからね。これは大きいよ」というのは辻二軍バッテリーコーチ。それなのになぜ、即一軍とならないのか?ハルさんの見るところ、竹下の場合、どうも、足首のケガにいつまでもこだわって、そこから抜け出せないでいる。足首が弱いんだったら、それをカバーする方法を考えなくっちゃ。「鈴木さん、ボクだって、風呂に入れば、足首を回したり、リハビリ強化に努めてるんスよ」と竹下は口をとがらせたが、私にいわせれば、歩く姿勢から直した方がいい。絶えずヒザの内側に力を入れて、歩くことだ。これだとケガ防止、瞬発力養成、足首強化と一石三鳥の効果がある。江尻二軍監督は「竹下は体の重さがすべて外側にかかる歩き方をしている」というのだから、なおさら、この歩行をすすめたい。私は不調になると、この内側の筋肉を意識して使うことによって調子を取り戻したことがあった。ウソだと思うならやってみなさい。ハルさんはウソはいいません。竹下は「故障後はヒザがマウンドにつかなくなった。その分上体だけの投球になっているんです」と自己分析したが、要するにかばっているのだ。竹下クン、勇気を出して、思い切っていこうぜ!

竹下浩二

野球をはじめたきっかけ 小学2年のとき兄がしていたので
思い出 甲子園出場が決まったとき56年(夏)
プロ野球選手でなかったら プロレスラー
恩師 興南高・比屋根監督
ライバル 投手全員
血液型 B型
好きな女性のタイプ 明るい女性
休日の過ごし方 ぶらぶらしている
セールスポイント スライダー
いま一番の反省点は? ケガが多いこと
将来の夢 大きな一軒家に住みたい
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小畑正治

2019-03-17 18:38:26 | 日記
1958年

南海の先発投手小畑は新しくナックルを投げ、スライダー、シュートと球種はあるが直球にスピードがなく、また球も高くあがって立上りに打たれ一挙に5点を奪われた。投手も打たれはしたが、内野守備の岡本の失策が破たんのきっかけとなった、カーブ、ナックルなどの変化球を使う余裕もなくつぶしてしまった。コントロールの欠陥だ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂上惇

2019-03-17 18:28:53 | 日記
1956年

今季初登板の坂上は進境を伝えられていただけに高橋の貧攻もさることながらなかなかの出来、全力投球からの直曲球がよくきまり懸念されたコントロールの乱れもなく、内角にくいこむシュートをきめ球に好投、かてて加えてこの坂上は五回二死安打の保坂と四球の八田を一、二塁におき、宮崎の外角球をハッシと打つと球は逆風をつっ切る中越えの大三塁打、保坂、八田はあいついでホームイン、勝敗のめどをつけた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

池辺巌

2019-03-17 18:15:37 | 日記
1962年

松山キャンプにはいってから二週間になる。見るものがすべて珍しいときも過ぎた。しかしプロのスピードの違う点はつくづくわかった。きのう(十九日)の紅白戦で山内さんにホームランされたが、あのときも自分としてはスピードも乗っていたし調子は悪くなかった。それでいてあっという間にスタンドにたたかれたのだからやはりすごい。しかしそれは僕の負担にはならない。山内さん、田宮さん、榎本さん、葛城さんは日本でも一流の打者なんだ。その打者の人たちに打たれるのはもともとという気がする。それでも自分が投げて打たれたときああ僕はこんなプロのスピードの世界にいるんだというプロ野球選手としての自覚がフッとわいてくる。ピッチングは神宮でも少しはやっていたので自分としては順調なペースで仕上がっていると思う。杉下コーチからもいわれたが、重心を前にのせて腕の振りを鋭くすると、以前よりスピードが乗るような気がする。といっても別に高校時代のフォームとは変わっていないつもりだ。今の段階では一つ一つコーチにいわれたことを実行していくこと。それとことし入団した人はすべてライバルだということで自分を磨いていくつもりだ。きょう(二十日)は休養日、両親のもとに元気でやっているという手紙を書こうかな。一度電話で話したきりだから・・・。そうそう、ゴハンもおいしいし食欲おう盛。一生懸命がんばっていますと最後に書いて両親を安心させよう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田鎖博美

2019-03-17 18:01:41 | 日記
1984年

本来なら、打撃投手を務めているような男ではない。イースタンでバリバリ投げ、あわよくば一軍の投手にという大器のはずだった。田鎖博美。55年、盛岡工からドラフト2位で入団。高校3年生から投手に転向したが、鈴木(近鉄)二世といわれら左腕の本格派だった。ところが、プロに入って伸び悩み、「ことしこそは・・・」と誓ったものの、キャンプ終了後に左肩を痛めてしまった。「痛めてから、投げ方をスリークォーターに変えてみたんですよ。上から投げ続けると、痛くなってくるんで・・・。いまは、スリークォーターでやっていこうと思っています」フォームを変えてコントロールがついてきた。イースタンではまだ出番が少ないが、田鎖は一軍の打撃投手をやりながら耐えている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

角田満

2019-03-17 17:49:15 | 日記
1991年

今年5年目になる角田満投手(浦和実業出)が8月14日の近鉄戦で、プロ初デビューを飾りました。9回に、4番手としてマウンドに上り、先頭の金村には四球を許したものの、石井、光山、新井の強打者をピシャリと抑えたのです。試合後、角田投手は「頭がボオッとして何が何だか分からなかった。今でも緊張していますよ」とヒザをガクガクさせていましたが、もう顔面はクシャクシャでした。角田投手といえば、チーム№1の大食漢で「アイツがどれだけ食べるか見てみたい」とナインもその、潜在能力がどれほどなのか知らないほどです。若手の何人かと食事後スナックに行った際も、一人で全員のつまみを食べ尽してしまった上に、「お代わり」と手を差し出すのは、日常茶飯事のことです。結局、このピッチングの直後、肩、ヒジの状態が今ひとつということでファームに逆戻りしてしまいましたが、焦ることはありません。「もう少し、スピードをつけないと、上では通用しない」と本人も課題をわかっており、今度一軍に上ってくる時には、猛牛や獅子を持前の胃袋でペロリと平らげてくれる、ピッチャーに成長していることでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中学

2019-03-17 17:16:59 | 日記
1984年

ルーキー・田中学が13日の対大洋戦に先発。5回を投げ、被安打2、自責点3の出来。初回デッドボール、フォアボールでランナーを出し、内野ゴロの間に1点を許してしまったことで、投球が少々雑になった観があった。得意のシュートにいまひとつ切れがなく、打者にとってのボウ球になってしまった。デッドボールを出したことでやや弱気になったと思われるが、「痛いのは打者じゃない、自分なんだ」というぐらいの気持ちでいかなきゃね。「力からして、あんなもんじゃない。都市対抗の大舞台を踏んでいるし、すぐ立ち直ってくれますよ。心配なんかしていません、信頼してます!」と須田マネはキッパリ。ただいま発展途上人!次の登板が、マナブの真価を発揮するときだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

種部儀康

2019-03-17 16:37:34 | 日記
1962年

ちょうど試合がはじまるころに振り出した雨のためかきのうまで平均10本以上の猛打をふるっていた打線がしめり、四人の投手に名をなさしめた。その中でとくにすばらしいピッチングをみせたのは白軍の種部、藤田の両投手。種部は五回を投げて藤尾、長島、宮本らのクリーン・アップ・トリオをはじめとする紅軍強打線を2安打散発で三塁走者ひとりといううまさを見せた。種部は七色の変化球を持つリリーフあるいはつなぎ投手として大きな期待をもたれている投手。相手チームの監督、別所コーチがのりだして「実にうまいピッチングだ。九回まで完成させるか」と五回を終ってからしばらく考えているほどだったが、規定どおり藤田に代えた。これをリリーフした藤田も1安打2四球の好ピッチングをみせ、紅白戦初のシャットアウト試合を完成した。勝負は白軍が一回の敵失、四球につづいて国松の左越二塁打とダブルスチールで決めたが、急に打てなくなった打線をみて渋い額の川上監督にひきかえ投手陣の別所コーチはごきげん。「種部はカーブ、シュート、スライダーのほかナックルなど一球一球全部違う球を投げる。実にうまかった。きょうは本領を発揮した。藤田もずい分よくなった。これで投手陣の足なみはすべてそろったよ」といっていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小川幸一

2019-03-17 16:16:03 | 日記
1961年

国鉄スワローズは、二十九日午後二時半都内有楽町の球団事務所で、芝工大の小川幸一選手(22)と契約、正式発表した。同選手は熊本商から芝工大に進み、一塁手、四番打者として活躍、昨秋の東都大学リーグ戦では、東映入りした岩下選手と並んで同校初優勝に貢献した。背番号55、身長1㍍78、体重70㌔、右投右打。

小川選手の話 大学時代は一塁以外にやっていないので、できることなら、これからも一塁もやりたい。自信は?といわれても、はっきり答えられない。ただ一生懸命やるつもりだ。卒業論文が残っているので、練習には一週間ぐらいしてから参加する。

国鉄砂押監督の話 リーグ戦で一、二度見たが、体も比較的大きく、バッティングもいい。一年みっちり鍛えればいい選手になるだろう。キャンプでの練習を見、実戦でほかの選手とせり合わせる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

金村清

2019-03-17 16:09:02 | 日記
1961年

関西六大学野球きっての大型内野手としてプロ入りが注目されていた同志社大の金村清三塁手(22)=身長1㍍78、体重74㌔、右投げ、右打ちは十九日大津市の自宅で南海入りを表明した。金村選手は昭和三十一年の第二十八回選抜高校野球大会に大津東高の三塁手として出場。同大進学後は一年生からリーグ戦に登場、二年生でレギュラーとなり終始主軸打者の地位を占めていた。とくにことしの春季リーグ戦ではベストテン第二位(・378)秋は第六位(・346)で常に3割台をマーク。関西六大学野球きっての大型内野手として知られていた。プロ球団は早くからさそいの手を伸ばし、今秋のリーグ戦終了後は巨人、大洋、阪急、南海が正式に勧誘に乗り出したが、もっとも熱心に勧誘した南海入りがきまったものである。

金村選手の話 巨人、大洋、南海、阪急の四球団から話しがありましたが、在阪球団であること、そして優勝と出場のチャンスのあるチームという考えでいました。だからもっとも熱心に誘って下さった南海を選びました。

同大渡辺監督の話 金村は内野手にしては珍しく大型で、またいい打力をもっている。カンのいい選手なのでプロでもじゅうぶん通用すると思っている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

石田雅彦

2019-03-17 11:45:36 | 日記
1986年

新鮮なプロ一年生。ロッテ・石田雅彦(川越工)がファーム生活でつかんだものは、「プロ生活の楽しさ」だったという。「まず楽しかったのが合宿生活です。先輩のみなさんと一緒にメシを食べて、フロに入って・・・。背中の流し合い、一度やってみたかったんですよ」。並のルーキーなら息がつまりそうな合宿生活も、石田の目にはそう映らない。埼玉・新狭山の合宿所から、川越の実家はすぐ近くだったが、ほとんど帰らなかった。となれば、プロの水に慣れるのは早い。シーズンの初め、川崎で練習していたところへ村田投手がやってきた。「大感激しましたよ、フォームのアドバイスをくれたんですから」それまでのスパイク6足分のステップを6足半に広げてみろ、のひと言。これを素直に受け入れた。そんな石田が、伸びないはずがない。9月22日のヤクルト戦(青梅)で先発し、7回2失点。大きなカーブが光っていた。「ボクは3年後を目標にしていますから」石田はいま、希望に満ちあふれている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

吉岡知毅

2019-03-17 11:30:34 | 日記
1984年

村田が吉岡に伝家の宝刀・フォークを伝授ー。5月23日、青梅の二軍グラウンドで行なわれたシート打撃に、右ヒジ故障からのカムバックをめざす村田が登板。打者12人に対して51球を投げ、ノーヒットに抑えて順調な回復ぶりをみせた。このとき、福山電波高(現在は近大福山高)の後輩・吉岡が独得のフォークに感動。「投げ方を教えてください」と頼んだところ、村田は復帰へ向けて、多忙にもかかわらず即、OK。ボールの握り方から、フォークを投げるのに必要な握力訓練の方法などを伝授した。「落ちる球を覚えて、ピッチングの幅をもたせたいと思っていたところなので本当にラッキーでした」と吉岡。大先輩の厚意に応えるため以後、毎日、テニスボールを握って腕力をつける訓練に集中している。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

成田幸洋

2019-03-17 10:50:44 | 日記
1984年

米カリフォルニアへの野球留学で大活躍中の成田幸洋投手。このほど、球団にもう一つの朗報が届いた。カリフォルニア・リーグのオールスター戦(9日、サンノゼ・スタジアム)に選出された、というのがそれ、本人は「日本人の力を思う存分、見せたい」と腕まくりしていたそうだ。米大リーグA級のサンノゼ・ビーズに所属して、もう4ヶ月、サイドハンドからのスピードボールが増し、「変化球の切れ味も抜群」とチーム内で高く評価されるようになった。連勝、連続セーブに6月半ば初めて土がついたが、6月19日現在で4勝1敗12セーブの好成績。防御率も2.18とよく、同僚の川村、高山、串原、後藤各投手がもう一つパッとしない中、一人ベストテンに入って頑張っている。オールスターで怪腕ぶりを早く知りたいもの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田中学

2019-03-17 10:43:07 | 日記
1984年

「去年のいまごろは暑い最中、バリバリ投げていました」というのは田中学だ。日立造船有明(佐賀)のエースとして補強され、都市対抗出場した昨年を思い出し、なんとなくロマンチックになっていた。「なかなか社会人のときのフォームが、思い出せないんです。なにをやっても空回りしてしまう」とプロの壁に悩みが続く。城之内(元巨人)ばりの変則フォームからシュートを武器にした投球は高く評価され、一軍キャンプにまで参加、が、開幕とともにファーム落ち、佐賀にいる友人が昔のフォームを映したビデオなどを送ってくれているが、いまひとつ田中流のリズムに乗れない。目下12試合に登板、2勝2敗、防御率3.63で、32と四死球が多いのは課題である。「6回投げて8四球、こんなコントロールではまだまだ」と種茂二軍監督は厳しい採点。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする