プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

三野勝大

2021-04-03 22:25:20 | 日記

1993年

 

ドラフトへ向けての巨人の誘いに、「逆指名」でこたえるまでの二週間、悩みに悩んだ。今月初めの社会人、大学計三チームとの練習試合で、めった打ちにあって15失点。「プロに入っても通用しないのではないか。社会人チームに進もう」一度はこう決め、それまでに誘いがあった広島、近鉄に断りの電話を入れた。その後、思いもかけなかった巨人からの勧誘。小さいころからのファンだけに心が動いた。「大好きな巨人」という理由だけでなく、同窓のライバル、関根裕之の日本ハム指名受諾も微妙に影響した。名門の東京・岩倉高時代からエースで鳴らした関根は、大学に入ってすぐに登板、二年生の時には大学日本一にも貢献する投球を見せていた。対して、一、二年生では鳴かず飛ばずだった三野。ブルペンで並んで投げている時、「いつか越えてやる」と常に思っていた。その関根がプロ入りするのならオレも、となったのだ。雌伏の間にやったことはただ一つ、自分の体を徹底的にいじめ抜くことだった。本来、今どきの若者には珍しいストイックな性格で、ランニングや筋力トレーニングといった苦しい練習もいとわない。授業や練習以外の時、寮に姿が見えないと、グラウンドか室内トレーニング場を探せば必ず見つかる、という練習の虫。下級生たちは「天性の関根、努力の三野」と評した。球速は高校時代より10キロ近く速くなって147キロ、コントロールも安定してきた。カーブ、スライダー、フォークをまぜながら、速球主体にグイグイ押すタイプ。大学の先輩、横浜・斎藤隆に似ているが、本人の好みは広島の北別府、元西武の東尾のような「投球術を持ったピッチャー。ないものねだりですかねえ」粗削りの面もあるが、逆に未知数の魅力も十分。まだ肩を酷使していないこともプロで成功する要素の一つだ。

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関根裕之

2021-04-03 22:04:43 | 日記

1998年

 

ガシャン。関根のシュートが清水のヘルメットを直撃した。五回一死、一、二塁としたこの瞬間、マウンド上の関根は同じく好投を続けていた小宮山とロッテ打線のほかに、自分の「動揺」をも、敵として背負いこんでしまった。頭部への投球、あるいはそれが危険球と判断され退場を受けた直後に、試合の流れが変わる場面はたびたびである。もちろん関根も次打者平井への2球目まで、力のない外角への投球が続いた。ファウルで1ストライクを取った後、野口は内角へ切れ込んでくるスライダーを要求した。関根は要求にこたえる。差し込まれた平井の打球は左飛。続く小坂もカーブで二ゴロに切った。チームはその裏、田中の2点本塁打などで先制した。田中は言う。「関根ががんばっていたから、何とかしたかった」と。「みんなに(死球)はつき物だからと慰められた」と開き直れた関根の投球は、ハーラー首位に並ぶ6勝目への最大の壁を乗り越え、味方の援護を引き出した。

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本原正治

2021-04-03 21:58:06 | 日記

1991年

とにかく西武に負けない男だ。昨シーズン途中、巨人から移籍して西武戦3勝無敗。この日の完投勝利を加えて通算4勝。まだ一度もレオに黒星をつけられていない。「ぼくの力じゃないです。打線が打ってくれるから、たまたまです」確かに力感のある投球ではない。ストレートは最高球速は135キロ程度。この日は7四球とコントロールもほめられたものではなかった。それでも、一、三、四回といずれも得点圏に走者を背負いながら、スライダーを有効に使って三振を奪い、ピンチを脱した。横の揺さぶりに弱いレオ打線の弱点を、巧みについていたのだ。「あのハラハラドキドキが本原流なんだ」と田淵監督は笑う。「ぼくは意識してないけど、西武が、ひょっとしたら意識過剰になっているのかもしれませんね」と本原は楽しんでいるようにコメントした。

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関根裕之

2021-04-03 09:26:54 | 日記

1994年

 

奈良原のバントで一死三塁の場面。うるさい辻を130キロのフォークで見逃し三振に仕留めた。田村のリードも素晴らしかったが、いいコースにフォークを投げた関根の制球も光った。関根は「緊張はしなかった。でも、ピンチを脱した後、体が震えた」パ・リーグが、がぜん面白くなってきた。

 

2001年

暑いドームも何のその…関根、対ロッテ10連勝、ロッテキラーは健在だった。今季の初勝利を相性抜群のロッテから挙げ、1999年7月8日から続いている対ロッテ戦での連勝を「10」に伸ばした。一回に2長短打で先制を許すが、二回までに5点の援護をもらった。味方の好守備などもあって、その後は波に乗った。だが、「相手も研究してきていた」と振り返ったように、四回には配球を読まれて福浦にスライダーを狙い打たれ、右中間スタンドへ運ばれた。六回には4長短打で1点差まで詰め寄られた。実は計算外のことが起きていた。オープン戦を含めてドーム球場での登板は今季初めて。予想以上に暑く、担当の汗をかき、疲労が増していたという。球数も増え、六回途中までで112球を数えた。だが、相性とはこういうもの。2死満塁の場面でマウンドを降りたが、救援した高橋憲がしっかりと抑えた。「もし相手が苦手意識を持ってくれたら、試合が始まる前に優位に立てる」この言葉通り、試合前からの落ち着きは、最後まで変わらなかった。ロッテに強い理由を尋ねられても「何ででしょうねえ」とだけ話し企業秘密は明かさない。「もちろん研究はしていますよ」と、笑いが自然とこぼれてくる。「優勝するにはカモにできるところをたたいておかないといけませんから」自信は当分、揺るぎそうもない。

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