2004年
速球のMAXは152㌔。それも常時150キロを越えそうな勢いで投げ続け、近大ではエースを務めた4年春の関西学生リーグ戦で6試合5勝0敗、うち2完封(防御率0.72)と4期連続優勝に大きく貢献している。ベストナイン、最優秀投手賞、MVPの三冠を獲得。50メートルを5秒7で走る脚力に垂直飛び90センチの高い身体能力は即戦力の評価と同時に将来性も豊富で、本格的な変化球のマスターに取り組んでいけば、柱を担う日もそう遠くはない。
2004年
速球のMAXは152㌔。それも常時150キロを越えそうな勢いで投げ続け、近大ではエースを務めた4年春の関西学生リーグ戦で6試合5勝0敗、うち2完封(防御率0.72)と4期連続優勝に大きく貢献している。ベストナイン、最優秀投手賞、MVPの三冠を獲得。50メートルを5秒7で走る脚力に垂直飛び90センチの高い身体能力は即戦力の評価と同時に将来性も豊富で、本格的な変化球のマスターに取り組んでいけば、柱を担う日もそう遠くはない。
1989年
知野は長身から投げおろすスピードボールに注目したい。
先発に起用された知野君は八回まで毎回奪三振の13奪三振。チームのかなめとしてナインを引っ張った。監督からは「欲を持たないでいけるところまでいけ。甘いコースへいっても、イキのいい球を投げろ」そのかいあってか185㌢、76㌔の長身から振り下ろすカーブは切れもよく、君津商打線をビシッと抑えた。調子は決して絶好調とはいえないまでも「早めにストライクが取れた」のが、勝因ともいえる。あまり喜びを表に出さないタイプなのか淡々と答えるのが印象的。しかし、その無表情さが、次の試合への闘志を表している。 3点のリードを背に知野はストレートと横、縦へのカーブを内外角に投げ分け、球の切れもよく八回まで2安打、2四球、三塁を一人も踏ませぬ見事なピッチングで君津商の打線をキリキリ舞いさせた。だが、九回飛ばし過ぎの疲労から先頭打者に右翼線へ二塁打され無念の降板となったが、このピッチングで自信がよみがえったようだ。
1990年
甲子園全国大会の出場は逃したが高レベルの千葉県で「拓大紅陵高に知野あり!」 と評された逸材140㌔以上の速球が魅力だ。体格も抜群で前途は洋々の右腕。「ストレートで攻める中山さんのように、お客さんに強い印象を与えるピッチャー」を目指す殿下だ。(入団早々ついた仇名)
1994年
「このままでは悔いが残る!」と、貪欲にサイドスローに改造チャレンジした昨季、好結果と出た。登板機会さえめったに掴めない時期を脱し、投球回数が一挙増(チーム6位)、初勝利も記録だ。ゲーム勘を失いかけていた自信を取り戻した。
1991年
失策がらみで1点を与えたとはいえ、初顔の小林昭に、西武打線は戸惑っていた。スライダーを内角に大胆に配して、鈴木哲と対等に渡り合っていた。それが、この回、安打を1本打たれただけで、しかも九番打者のところでの降板指令。白武が連打を浴びて、決定的な2点目を与えたから、よけいになぜと言いたくなる。
1994年
「一死を取るまで、心臓が飛び出しそうだった」と言った。無理もない。登録を抹消された小宮山の穴埋めに、二軍から上がってきたばかり。勝利経験もなく、右肩痛を克服し2年ぶりに踏んだ一軍のマウンド。一昨年から本拠地になった千葉マリンも初めて。まして、この日は二十二歳の誕生日。力むなという方が酷だった。しかし、バックが相次ぐ好プレーでもり立てる。一回・先頭・辻が左翼線いっぱいに放った飛球を、俊足とはいえないミューレンが飛びつくようにキャッチ。これでリズムに乗った。捕手には今季5度目の先発マスクの猪久保。二軍戦でコンビを組んでいる間柄。「結果を考えるな。打たれても、お前じゃなくて使ったベンチが悪いと思え」と言葉をかけた。決め球のスライダーで一、二回に3奪三振。四回までに3点を失ったが、好調の西武打線を相手に六回途中まで踏ん張ったのだから上出来だろう。東海大甲府高から入団し、2年目の春季キャンプで肩痛に襲われた。4年越しでつかんだ1勝。「昨年の今ごろは走ることしかできなかった。苦労してよかった。きょうは最高の誕生日です」
1989年
「相手が自分のことを研究してくる今年こそ、真価が問われる大事な年だと思っています」こんな言葉に強い意気込みが感じられた。昨年、ドラフト1位で日本通運から入団。ルーキーながら後半戦は完全に先発ローテーション入りして6勝6敗、防御率3.44の成績を残した。逆転優勝をかけた最終戦で、先発のマウンドを任されたのが、何よりも大きな自信となったようだ。「スタミナが足りない」との反省から、自主トレ期間中はひたすら走った。南国のキャンプでもダッシュや筋トレに懸命。また、シュートの会得にも取り組んでいる。思い切って内角を攻めることのできる球を覚えて、これまでの決め球、カーブやスライダーをより有効に、というわけだ。今季の目標は「10勝することと、西武戦での完投勝ち」近鉄には阿波野、小野、山崎ら若くて実力のある投手が多い。「うかうかしていると、すぐ忘れられちゃいますからね」とおどけてみせた。
1991年
立ち上がりから丁寧にコーナーを突いた高柳。四回一死満塁のピンチでは、石毛を切れのいいシュートで三ゴロ併殺打。続く2イニングは三人ずつに抑え、六回までに三度得点圏に走者を置いた郭を上回る安定した投球だった。西武打線が三巡目に入った七回。先頭の清原に粘られて四球。デストラーデを迎えた。変化球を続けて2-0と追い込む。3球目はファウル。このあとだ。高めの内寄りの直球がスーと入ってきた。アッパースイングからはじかれた打球は高々と舞い上がり、中堅スタンドへ消えていった。この4球目、実は「はずす球だった」と捕手の古久保。勝負球ではない球を痛打された明らかな制球ミス。動揺した高柳は3四死球で塁を埋め、平野に致命的な3点適時打を浴びた。「うちは泰源だから勝たなければ。向こうは違うけど」森監督が近鉄側の微妙な思惑を指摘した。近鉄は郭に5連敗中。野茂、小野をぶつけて初戦で敗れては3連敗の危険もある。高柳の先発には、たとえ負けても影響が最小限で済むという計算があった。ところが中盤までは互角の展開。「本塁打は仕方ない。あとの3点がね…」あまり選手を中傷しないのに、珍しく厳しい口調で注文をつけた仰木監督。勝てる要素があっただけに、悔しい思いが口に出た。結果はシナリオ通りと言えなくもない第一幕だったが、そう言い切ってしまえないわずかな心の揺れを、近鉄は残したのではないだろうか。
1990年
「点は取ってくれましたけど、常に0-0と思って緊張感の中で投げました。うれしいですね」初先発で初完封の初勝利と初ものづくしの鈴木哲は、さわやかな笑顔をみせた。先発を言われたのは前夜(十一日)。「チャンスを与えてもらったけど、本当かな、と半信半疑だった」そうだが、マウンドに上がると、これまでの過去3試合での無制球っぶりは姿を消し、堂々のピッチング。立ち上がりこそ先頭の西村に0-3とボールが先行したが、変化球でストライクを取って二ゴロに仕留め「今日は、フォークがいい」と実感したという。結局、終わってみれば6奪三振の2与四球。野茂や潮崎ら同期生には大きく水をあけられたが、二十六歳とちょっと年を食ったルーキーは「今さら気にしてもね。これから自分なりの投球をしていくだけですよ」とあわてず騒がずだった。
1991年
ロッテは二回一死一塁の守りで、走者に気を取られた初芝が正面のゴロをはじく手痛い失策。これが羽生田の先制打に結びつき、ずるずる西武ペースにはまり込んだ。攻めても鈴木哲のスライダーを打ちあぐみ、今季五度目の完封負けで、六月二度目の8連敗。
鈴木哲 昨年九月の完封勝ちを含め、4つの勝ち星はすべてロッテから。「たまたま巡り合わせがいいだけですよ」
1997年
本格的に投手を始めて、わずか半年で、MAX148キロをマーク。潜在能力の高さは目を見張るものがある。パワフルな打撃も魅力の好素材。「ストレートでグイグイ押す、横浜の佐々木さんが理想です」負けん気の強さもプロ向き。今後の成長が楽しみな一人だ。
1986年
小倉生まれで、玄海育ちー無法松を地で行く黄金ルーキーの誕生だ。140キロを超す速球は将来のエースの器にふさわしい。「桑田、清原には絶対負けたくない」と、勝負根性はピカ一。「菊池桃子の歌を聞く以外趣味もなし。あえて言えば野球」内に秘めた闘志で荒波に立ち向かう。