プロ野球 OB投手資料ブログ

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木村義光

2022-12-11 14:11:56 | 日記
1954年
雲に埋れた旭川のアイヌ部落からはるばる夜の上野駅に着いて「いやアもう人多いの…」とびっくりした木村少年も岡山のキャンプに一ヶ月すごせば身も心も背番号38に捧げた有力な新人だ。永田総裁の一声で生れた高橋球団はいわば球界の混血児だが、そこにアイヌ選手第一号が生れたのも妙である。顔のソリあとは青々、裸になるとすばらしい剛毛、毛深いのでは世界第二とアイヌ族はいわれる。十九歳、五尺四千、この世界では小男の部類だが胸の厚いのと筋肉の盛上がりは驚くばかり。「そのくせ身体は柔らかで腰のバネが強いんです。阪大病院で身体検査を受けたとき上背があったらミスター・ジャパンだね、といわれました」なにくれと世話をやいている木戸マネジャーも目を細めている。木村がボールを握ったのは十五歳のとき、速い球だとほめられて夢中になった。「家業の木彫業を手伝おうと思って旭川北見中学を退学したのですが、野球ばかりやって父によくしかられました」という。六人兄妹の末っ子、父の徳一さんと兄たちは「イヨマンテの夜」の歌などで知られている熊狩りの名手。「家族やアイヌ部落の人たちから岡山のキャンプにたくさんの激励文が来ましたし、なんとかモノにならねば故郷へ帰れません」と漆黒のひとみをキラリとさせた。昨年七月四日、帯同遠征中の大映藤本監督と林投手がノンプロの旭川協会にアイヌ人のピッチャーがいると聞いて好奇心から投げさせてみたら球質はノビがあってとてもいい。これが運の開き始め。大映入りの話がウヤムヤなのにシビレを切らした木村は野球団結成のニュースを知って岡山にかけつけた。そこは義侠の浜崎監督、その熱意に感じ入り、練習をさせて見ても素質があるのですぐ採用した。「浜崎さんは走れ、走れといってます。腰をうんと強くするつもり、ストレートに自信がついたらカーブをマスターしたい」と熊彫り時代の傷アトがある手はボールがかくれるような大きさである。その手で大きくワインド・アップしながら「旭川の大先輩スタルヒンさんが親切に教えてくれます」とうれしそう。北海道から出てきて一層うれしかったのは岡山キャンプのとき池田牧場で部落の濠りの人が捕らえた熊と久しぶりに対面したことだそうだ。


未知数の選手だが、馬力はまずパ・リーグ八球団随一ではないかとさえ思われるほどだ。走っても村社さんがびっくりするほど持久力があった。野球は素人のようなもので、いま監督さんがピッチングの基本を教えている。肩がすばらしく強いし、体力もあるので球は重いし、スピードもある。しかしただ力だけで投げているだけだ。あれでピッチングを覚え球に変化が出てくればたのしめたものだ。性格もまじめでねばり強い。

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