1967年
来年、球団としては契約する意志はない。四十二年十月末日、新山社長からこういわれたとき衆樹は、さも当然といわんばかりの顔つきだった。クビを申し渡されると、ほとんどの選手はメソメソするのにくらべ、衆樹のそれはカラッとした秋晴れ。「これで気がねなしに好きな釣りに行けるようになります」とむしろ嬉しそうでもあった。少し動くと、すぐ水がたまる左ヒザ。野球選手として練習にも十分耐えられぬほどそのヒザは悪化していた。ことし南海へ移籍したものの、オールスター後は一軍ベンチにすら入れずずっとファーム暮らし、右の代打として期待していた鶴岡監督も見捨てざる得なかった。シーズン中、巨人から柳田をもらい受けたのも、この衆樹の低調が原因だったからにほかならない。「だから球団から呼び出しを受けたとき、クビだと思ったですよ。外様選手だし、当然のことですよ」だが、衆樹の場合、実力不足には違いないが、ほかにも原因があった。阪急から南海へ移籍するとき、入団の橋渡しをしてくれたのが杉山打撃コーチ。ところが、その杉山は鶴岡監督とウマがあわず、ことしかぎりで解任された。その杉山がいなくなれば衆樹も当然解雇。いいかえれば杉山コーチの心中でもあった。選手契約はムリでも、衆樹には優れた野球理論があり、コーチとしての才能があるからだ。まして森下コーチの退団騒ぎがあっただけに、杉山派でなかったら、あるいは衆樹コーチが誕生していたかも知れない。それは別にしても、一年前にも人間関係のむずかしさ、運命のいたずらで衆樹は損な目にあっている。阪急で西本監督と鋭く対立。結局クビになって南海へ移ったわけだが、岡野社長は、西本監督が退陣すれば衆樹をコーチにすえるハラだったらしい。ところが、不信任投票事件後、退団を表明した同監督が翻意。結局衆樹コーチはタナ上げとなったばかりか、西本構想からはみ出してしまった。それから一年後、西本監督は優勝して男になり衆樹はプロ失格。人の運命なんてものは全くわからない。しかし、衆樹は、そんなことには、いっさい無頓着だという。「自分の主義主張は、どんな立ち場にたっても変わりませんし、また変えようとも思いませんよ」宝塚市の仁川台にある自宅にはいまはだれもいない。年末から年始にかけて一家は夫人の実家である神奈川県へ引きあげた。油壷で衆樹は連日、釣り糸をたれてのんびり構えている。メシよりも好きな釣り。「これで気がねなしに行けますよ」自由契約になったときの言葉はやはり負け惜しみではなかった。横浜には新居も買った。宝塚の自宅を千三百万円で売却している。それで引っ越さないのは相手の都合で時間待ちなのだという。何事も電光石火でやってのけるタチ。仕事も退団後すぐ決めた。第二の人生は、野球解説者からスタートだ。昨年、阪急を辞めたとき、慶応の先輩である岡野社長のコネで某放送の解説者として就職が決まっていた。そこへ一年越しの入社。来春の公式戦から電波でファンに接する。プロ入り後は十一年間、パッとせず同じ慶應ボーイの中田はこんど主将に昇格。プロ選手としての衆樹はパッとしなかったが、そのセンスは関係者の間で高く買われていた。そこで歯に衣着せぬ性格をひっさげて評論家の仲間入り。「ちょうど広岡と青田の長所をとった理想的な解説者になるだろう」と球団関係者はいう。いささかオーバーな見方であるにしても大洋の別当監督にいわせれば「モロの理論は大したものです。私が保証しますよ」ということになる。一説によると、別当監督は衆樹の大洋打撃コーチを考えたが、ただ複雑な大洋の内部事情が、これを拒んだらしい。美保ちゃん(8つ)まり子ちゃん(6つ)と礼子夫人(32)それに実母欣子さんの五人暮らし。そこで新たに横浜で喫茶店を開く。名前はMORO(モロ)「駅構内の百貨店の中なんです。開店は来春、三月ごろになると思います。百貨店のなかですから人は集まるでしょう。殿様商売ですが、いつものクセでのんびりかまえているんです」油壷で釣り糸を垂れながら衆樹は他人ごとのような表情だ。「来年から昼間は喫茶店で、夜はネット裏。いまより数倍忙しくなりそうです。そのためにもいまは十分休養して、と思っているんです。釣りもあまりできなくなるでしょうからね」釣りと第二の人生とどちらが大事か、豪快な衆樹なら釣りをとるかもしれない。「喫茶店の店主としてみたときのプロ野球ですか?さぁむずかしいですね。第一、ボクは、どこを応援すればいいんですかね。十一年間、東京、阪急、南海と動きましたからね。どこをヒイキにすればいいですか?」栄光の座からひきずりおろされてもなんのくったくもない面持ち。できることならだれしもこうありたいものである。
来年、球団としては契約する意志はない。四十二年十月末日、新山社長からこういわれたとき衆樹は、さも当然といわんばかりの顔つきだった。クビを申し渡されると、ほとんどの選手はメソメソするのにくらべ、衆樹のそれはカラッとした秋晴れ。「これで気がねなしに好きな釣りに行けるようになります」とむしろ嬉しそうでもあった。少し動くと、すぐ水がたまる左ヒザ。野球選手として練習にも十分耐えられぬほどそのヒザは悪化していた。ことし南海へ移籍したものの、オールスター後は一軍ベンチにすら入れずずっとファーム暮らし、右の代打として期待していた鶴岡監督も見捨てざる得なかった。シーズン中、巨人から柳田をもらい受けたのも、この衆樹の低調が原因だったからにほかならない。「だから球団から呼び出しを受けたとき、クビだと思ったですよ。外様選手だし、当然のことですよ」だが、衆樹の場合、実力不足には違いないが、ほかにも原因があった。阪急から南海へ移籍するとき、入団の橋渡しをしてくれたのが杉山打撃コーチ。ところが、その杉山は鶴岡監督とウマがあわず、ことしかぎりで解任された。その杉山がいなくなれば衆樹も当然解雇。いいかえれば杉山コーチの心中でもあった。選手契約はムリでも、衆樹には優れた野球理論があり、コーチとしての才能があるからだ。まして森下コーチの退団騒ぎがあっただけに、杉山派でなかったら、あるいは衆樹コーチが誕生していたかも知れない。それは別にしても、一年前にも人間関係のむずかしさ、運命のいたずらで衆樹は損な目にあっている。阪急で西本監督と鋭く対立。結局クビになって南海へ移ったわけだが、岡野社長は、西本監督が退陣すれば衆樹をコーチにすえるハラだったらしい。ところが、不信任投票事件後、退団を表明した同監督が翻意。結局衆樹コーチはタナ上げとなったばかりか、西本構想からはみ出してしまった。それから一年後、西本監督は優勝して男になり衆樹はプロ失格。人の運命なんてものは全くわからない。しかし、衆樹は、そんなことには、いっさい無頓着だという。「自分の主義主張は、どんな立ち場にたっても変わりませんし、また変えようとも思いませんよ」宝塚市の仁川台にある自宅にはいまはだれもいない。年末から年始にかけて一家は夫人の実家である神奈川県へ引きあげた。油壷で衆樹は連日、釣り糸をたれてのんびり構えている。メシよりも好きな釣り。「これで気がねなしに行けますよ」自由契約になったときの言葉はやはり負け惜しみではなかった。横浜には新居も買った。宝塚の自宅を千三百万円で売却している。それで引っ越さないのは相手の都合で時間待ちなのだという。何事も電光石火でやってのけるタチ。仕事も退団後すぐ決めた。第二の人生は、野球解説者からスタートだ。昨年、阪急を辞めたとき、慶応の先輩である岡野社長のコネで某放送の解説者として就職が決まっていた。そこへ一年越しの入社。来春の公式戦から電波でファンに接する。プロ入り後は十一年間、パッとせず同じ慶應ボーイの中田はこんど主将に昇格。プロ選手としての衆樹はパッとしなかったが、そのセンスは関係者の間で高く買われていた。そこで歯に衣着せぬ性格をひっさげて評論家の仲間入り。「ちょうど広岡と青田の長所をとった理想的な解説者になるだろう」と球団関係者はいう。いささかオーバーな見方であるにしても大洋の別当監督にいわせれば「モロの理論は大したものです。私が保証しますよ」ということになる。一説によると、別当監督は衆樹の大洋打撃コーチを考えたが、ただ複雑な大洋の内部事情が、これを拒んだらしい。美保ちゃん(8つ)まり子ちゃん(6つ)と礼子夫人(32)それに実母欣子さんの五人暮らし。そこで新たに横浜で喫茶店を開く。名前はMORO(モロ)「駅構内の百貨店の中なんです。開店は来春、三月ごろになると思います。百貨店のなかですから人は集まるでしょう。殿様商売ですが、いつものクセでのんびりかまえているんです」油壷で釣り糸を垂れながら衆樹は他人ごとのような表情だ。「来年から昼間は喫茶店で、夜はネット裏。いまより数倍忙しくなりそうです。そのためにもいまは十分休養して、と思っているんです。釣りもあまりできなくなるでしょうからね」釣りと第二の人生とどちらが大事か、豪快な衆樹なら釣りをとるかもしれない。「喫茶店の店主としてみたときのプロ野球ですか?さぁむずかしいですね。第一、ボクは、どこを応援すればいいんですかね。十一年間、東京、阪急、南海と動きましたからね。どこをヒイキにすればいいですか?」栄光の座からひきずりおろされてもなんのくったくもない面持ち。できることならだれしもこうありたいものである。