プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

谷哲男

2018-04-21 09:33:05 | 日記
1964年

市西宮高の谷哲男投手(17)は三十日、名古屋の中日ドラゴンズ球団事務所で同球団と契約した。同投手は183㌢、73㌔、右投げ、右打ちの本格的な速球投手。昨年春、夏、今春と計三度甲子園へ出場し、エースとして活躍した今春の選抜でのピッチングがとくに注目され、阪急などからも誘われていた。背番号は未定。

谷投手の話 一度プロでやってみたいと思っていた。それだけに入団が決まって本当にうれしい。自信というほどのものではないが、高校時代後半疲れでタマが浮く悪いクセがあったので、足、腰をうんと鍛えれば、なんとかいけると思う。とにかく一日も早く第一線で投げられるようがんばる。練習に参加するのは来春のキャンプからになる予定です。
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佐藤一誠

2018-04-21 09:11:04 | 日記
1972年

及川と同時トレードの佐藤一は、大洋時代はベース一周13秒台の快足を買われて走り屋に出ることが多かったが「ライオンズではチャンスに打ちたい」と誓い切る一発屋でもある。青木専務も「彼のパワーはすごいよ」と、頼もしそうに佐藤一の巨体をながめやっていた。
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吉村健二

2018-04-21 08:08:02 | 日記
1972年

ドラフト外の大物といわれる吉村は昨年まで巨人、ヤクルトにねらわれた快足、好守の内野手。真弓と競争で遊撃、三塁を守ることになるが「守備ではすぐに一線のポジションをねらえる」(青木専務)という注目株。
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鶴崎茂樹

2018-04-20 20:45:00 | 日記
1972年

郷土のホープ、南海の鶴崎茂樹選手(19)=筑紫工高出=が順調に育っている。昨年夏の高校野球大会で広陵相手に発揮した肝っ玉も健在。この一年で「きびしいプロ」の水を味わい、いちだんとたくましくなった。いまはマウンドを降りて、野手一筋。チビちゃんという愛称で人気者になっているが、コーチ陣の期待は第二の吉田(元阪神)。軽快な正内野手誕生もそう遠くなさそうだ。今季入団すると、しばらく投手と野手の二本立てで出発。ブレイザー・ヘッドコーチに「イイ球威だ」とバッティング投手をしている際、驚かせたが、結局、野手専門へ。「ボクはまだヒヨコ。先を見てくれる監督さんらに従うだけで、投手に未練はありません」ときっぱり。筑紫工エースの肩書きもいさぎよく捨て去ったのだ。その鶴崎がまずぶつかった壁は送球フォーム。本格派だったので、小さくまとまるまでに今季なかばまでかかったという。そして中腰で、激しいノックに耐える体力不足。ある夏の日の百本ノックで「ぶっ倒れ、水をかけられた」こともある。そんなとき、ノックに耐えている同僚たちを見て、悔し涙をこらえながら、また立ち上がって行った。「高校のときだったら、監督がつきっきりで見てくれるので頼れもしたが、いまは一人ぼっち。体力の限界まで鍛われるのは同じだが、精神的なきびしさは段違い」とプロの感想をもらす鶴崎。そのきびしさの第一関門は突破したわけだ。ウエスタン戦にも六月ごろから起用され、後半はほとんどフル出場。半分以上の三十五試合を経験できた。「タイムリー打が出るようになったのが大きい。連係プレーもまずまず」と岡本二軍監督を喜ばせている。しかし、この九月父の克巳さん(58)が心臓の病気で入院、鶴崎の気持ちは心配で揺らいだ。母のみや子さん(50)は、このため働きに出始め、鶴崎も毎月の送金額を増やした。こんなとき、病身の父から電話で「心配するな。お前は早く一人前になることだけ考えろ」と逆に励まされたという。また元気づけられたのは、同じ九州男児で同期生の定岡=鹿実出=の友情。野手で生きてきた定岡のアドバイスは「コーチ陣の指導を生かせた」「攻守ともいい感覚だ。体力がついて来たし、これからが大成するかどうかの勝負。が、あの根性だとかつての吉田となるのも夢ではない」と目を細める岡本二軍監督。こんどの秋季練習をみた沼沢コーチは「シュアなバッティング。腕っぷしが強く、たたきつける特徴がある」打者として成長株の声。鶴崎は七日の紅白戦で二塁を守った。足の速い島野、桜井を併殺プレー、非凡なフィールディングを披露してチビいいぞーの声がかかった。打っても左前適時打する活躍。ベース上で小躍りしたチビちゃん。一軍入りのジャンプ台に乗っかった。
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辻邦男

2018-04-20 20:28:11 | 日記
1968年

阪神の辻邦男捕手(21)=敦賀高出=は、実家のつごうでこのほど球団側に退団を申し入れ、球団側はこれを了承した。同捕手は辻佳紀捕手の実弟で今春、テストを受けて入団した。
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小川一夫

2018-04-18 21:18:35 | 日記
1972年

南海ホークスは二十六日、ドラフト五位に指名した小川一夫捕手(18)=戸畑商、176㌢、73㌔、右投右打=と同七位指名の本田勤外野手(17)=花園高、180㌢、78㌔、右投右打=の入団を発表した。小川はことし3割9分、本田は高校三年の通算3割6分と高校球界では屈指の強打者。小川捕手は同球団九州地区担当の石川スカウトに付き添われて上阪。丸坊主に詰めえりの学生服がいかにも高校生らしい。報道陣の質問には「南海には野村選手・監督という捕手の見本がいます。いろんな角度からお手本にしていきたい」と積極的な抱負を述べた。長崎三菱重工の強力な勧誘をけって南海入りしただけにその情熱はすごい。石川スカウトの話では「小川君を二年のときから見染めていた。そのことは捕手をやっていて、三年になって投手兼三塁手に転向していたが、打撃に素質があるので捕手に進むことになる。これは野村監督の要望です」と将来性のあることを強調していた。本田はことし春のセンバツに出場、強打、強肩の持ち主で、中学時代に陸上部でつちかった足を生かし外野手となる。「早く一軍入りを果したい」と目を輝かせていた。
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K・H・ライト

2018-04-16 20:20:18 | 日記
1971年

オーストラリア人を父親に持ちオーストラリア国籍の異色新人。生まれたのは広島だがすぐオーストラリアに渡り、四歳のとき母親弥生さんとともに帰国。弥生さんの話によると「生まれたとき四千㌘もあり、五ヶ月ぐらいでヨチヨチ歩きを始めた」ほど発育はよく体格は群を抜いていた。本格的に野球をやり始めたのは岡北中学(岡山)に入ってから。最初はファーストで、投手に転向したのは岡山東商の二年のとき。今夏の甲子園大会では2試合に登板、三回戦の対岐阜商戦には7回3/1を無失点に押えている。長身から投げおろすストレートが武器。
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伊東勇

2018-04-15 22:20:01 | 日記
1969年

最後の打者山崎を三振にしとめた与田がマウンドをおり、駆けよって頭を下げる伊東。その細い目、白い歯がプロ入り最高のうれしさをあらわしていた。このあと、ラジオマイクでインタビュー。184㌢、73㌔のモヤシのような体が、緊張感でふるえていた。マウンド上では終始冷静に投げ続けた伊東が「初めてあがりました」場面でもあった。しかしロッカールームでピッチングを説明している伊東は、ぜんぜん興奮の色を見せなかった。「ロッテの主軸は左打者だから、そうこわくなかった。山崎、前田を警戒、タイミングをはずすカーブのコントロールがよかった」先発は前夜(十五日)の試合後に言われたが「後藤さんも勝った。ぼくもがん張らなければ」と思ったそうだ。ただ寝床にはいってからいろいろピッチングを考え続け、眠ったのは午前二時。そしてけさは八時に目がさめた。プロ入りして初めてめぐってきた先発のチャンスに、やはり興奮していたのだろう。「しかし新幹線で眠ってきました」というあたりは現代っ子だ。「この前、東京球場で救援し、引き分けたとき、初めて自信らしいものがついたが、そのあと打たれ続け、また自信が消えてしまった」という。重松コーチがこの点を解説した。「伊東のよさはリズムで投げる点だ。だから最近はリズム感を取りもどすように、重点的にやらせた。きのうのピッチングを見て、いけると思い、この夜先発に使ったのだ」伊東のよさはブルペンの調子をそのままマウンドで発揮できるという点だ。中西監督も「うちの投手はどれもロッテ相手になると打たれてしまう。その点、こいつはあまりぶつかっていないからね。思ったとおり冷静に投げた」と伊東をほめた。四十二年福岡第一高から「テスト生と同じ条件」で入団。昨年は六月に心臓を、そのあと腹膜炎をわずらって、ほとんど棒にふった。「ことしだめだったらもうやめよう」とまで思いつめての精進だったが、キャンプでの努力がやっとここへきて花を咲かせたようだ。

伊東の1勝は、どん底の西鉄が単に1勝したという以上に価値がある。それでなくても手薄な投手陣から、池永、稲尾を書いては無防御で打ち合うしかないのだが、その攻撃もそれほど破壊力はない。こんな時期に新人の投手が貴重な勝ち星をあげたということはほんとうに大きい。伊東が成功した第一の原因は、ロッテにとって予想外の先発であり、しかもほとんど知られていなかったこと。その上に一回かんたんに1点とってのんびりしたところを、広野の本塁打が強烈なパンチとなって、ロッテ打線をすっかりまごつかせたことである。伊東はスイフト、シュート、カーブと、それにもう一つ種類のわからない変化球を持っているが、それらの一つ一つのスピードが違っている。意識的に変化させたとすればたいしたものである。ペースを狂わせたロッテはメチャメチャに振り回して伊東を助けた。
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北川公一

2018-04-15 19:59:50 | 日記
1966年

「ぼく、初めてなんです」恥ずかしそうに小さな声でいった。ベンチの上から多勢のファンが「北川、顔を見せろ」と声をかけるが、その声がふえるにつれてシリ込みする。永江代表に背中を押されるようにして前に出た。「大学時代も打っていない。ウエスタンで一本打ったきりのホームランです」いつまでたっても遠慮気味につぶやくようにいうのに、興奮気味の永江代表が黙っていられないという感じでいった。「なあ、東京六大学のヒーローだもんな」まるで北川のマネージャーみたいに付き添って北川のかわりに大声を出す。永江代表の言葉によけいに赤くなってテレた。無理はない。北川公一といえば昨年まで七、八回ごろ守備固めに出る選手でしかなかった。ボレスの加入でますますレギュラーのカベは厚くなったが、山本八の左足故障で出場のチャンスがふえてきた。「こういうときがチャンスなんだからがんばらなくては・・・といつも思っていた」そうだ。相手の若生は「ぼくが一番好きな下から投げる投手」二日前も皆川(南海)に右翼金網に直接当たる二塁打している。「内角にくるのを待っていた。外角ばかりついてきたが、内角にきたら思い切り振ってやろうとヤマを張っていた」一見、強気に聞こえる言葉もすぐ遠慮気味になってしまう。「打ったとき、まさかはいるとは思わなかったが、一塁を回ったらみんながワーワーいうのであらためて見直したんです」おまけにカウントまで間違えていた。外角きわどく二つのストライクを見のがしたあと、大きく外角をはずれるボールを見送っているのに「カウントは2-0でしょう」と首をかしげる。キャンプからずっと根本コーチに「右足が開きすぎ自然に肩が開く。もっとためて打て」と欠点を指摘されてきた。前日、大阪球場で試合前の打撃練習中、根本コーチが北川のバッティングを見ながら「うん、よくなった。このフォームでいけばいいんだが・・」とつぶやいていたことを北川は知らない。もう暗くなったグラウンドで佐々木に「ありがとう」とお礼をいわれてまだテレている。「いまがチャンス」だと必死にバットを振り「大好きな下手投げ投手の内角球」を最後まで待って今季初のサヨナラ決勝ホーマーしたヒーローにしてはなんとも純情なプロ入り三年生だった。
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妻島芳郎

2018-04-15 19:23:08 | 日記
1966年

六回のマウンドへ歩きながら、頭の中にフッと思い出したくない意識がわきあがった。こういったことはこの日に限ったことではなく、先発して六回以上投げたときはほとんど起こっている。しかし、いまだに対策がたっていたないことなのである。いまから五年前のノンプロ日本通運に勤務しているころだった。ある日、藤田監督からささやかれた。「なあツマ、お前は初回と六回にくずれるクセがある。その二回をとくに注意したらピッチングがグッと締まってくるんだが・・・」それまで気がつかなかったが、妻島は自分の記録を調べて六回と初回にとくに打ち込まれていることを発見してドキッとした。ことしは東京の五年生。しかしまだ初回と六回のプレートを踏もうとするとき、藤田監督の言葉が聞こえてくるそうだ。「意識しまいと思えば思うほど、意識してしまう」五回まで金光のヒット一本に押えてきた。ところが、六回はボールが浮いて近藤和に右翼線へ痛打され、アスプロにもゴロで中前へ打たれて一、二塁。それまでの安定したピッチングからは考えられないように打たれた。つぎの金光にも右前へ合わされた。しかし、池辺の強肩に救われた。妻島はいう。「スタミナ不足も六回に打たれる原因の一つかもしれない。だが、それにしても六回は打たれるような気がしてならないという先入観をなんとかなくせないものだろうか」腕を組んで考え込んだ。五回までは強打者ぞろいの大洋打線を完ぺきに近い投球で押えた。ストレートを中心に、カーブ、シュートが外角いっぱいにベース上を通過した。六日の近鉄戦(藤井寺)でも先発し、五回までを無失点に押えながら、六回に3点とられた。魔の初回と六回これをどのように切り抜けるかが、いまの妻島の大きな課題だ。
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釘谷肇

2018-04-15 18:32:38 | 日記
1973年

ヤクルトがドラフト第二位で指名した八代東、釘谷肇外野手(19)=1㍍86、82㌔、右投右打=の入団が二十七日決定的になった。ヤクルトの内田スカウトは同日午前十時、熊本県八代市井上町354の自宅に同選手を訪ね、母親悦子さん(45)、八代東、堀部野球部監督をまじえて二度目の入団交渉を行い、契約金七百万円(推定)で内諾を得た。二十八日、後見人の叔父、釘谷義之さんの立ち会いのうえで正式入団を決める。
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山下浩二

2018-04-15 18:28:51 | 日記
1973年

山本スカウトは午後五時、第二位に指名した熊本二高・山下投手の実家(熊本市九品寺)をたずね、二度目の入団交渉を行なった。この日は「本人の大学進学の意思を確めたい」(山本スカウト)ということだったが、山下投手が不在のため、話し合いは後日に持ち越された。
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小鷹卓也

2018-04-15 18:21:34 | 日記
1973年

土井垣スカウトは二十六日夜、ドラフト二位で指名した飯能高の小鷹卓也投手の自宅(埼玉県比企郡鳩山村大字熊井)をたずね、父親・富雄さん(50)=農業=と入団交渉を行なった。指名と同時に電話で交渉あいさつをすませ、学校側との話し合いも終わっているところから、この日は入団条件、契約金七百万円を提示した。家族、学校ともにプロ入りに賛成しているので、次回交渉が行なわれる十二月七日ごろには入団決定の運びとなる。
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竹口幸紀

2018-04-15 18:11:39 | 日記
1973年

日本ハムがドラフト五位に指名した北海高、竹口幸紀投手(18)=1㍍83、76㌔、右投右打=の入団が十六日決まった。瓜生スカウトが同日午後、北海度・支別町の自宅に父親・元さん、母親きぬえさんをたずね、本人をまじえて入団を要請。竹口側が契約金五百万円、年棒百五万円(いずれも推定)の条件を了承して内諾を得た。
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佐藤博正

2018-04-15 18:00:59 | 日記
1973年

横手投げでコーナーをゆさぶる技巧派。ことしの夏の北海道予選では62イニング投げ93三振を奪い、夏の甲子園大会でも好投。一回戦の京都商戦で小竹と投げ合い延長十一回惜しくも負けたが、変化球のキレ、マウンド度胸は天下一品。

佐藤博正投手「野球を続けるためプロに行きたいと思っていた。第一位に指名してくれたのはうれしい。しかし両親と相談のうえで決めたい」
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