プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

岩本勝

2020-01-14 11:27:28 | 日記
1962年

岩本勝(いわもとまさる)(18)投手は初の檜舞台に出たのは今春の高校選抜大会である。しかしプロのスカウトはそれ以前から目をつけていた。昨秋の中国大会で180㌢近い長身から、快速球を投げおろし、打者をつぎつぎと打ちとったことからである。しかも左投手であることも、岩本の存在を浮きたたせた。プロ球団では阪急をはじめ西鉄、広島、南海、近鉄、阪神、大毎それに中日が名のりをあげたのだからすごかった。一時は大変な争奪戦になったが、豊浦高校が阪急の戸倉前監督の母校でもあった関係からスムーズに阪急入りが決まった。ところで今春の選抜大会はサウスポーの当り年といわれた。中京の林、北海高の松谷、岐阜商の長縄、それに岩本この中で林、岩本、松谷がプロにはいったが三人を比較すると岩本が一番ひ弱だ。あれほどのスカウトが集まったのにと不思議に思われるほど。しかし実際は岩本をみたスカウトたちがからだの大きさ、サウスポーの利点にほれて集まったが「大きい投手にありがちな下半身が弱い」という結論が出たためである。いいかえれば足、腰が弱くそれほどでもなかったというスカウトが多く、途中でおりてしまったからだ。岩本は上背を利して真上から投げおそる本格派の投手で、スピードもあるし、左にしてはコントロールもよい。ところがいま一つの迫力に欠けている。そのためフォームにすごみがないし、速い球もただ速いだけでのびがない。その原因は下半身ができていないからである。みた目にも下半身が弱いとわかるほどだからストレートに威力があるわけでもないし、バネも生かされていない上半身だけで投げていたのではプロで通用しないことは目にみえている。かれの武器は大きく割れるドロップだが高校ではこのドロップも長身から投げるので角度があって通用したが、プロではそれだけでは通用しない。なぜならストレートが棒球では武器のウイニングショットを使わせてくれないからだ。これからの課題はとにかく下半身を強くすることで、下半身さえ安定すれば球も自然に生きてくる。

林(中京商→南海)との比較。

気性も正反対だし、フォームも正反対。まったく対照的な二人だ。しかし岩本は気力がないから林のもっている力強さをすべて吸収しなければだめだ。ただ岩本の利点は林よりもからだが柔らかいということだ。しかし、せっかく柔らかいからだをもちながら腰くだけになっては元も子もない。からだが固いといわれながらも林は「プロでじゅうぶんやってみせる」と根性のあることばをはいてビュンビュン投げこんでいるのに比べ岩本はスーッと投げてしまって打者に対して威圧感がない。これなど林の気概を大いに学ばねばならない。奮起が必要だ。
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谷野彰

2020-01-14 10:40:04 | 日記
1963年

「ウーン、やっぱりやってくれたか」河合社長の目に狂いはなかった。北洋水産の野球部解散を聞いて河合社長は高林監督を連れ立って谷野獲得のために上京したのは昨年の十一月のことである。「大昭和の天下をとるためにぜひ君が必要なんだ」と説いて強引に浜松に引っ張っていったといういきさつのある谷野だ。晴れの本大会で決勝の殊勲打を放って長年の苦労もようやく報われようとしている。海南高時代は投手としてその左腕を鳴らしたが、甲子園への夢は適せられなかった。プロ入り(大洋)してからも左人差し指のツメを割ってとうとう日の目をみなかった。「思い出といえば対中日戦での代打で杉下さんから左前に安打を奪ったことです。しかしきょうの方がそれ以上にうれしいですね」息をはずませて一気にまくしたてる。プロを退いてからは北洋水産に二年間主力打者として働いた。日本ビールに補強されたが、この時痛めた右足首のねんざもようやくいえたという。予選の山静大会では対日楽戦で逆転サヨナラ本塁打を初め昭和戦でも八回にダメ押し点をたたき出し、後楽園初出場を決定づけた。「東京に比べて浜松は住みいいです。好きなうなぎもあるし…」好物はうなぎとテキだそうだ。油っこいものが好物で若さで張り切っている。毎朝合宿から自転車で勤めに出ているのも足と腰を鍛えるためで、生活の信条がすべて野球と割り切っている。初出場の河合がダークホースにあげられていることももちろん知っている彼だ。「ことしはツイているので思い切りやりたい」と最後に自信のほどを披れきした。入社一年目、営業管理部勤務。二十四才。1㍍74、70㌔、左投げ、左打ち、背番号25。
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森本潔・野田征稔・矢野晃

2020-01-14 10:09:26 | 日記
1962年

社会人野球、高校野球はともに本大会、予選と激戦を展開しているが、それに敗れたチームから続々とプロ入りが決まっている。二十九日は森本(立大中退・三協精機)の阪急入り、野田(PL教団)の阪神入り、矢野(八女高)の中日入りがそれぞれ決まった。

三十四年夏の高校大会で優勝した西条高の遊撃手だった森本潔内野手(21)=立大中退-三協精機は、このほど阪急入りが確実となった。同選手は1㍍70、70㌔、右投右打で、西本監督もテスト済みの好選手である。また阪神タイガースはこのほど社会人野球PL教団の野田征稔二塁手(21)=PL学園出身=の入団を決めた。同選手はPL教団が今月初め都市対抗野球近畿予選で敗れたあとチームが解散したためプロ入りをのぞみ、二十四日から阪神の練習に参加、テストを受けていた。1㍍76、70㌔、右投右打。

九州地方で屈指の速球投手といわれていた福岡八女高の矢野晃投手(17)=1㍍77、70㌔、右投右打=はこのほど中日ドラゴンズ入団が確実になった。同投手は外角低目の速球が武器の本格派今夏の福岡予選では大濠高に敗れたが、予選前の対校試合では今春の選抜出場校小倉工、博多工に勝っている。昨年十二月に福岡県選抜軍のメンバーとして沖縄にも遠征した。昨年秋から地元西鉄をはじめ広島久野、近鉄瓜生、中日柴田、阪急丸尾スカウトが交渉していたが、中日柴田スカウトの熱意が実り中日入りが不動になった。
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荻野一雄

2020-01-14 09:52:12 | 日記
1960年

上手からの速球を買われて北海高から入団した荻野も今季はとうとうチャンスに恵まれず真価を発揮できなかった。素質はまず申し分ないが、速球一本ヤリの単調なピッチングではやはりまだプロの世界では無理なようだ。問題は変化球をどうマスターするかにかかっているがいまのところあまり細工をしない方がいいようだ。数少ない本格派投手として期待されているに、上手からの落ちるカーブさえマスターすればスピードがあるだけにかなりやれるのではないか。高校時代に連続17三振を奪った記録をもっているが、これはいかにスピードが豊かであるかということを如実に物語っているといえるだろう。入団一年目に注文をつけるのは荻野の場合酷だが、当の荻野投手は「まだまだですよ。いま勉強中です。一生懸命やってみます」と言葉は少ないながらそのファイトをみなぎらせている。
【北海高校出身、背番号38、身長1㍍76、体重74㌔右投げ右打ち】

中尾コーチの話=ストレートはかなりノビがある。ただカーブのないことがね・・・。
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根来広光・岡野久一

2020-01-14 09:36:58 | 日記
1956年

国鉄スワローズでは十一日正午、球団事務所でかねてから同チーム入りが内定していた東鉄の根来(ねごろ)広光投手(20)と岡野久一三塁手(20)と正式契約を行った。根来投手は広島県府中高卒、三十年東鉄に入ったころは捕手をしていたがスワローズの西垣コーチに投手としての才をみとめられ、今シーズンは夏の都市対抗で熊谷組に補強され、後楽園のマウンドを踏んだ。秋の産別大会でも全国鉄のエースとして活躍、スワローズのほか広島からも勧誘の手がのびていた。五尺六寸五分、十八貫五百、右投右打の速球投手。また岡野三塁手は茨城県下妻一高出身、根来投手とともに東鉄入りしたが、そのテストに立ち会った西垣コーチが岡野選手のバッティングに一目ぼれし、行く行くはスワローズにと約束していた。五尺九寸、十九貫、右投右打の長距離打者。

森国鉄代表の話 東鉄は国鉄全国大会に十年ぶりに優勝しただけあっていい選手がそろっていたわけだ。それだけにプロからねらわれたが、どっちみちプロへ行くなら国鉄へと話しをすすめた。すでに発表したとおり高校から六人の新人をとったが、この人たちはいわばあすの戦力で、すぐ役立つという意味からとったのが根来君であり、岡野君だ。

根来投手の話 どうせプロに行くなら国鉄へと前から決心していた。早くチームになじんで一生懸命やりたいが、何もわからないのでちょっと不安だ。
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栗本光明

2020-01-14 09:14:08 | 日記
1960年

今季、プロとの契約を破棄したせいか、敗退したチームの選手が、ぞくぞくプロ入りしていく。さきに、日鉄二瀬の財津選手の中日入りをはじめとし、このほど、倉敷レイヨンのエース栗本光明投手(25)も大毎入りが決定した。正式発表は今大会の終了後行なわれる模様。大会前から栗本投手のプロ入りは時間の問題とさえいわれていた。昨年は産別で初優勝するなど、すっかり栗本株は上昇したこのとき、西鉄、大洋、大毎、阪急、巨人などが、さそいをかけたが、栗本自身もふんぎりがつかず、今、都市対抗までのばしてきた。栗本にとって、年齢的にいっても今季が、最後のチャンスだった。今季は、大毎、阪急、巨人(正式には交渉していない)が熱心に、栗本をさそった。阪急は丸尾スカウトが交渉、最後までねばったが、ものにすることができなかった。巨人は直接的には交渉していない。大毎は、親会社を通じて、倉レの本田監督に交渉、栗本自身が身の振り方を本田監督に一任したためにスムーズに大毎入りが決定したわけだ。契約金は約八百万円といわれる。

栗本投手の話 すべては監督さんにまかせている。どの球団がきているかは監督さんが知っている。きょうの夜(三十日)でも、監督さんと相談するつもりだ。ボクの口からいえることは、今大会がノンプロ生活の最後であることはいえる。おそらく産別大会には倉レのユニホームを着て、後楽園へくることはないでしょう。

倉レ本田監督の話 栗本の今後の身の振りかたは本人とその家庭事情、それに会社幹部の意向などを合して決めたいと思っている。いままでに話のあった球団は二球団で巨人と大毎だけだ。それも話だけでこれから具体的な話を聞きたいと思っている。栗本はボクに一任しているので本人のために一番よいように取りはからってやりたい。そのためワタシはこの大会が終るまでこちらにいて栗本のことをなんとか決め帰りに大阪の本社によって会社首脳部に報告してから、最終的な決定にしたい栗本はプロにはいっても、二、三年は立派に投げられると思う。ことしはあまりよくなかった。栗本はあんなものではない。
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マイナー選手 生年月日

2020-01-13 20:29:39 | 日記
山本英規(巨人) 昭和20年3月25日
周防清(巨人) 昭和21年1月7日
中原薫(中日) 昭和23年9月13日
望月喜雄(国鉄)昭和20年1月15日
安次嶺栄七(大毎)昭和19年10月10日
愛甲徹(大毎)昭和20年7月6日
金村勝利(阪急)昭和20年6月15日
柴田信夫(大洋)昭和22年3月16日
山田正陽(南海)昭和17年10月25日
林孝彦(大毎)昭和19年2月16日
太田稔(南海)昭和19年7月16日
佐古良雄(大洋)昭和19年8月5日
植田健作(大洋)昭和19年3月26日
向井修三(国鉄)昭和18年5月18日
坂本泰三(南海)昭和18年11月29日
伊藤則男(南海)昭和15年9月22日
岡村和男(南海)昭和20年3月20日
松崎宏紀(大洋)昭和17年8月13日
河野薫(西鉄)昭和18年5月21日
福沢幸雄(中日)昭和12年6月4日
長友安宏(南海)昭和15年5月26日
矢野敬義(南海)昭和17年4月25日
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1956年 中日 退団選手

2020-01-13 12:46:50 | 日記
1956年

中日ドラゴンズでは八日名古屋で契約を済ました選手と第一次整理者を次の通り発表した。名古屋地方で契約を済ましたもの原田、加藤、山崎、本多、徳永、石川勝、河合、井上、仁羽、伊奈、早川、酒井、中山、田原、戸田、石川緑、島津の十七名で、さきに東京で契約を済ました西沢、服部、杉下、牧野、杉山の五名を加えて完了した選手は二十二名である。他の大矢根、空谷ら遠隔地の選手は書類で契約を済ませ、整理者は第一次の児玉、大島についで第二次十四名が発表された。(カッコ内は退団後の行先)

移籍選手 太田敏(東映)
自由契約選手 山本文哉(東海理化学電機)吉岡秀雄(CBC)伊藤健(未定)高山邦男(自家営業)田代政利(自家営業)千葉英二(未定)佐々木元治(知高加KK)金子文弘(ダイハツ)尾崎時雄(ダイハツ)水谷工(東海理化学電機)奥原為雄(東海理化学電機)伊藤正志(東海理化学電機)
任意引退選手 船津亨

平岩代表の話 来年度の構想は天知監督と話して十二、三日ごろまでに決定して発表したい。もちろん幹部もどうなるかいまのところは決まっていない。
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山本英規

2020-01-13 12:29:37 | 日記
1962年

さきに巨人入りが決まっていた広陵高の山本英規選手(18)=1㍍75、80㌔、右投右打=の入団発表が、三十日午前十一時から銀座西の読売本社五階会議室で行われた。巨人側から高橋社長、正力亨副社長、川上監督が出席したが、さすがに大物選手の入団とあって首脳陣もえびす顔。両親の山本銀一さん、コサミさんにつきそわれた山本選手は、記者団の質問に顔をあからめてボソボソ。いかにも純朴そうな表情に川上監督が助け舟を出す一幕さえあった。

同選手は高校一年のときから広陵に山本ありとさわがれた強肩好打の選手で、高校での通算打率は四割強をマーク、特に長打力も備え、ことしすでに5本のホームランを飛ばしている。なお同選手は午後二時から多摩川での練習を見学した。研修期間は百試合。背番号は未定。

ー巨人入りの動機は。
山本 小さいときから巨人が好きでしたし、同じ野球をやるなら巨人でと思っていました。
ー野球をはじめたのはいつか。
山本 中学一年からです。そのころはずっと投手で、内野をやるようになったのは高校に入ってからです。
ーいままで当たった投手でこわいと思った投手は。
山本 ありません。下関商の池永君ともやりましたが、たいした投手とも思いません。
ーベース・ランニングはどれくらいか。
山本 16秒です。あまり早くありませんが…(笑い)
ー目標とする選手はだれか。
山本 やはり長島さん、王さんです。そのためにも一生剣舞がん張ります。

川上監督の話 山本君がウチに入ってくれたことを喜んでいる。体もいいし、これから大いに伸びる素質を持っているので、近い将来有力な五番打者となるだろう。

長島選手の話 いままでボクのあとがまがいなかったので山本君の入団はうれしい。体もいいそうだし、立派な選手になるだろう。控えがいると思えば安心してプレーできるからね。当分は追い越されることもないだろうが、若い人が入ってくれることはいいことだ。
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山田治之

2020-01-13 11:15:13 | 日記
1964年

カープの第二次秋季練習に指名参加しているのは来季の飛躍が期待されている若ゴイばかり。そのなかでもとくに注目されているのが山田外野手。この春、名古屋電工から捕手としてテストを受け入団、打棒を生かして野手に転向、持ち前のファイトと馬力でグングンと頭角を現わし、早くもレギュラーへあと一歩。秋季練習以前にはこれだけ台頭するとは予想されていなかっただけに、コーチ陣の喜びもひときわ大きい。山田の魅力はすごい馬力だ。1㍍75、75㌔のがっちりしたからだは、巨人の池沢をひとまわり大きくした感じ。その丸太ん棒のような腕からはじきだされる打球はまるでピンポンダマのよう。真っシンに当たれば軽くオーバーフェンス。最近では打撃フォームもすっかり安定、それだけ確実性が増した。4分間のバッティング練習中、ポップフライはわずかに4、5本。ほとんどがライナーだ。ケージの後方で見つめる平山、上田両コーチの目も一段と光る。「とにかくよい素質を持っている。12球団を捜してもあれだけ力のある選手はざらにいないだろう。からだも柔らかいし、目もいい。だから多少ポイントが狂っても打てる。ただ変化球を打つとなると疑問もある。いまやかましくいっているのはわきのあまさだ。それに腰で打つことをマスターしたらまだまだ打球ははやくなるし、変化球にもついて行けるようになる。もともと柔軟性はあるし、覚えも早い。とにかくうちになかった魅力のある選手だ」と目を細めて平山コーチは話す。根性もいい。すごいファイトの持ち主だ。ナインからトッカン小僧の愛称で呼ばれているほど。タマをまったくおそれない。スライディングも頭から突っ込んでいく。打球にたいしては体当たり。からだにボールの当たったあとが赤くはれているが「ボクは未熟でしょう。それを補うにはタマにくいつき、からだで覚える以外にないですよ」とすましたもの。上田コーチも「あいつの根性には頭があがる。それに性格もいい。肩も足もなかなかいいよ。うちとしても右の外野手が少ないので大いに期待しているんだ」と話す。山田と大の仲よしの安仁屋は「トッカンといっしょだと苦しみなんて忘れてしまう。だからトッカンのへやはいつも満員。これまでは女の子の話や、映画、パチンコととりとめのない話が多かったのですが、最近はすっかり変わって野球のことばかり。欲が出たんですね。朝は七時からバットスイングや体操をやっていますよ。ボクもうかうかできません」とにかく現在の山田は希望でいっぱいだ。英才グループに残されたことが転機となり、大きな励みになっている。「こんなに野球が楽しいと思ったのは初めてです。いまでは安仁屋、西川さんたちはまったく別世界の人のように思えもしたが、いっしょにプレーしていると、自分でもできるんだ、いや、やらねばいけないんだと自信らしいものが自然に植えついてしまって…。努力すればそれだけむくわれる世界にいるのですから張り合いがありますよ。グラウンドに、名声もお金も落ちているんですものね」話す表情も底抜けに明るい。まだ十九歳だが、すでにプロ根性がしみついている。「基本をまったく知らずプロ野球にとび込んだ僕にはさびしさだけがいやに目につくんです。でもそれが一層ファイトを盛り上げるし、それらを突き破らねばこの世界といわずどこでも通用しませんから。とにかくだれにも負けないようがんばるだけです」と話したあと「ボクは最近一軍でバンバン打ったーなんていう夢をよく見るんです。早くファンの前でプレーして見たいです」これも現在の彼ならそう遠い日のことではなさそうだ。平山コーチがそれを裏付けてくれた。「来年はとにかくキャリアをつけさせる意味で、二軍戦、オープン戦をとわずどしどし出したいね。あいつの馬力とファイトはきっとゼニになる。代打といわず、常時出場を目標にやってほしい。トッカンならやれる」と。
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山田忠男

2020-01-13 11:13:07 | 日記
1960年

大洋ホエールズはこのほど、九州高校№1のキャッチャー、日南高の山田忠男(18)選手の入団を内定した。日南高は春の選抜高校野球大会出場のポイントとなる昨秋の県高校野球では決勝で大宮高に破れ、夏の予選では都高に準決勝で負けるなど、大きな大会には出場していない。しかし山田選手は九州高校球界では強肩強打のキャッチャーとしての名が高く、大洋をはじめとして、西鉄、近鉄などからマークされていた。大洋は田村スカウトが、七月大分中津東高の原田投手獲得に九州に飛んだときから、執ように食いさがり、他球団をケ落として、このほど入団の内定をとったもの。契約はちかく田村スカウトが宮崎に行き、両親と会ったうえで正式に行う。(身長1・73㍍、体重65㌔、右投右打)
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グリヒン

2020-01-13 11:12:35 | 日記
1963年

近鉄バファローズは、さきにテスト中だったウィリアム(通称ビル)・グリヒン投手=1㍍83、80㌔、左投右打、ワシントン州立大出=の採用を決め、パ・リーグおよびコミッショナーに届け出た。グリヒン投手は十日の対大毎戦(東京)から出場できる。同投手はPOL(3A級)ポートランド・ビーバースで活躍していた。背番号28。

グリヒン投手の話 昨年はパシフィック・コースト・リーグのポートランド(3A)で3勝4敗だった。リリーフがおもだったが先発もOK。ストライク・ゾーンも米国と変わらないし、大いにがん張りたい。

別当監督の話 うちは投手難だし左投手が一人(井上)だけしかいないこと。それに、いろいろな種類の球を持っているので採用することにした。左打者に使うつもりだ。
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石谷訓啓

2020-01-12 21:42:22 | 日記
1960年

大毎球団では五日正午、大阪の球団事務所で石谷訓啓遊撃手(18)=島根大田高=の入団を発表した。石谷選手は春の選抜大会の対倉敷工戦に三打数、二安打、しかも、この二安打がすべてスリーベースという長打の持ち主で西鉄、東映と三球団で競りあった。東映は松木コーチが直々乗り出して、説得したが、時すでにおそく、石谷は大毎の魅力にひかれて入団のはこびとなったもの(右投げ右打ち、身長1・74㍍、63㌔)
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平井誠一

2020-01-12 15:35:52 | 日記
1962年

近鉄バファローズは、十三日午後九時、日生球場で小倉工定時制中退の平井誠一内野手(22)=西部ガス小倉支店勤務、1㍍79、74㌔、右投げ右打ち=の入団を発表した。背番号は69。
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七森由康

2020-01-12 15:26:43 | 日記
1961年

七森投手は今夏の大阪府予選の三回戦で市岡高に1-0で敗れたので中央球界の脚光を浴びるまでには至らなかったが、大阪府下ではPL学園堀川、市岡高加納、吹田高西川投手とともによく知られていた。そして早くから南海、巨人からの交渉をうけ、八月九日には大阪球場で鶴岡監督と合ったが、数日後甲子園球場で巨人軍幹部と会い「条件的に有利な方を選ぶ」という希望にそって好条件の巨人に踏み切ったものである。

七森投手の話 優勝可能なチームが第一の希望でした。条件のことは全部父親にまかせています。

七森親一郎氏の話 南海、巨人、広島から正式に話がありました。親子二人きりの生活ですし、そのうえ私が病身ですので息子に気がねなく野球をできるようにしてやりたいと思っています。二十五日の夜、伊東さんから初めて条件が出されましたが、不満な点もあり、もう一度三十日に会うことになっています。
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