プロ野球 OB投手資料ブログ

昔の投手の情報を書きたいと思ってます

村瀬広基

2020-01-20 13:17:44 | 日記
1961年

関西大学野球部のエース村瀬広基投手(20、二年生)はセ・リーグ巨人に入団するため三日午後、同大学高木野球部長に退部届けを出し受理された。巨人は四日村瀬投手の入団を正式発表する予定。同投手は右投げの速球派で今春のリーグ戦で6勝0敗、55イニングス投げて54三振を奪い、防御率0.82。1㍍79、78㌔。
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河野薫・黒木勉

2020-01-20 13:09:56 | 日記
1962年

河野と黒木は小学校、中学、高校をともに机を並べて学んだ仲である。そしてふたりとも西鉄入りした。背番号も67と68の隣同士。こういった例はプロ球界でも珍しいだろう。おまけに野球を始めたのもともに中学校の一年生から。河野の家と黒木の家は五百㍍ほどしか離れていない。「通学も、そして休みの日に映画を見に行くのも、ほとんどいっしょだった」そうだ。だから香椎寮でも黒木がつとむちゃんなら河野はかおるちゃんと、ツーカーである。高校のときは河野が三塁、黒木が二塁を守り、打撃は交互に三四番を打っていた。ちがっているといえば、河野の父親がフィリピンで戦死して母親との二人暮らしにたいして、黒木は六人きょうだいの末っ子ということだ。このふたりが香椎入りしたのは二十日の夜である。北風が吹きまくって、香椎の丘は雪化粧したほどの寒さだった。「雪を踏んだのは生れてはじめてです。福岡は寒いですね」と河野は驚いていた。南国宮崎に育ったふたりにとっては珍しい雪景色だったのだろう。自主トレーニングの参加が遅れた理由は「学校の許可がおりなかったのです。しかし、放課後は毎日二時間半ぐらいトレーニングをつづけてきました。気が気ではなかったが、ようやく校長先生から許可がおりたのです」という。張り切ってきたものの二十一日はあいにくと練習休み。そこでふたりは香椎の海岸で汗を流していた。初参加の二十二日は練習前に「よろしくお願いします」と全員にあいさつ、そのあと元気にトレーニングを行なった。

ー疲れた?

河野 トレーニングをしてきたから、そんなにきつくない。しかしタイヤ飛びには、少々勝手がちがってまごついた。

黒木 体力はできていると思うのです。だからトレーニングの遅れは心配していない。あとは一日も早くチームになじむだけです。二月七日から卒業試験がありますが、その間も都農でトレーニングはつづけるつもりです。

このコンビ、西鉄の二、三塁を固めるのはいつのことだろう。
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田中裕康

2020-01-20 11:47:39 | 日記
1961年

中大の田中裕康外野手(22)は三日神宮球場で行なわれた対慶大二回戦終了後セ・リーグ中日入りを明らかにした。同選手は東都大学一部リーグ戦の経験は今秋の一シーズンだけで40打数6安打、打率は一割五分。172㌢、65㌔、右投右打。福島県磐城高出。
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リック

2020-01-20 11:41:29 | 日記
1962年

阪急ブレーブスでは十五日午後零時半、大阪市北区梅田の球団事務所で十四日に来阪したフレデリック・リック投手(23)と契約を行ない、同二時半から航空ビル九階レストラン・シルバーで正式入団の発表を行なった。背番号は「13」野球名はリックと決まった。一両日中に練習をはじめ二十一日からチームに合流する予定。同投手は1938年10月25日生まれ、1㍍80、75㌔、右投げ右打ち。

リック投手の話 いままでは完投が多い。九回投げた次の日はリリーフで二回ほど投げ、三日間休んでからまた九回投げて、次の日は二回ほど投げる周期で登板していた。日本のプロ野球の知識はまったくないが、制球に自信があるので思う存分やる。ストレート、ドロップ、スライダー、スクリューボールの四種類は投げられる。背の低い左打者が苦手だ。日本に来ている外人で知っているのは南海のピートだけ。日本に永住したい。
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リック

2020-01-20 10:43:25 | 日記
1962年

阪急ブレーブス入りするフレデリック・リック投手(22)=右投げ右打ち、1㍍80、75㌔=は十三日午後五時羽田着のPAA機で来日した同投手は1960年ノースウエスト・リーグ(B級)トリ・シティーズに入団、20勝8敗、昨年は13勝16敗の成績で両年とも180個近い三振を奪っている速球投手で、日本での活躍が注目されている。阪急では十四日、大阪入りと同時に正式契約を行ない、手続きの済み次第戦列に加える予定である。

リック投手の話 日本のプロ野球はまだみたことはないが、かなり高度なものであるとはハワイで元大毎の西田さんから聞いている。どのくらい勝ち星があげられるかわからないが、ベストをつくしてやるつもりだ。幸いコンディションは上々だし、あすからでも投げる自信を持っている。
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1961年 南海 退団選手

2020-01-20 10:12:28 | 日記
1961年

二年めでプロを去るのが、投手の藤原(堺高)と、内野手の田中毅(宮崎日南高)の二人。藤原は厳密にいえば三年め、つまりテスト生として1年間は練習相手をつとめ、努力が認められて正式に南海のユニホームを着た選手である。右投げ投手だったが、傑出した力はなかった。田中もどこといって特徴のない人で、南海入りしてから、二塁のほかに、マスクをかぶってもみたが、これはあくまでも田中自身の成長のためではなく、他の有望新人のためのコンバートであった。今春はじめて南海のキャンプに参加した高校生は、十四人もいたが早くもこの中の三人が落ちている。栄光を夢見たあの日から、たった三百日あまりで結論を下された人たちである。その三人は投手の青木(宮崎商)一塁手の橋詰(豊国商)外野手の松尾(大分臼杵商)である。シーズンはじめには数多いプロ野球選手が誕生し、メンバー表にもこの三人とも名前は出ていたが、写真は掲載されていない。それもそのはず、青木と松尾の二人は、ともに宮崎で行われた新人テストに合格した練習要員。橋詰も人材豊富な一塁手の卵とあっては、しかたのないことだった。青木投手は宮崎地方では知られた投手だったらしいが、結局プロの器ではなかった。また橋詰一塁手は、他の球団からも誘いの水をかけられた素質のある選手だが、年々大型化して行くプロ野球界にあって、左ききの利点はあっても170㌢足らずの身長ではついていけなかった。松尾にも同じことがいえるようだ。
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喜多代晏節

2020-01-20 09:53:52 | 日記
1961年

国鉄スワローズは、このほど鹿児島鉄道の浜田隆司外野手(18)=右投げ右打ち、身長1㍍76、体重70㌔=と門鉄の喜多代晏節内野手(21)=右投げ右打ち、身長1㍍76、体重82㌔の両選手を獲得したもよう。浜田選手は今春玉竜高校を卒業して鹿児島鉄道に入社したが、高校時代は同校の四番打者として活躍、甲子園にも三十三年夏三十四年春に出場している。在学三年間に16本の本塁打を記録するなど、卒業当時は巨人、阪急、大毎などからもマークされていた強打者。また喜多代選手は三十四年東筑高校を卒業、門鉄では不動の四番打者として活躍していた。
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ブラウンスタイン

2020-01-20 09:44:14 | 日記
1962年

阪神の外人部隊には、三十五年入団したソロムコがいるが、今シーズンからふたりめの外人選手としてマークブラウンスタイン投手がタイガースのエースナンバー18をつけて登場する。ブラウン(登録野球名)は来春加州大学を卒業する二十二歳のインテリである。戸沢代表の神戸高商の先輩にあたる貿易会社の友人が、取り引きの関係で親日実業家のブラウン投手の父親とこん意の間柄から入団したもの。1㍍88、90㌔の長身から投げおろす速球を武器とする右投げの本格派投手ということと、学生時代の星数が球歴として報告されてきているだけ。球団の高木支配人も「59年ディーク大学で全大西洋オールスターに出場、60年加州大に転校して6勝1敗、夏にはロスのセミプロで5勝2敗、61年には加州大で3勝0敗、南加州セミプロで11勝2敗と好成績をあげ、ドジャースからさそわれたこともあるというから、おおよその見当はつくが…」と、確信はなさそう。契約条件も世間でさわがれているほどケタはずれのものではないらしい。正直なところ来日(2月6日羽田着の予定)して甲子園のマウンドを踏んでみないことにはどうともいえないようだ。
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