1962年
河野と黒木は小学校、中学、高校をともに机を並べて学んだ仲である。そしてふたりとも西鉄入りした。背番号も67と68の隣同士。こういった例はプロ球界でも珍しいだろう。おまけに野球を始めたのもともに中学校の一年生から。河野の家と黒木の家は五百㍍ほどしか離れていない。「通学も、そして休みの日に映画を見に行くのも、ほとんどいっしょだった」そうだ。だから香椎寮でも黒木がつとむちゃんなら河野はかおるちゃんと、ツーカーである。高校のときは河野が三塁、黒木が二塁を守り、打撃は交互に三四番を打っていた。ちがっているといえば、河野の父親がフィリピンで戦死して母親との二人暮らしにたいして、黒木は六人きょうだいの末っ子ということだ。このふたりが香椎入りしたのは二十日の夜である。北風が吹きまくって、香椎の丘は雪化粧したほどの寒さだった。「雪を踏んだのは生れてはじめてです。福岡は寒いですね」と河野は驚いていた。南国宮崎に育ったふたりにとっては珍しい雪景色だったのだろう。自主トレーニングの参加が遅れた理由は「学校の許可がおりなかったのです。しかし、放課後は毎日二時間半ぐらいトレーニングをつづけてきました。気が気ではなかったが、ようやく校長先生から許可がおりたのです」という。張り切ってきたものの二十一日はあいにくと練習休み。そこでふたりは香椎の海岸で汗を流していた。初参加の二十二日は練習前に「よろしくお願いします」と全員にあいさつ、そのあと元気にトレーニングを行なった。
ー疲れた?
河野 トレーニングをしてきたから、そんなにきつくない。しかしタイヤ飛びには、少々勝手がちがってまごついた。
黒木 体力はできていると思うのです。だからトレーニングの遅れは心配していない。あとは一日も早くチームになじむだけです。二月七日から卒業試験がありますが、その間も都農でトレーニングはつづけるつもりです。
このコンビ、西鉄の二、三塁を固めるのはいつのことだろう。